『境界線の濁流』

かおるこ

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第三話:感覚の暴走

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第三話:感覚の暴走

世界が、牙を剥き始めた。

昨日まで「不快」だったものは、もう違う。

それは明確な暴力となって、蓮を襲っていた。

処方された薬は、蓮の意識を薄い膜の向こうへ押しやった。
思考は鈍く、焦点が合わない。

だが、その鈍さが逆に五感を剥き出しにしていた。

むき出しになった神経へ、世界が直接触れてくる。

カチ。

壁の掛け時計が鳴った。

その音が、鼓膜を直接叩いた。

カチ。

カチ。

カチ。

一秒ごとに、頭蓋骨の内側で何かが破裂する。

「……うるさい」

蓮は耳を塞いだ。

床に崩れ落ちる。

だが意味はなかった。

音は耳からではない。

頭の中で鳴っている。

カチ。

カチ。

カチ。

時計の音と心臓の鼓動が重なった。

全身の血が逆流するような吐き気が込み上げる。

それだけではない。

天井の蛍光灯が唸っていた。

微かな振動。

だが蓮には、それが刃物のように感じられる。

光が、刺さる。

視神経を焼く。

露出した腕の皮膚がじりじりと焦げる。

「熱い……」

蓮は顔を伏せた。

光が痛い。

音が痛い。

空気が痛い。

部屋に充満したゴミの臭いが、鼻の奥を突き刺した。

腐敗臭が針になり、肺の奥まで刺さる。

息をするだけで吐きそうになる。

蓮は逃げた。

クローゼットへ。

暗い場所。

埃と湿気。

そして、影が濃い場所。

そこに身体を押し込む。

だが、通りの車の音が壁を突き抜けてくる。

ゴォォォ……

地鳴り。

濁流。

蓮は耳を塞いだ。

世界が壊れている。

いや。

壊れているのは自分だ。

その地獄の中で。

唯一、細い糸のように残っていたのが、大学時代の友人――

健二だった。

---

「蓮、お前……大丈夫か?」

喫茶店は暗かった。

駅前の喧騒から離れた、小さな店。

だがそれでも蓮にはうるさすぎた。

健二の声さえノイズに聞こえる。

スピーカーのハウリングのように耳に刺さる。

蓮はアイスコーヒーのグラスを両手で握った。

氷が触れ合う。

カラン。

その音が神経を削る。

「……病院には行ってる」

蓮はゆっくり言った。

「薬も飲んでる」

健二は眉をしかめた。

「その薬、本当に効いてるのか?」

蓮の顔を見つめる。

「顔色、やばいぞ」

そして言葉が止まった。

健二は、蓮の視線の先を見た。

何もない壁。

だが蓮には違って見えた。

壁が膨らんでいる。

呼吸するように。

歪んでいる。

そして、その隙間から。

黒い指が伸びていた。

健二の肩へ。

ゆっくり。

ゆっくりと。

「健二」

蓮は囁いた。

「動くな」

「は?」

「そこにいる」

健二は眉をひそめる。

「何が」

「黒いのが」

蓮の声は震えていた。

「お前の後ろに」

健二は黙った。

次の瞬間。

蓮は立ち上がった。

「どけ!」

テーブルを叩く。

グラスが倒れた。

コーヒーがテーブルクロスを汚す。

周囲の客が振り向く。

ざわめき。

視線。

ヒソヒソ声。

それらが一斉に蓮へ向いた。

声が重なる。

意味を失った音。

巨大な波。

濁流。

「蓮、落ち着け!」

健二が肩を掴んだ。

その瞬間。

蓮は見てしまった。

健二の顔が歪む。

水面のように。

ぐにゃりと。

瞳の奥に。

川が流れていた。

濁流が。

「触るな!」

蓮は健二を振り払った。

沈黙が落ちる。

健二は蓮を見ていた。

その顔には困惑と。

そして。

嫌悪が浮かんでいた。

「……蓮」

声が低くなる。

「お前の目」

蓮は固まった。

「怖いよ」

健二は言った。

「光がない」

沈黙。

「死んだ魚みたいだ」

その言葉が胸に刺さった。

「昔のお前は普通だった」

健二は言う。

「でも今は」

蓮は震えた。

「違うんだ」

声が掠れる。

「僕には見えてるんだ」

「何がだよ!」

健二が声を荒げた。

「何もねえよ!」

店が静まり返る。

「俺には、お前が妄想に飲まれてるようにしか見えない」

健二は財布を取り出した。

千円札を置く。

立ち上がる。

「人間じゃなくなってくみたいで」

健二は振り返らなかった。

「怖いんだよ」

ドアが閉まる。

蓮は動けなかった。

コーヒーが滴る。

ボタ。

ボタ。

一滴。

また一滴。

奈落に落ちる石の音のようだった。

---

それから。

健二から連絡は来なかった。

メッセージは既読にならない。

電話は繋がらない。

現実と繋がる最後の糸が、切れた。

部屋へ戻る。

静寂。

だが、それは本当の静けさではない。

蓮の脳が音を作り始めた。

パキ。

パキパキ。

クローゼットの奥。

笑うような音。

耳を塞ぐ。

だが止まらない。

音は内側から鳴っていた。

魂を削るように。

「孤独だ」

蓮は呟いた。

声が他人の声に聞こえる。

世界からの断絶。

光も。

音も。

友も。

すべて濁流に飲み込まれた。

窓ガラスに自分の顔が映る。

瞳が濁っていた。

命の光がない。

あの日の川に浮いていた。

死んだ塊の目。

「ああ」

蓮は窓に手を触れた。

冷たい。

だが。

その冷たさだけが。

今の蓮にとって唯一の現実だった。

暗闇の隅。

影が立ち上がる。

それは静かに近づいた。

蓮の肩に触れる。

慰めるように。

あるいは。

仲間を迎えるように。

孤独という名の濁流が。

静かに。

蓮を包み込んでいった。

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