『境界線の濁流』

かおるこ

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第四話:澱(おり)の部屋

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第四話:澱(おり)の部屋

世界との接続が切れたとき、部屋は「箱」ではなく「墓」になった。

六畳一間のワンルーム。

蓮はその中心に膝を抱えて座っていた。
いつからそうしているのか、自分でも分からない。

カーテンは閉め切られている。
朝も夜も区別のつかない薄暗がりの中で、部屋だけが時間から取り残されていた。

鼻を刺すのは、腐敗の匂いだった。

数週間前のコンビニ弁当の容器。
飲み残した炭酸飲料の、甘く酸っぱい発酵臭。
湿った衣類に染みついた汗の臭い。
洗っていない身体から立ちのぼる脂の匂い。

それらすべてが混ざり合い、重く沈み、逃げ場のない「澱」となって部屋の底に溜まっている。

息を吸うだけで、肺の奥まで腐っていく気がした。

「……掃除、しなきゃ」

ひび割れた唇で、蓮はそう呟いた。

声はかすれていた。
何日もまともに喋っていないせいか、自分の声さえ他人のもののように聞こえる。

近くに転がっていた黒いゴミ袋を引き寄せる。
ビニールの擦れる音が、妙に大きく耳に刺さった。

割り箸。
カビの生えたパンの袋。
潰れたペットボトル。
中身の残った缶。

ひとつ掴むたびに、指先にぬめりが移る。
それでも蓮は無心に袋へ押し込んでいった。

ガサ、ガサ、という音がするたび、部屋のどこかで別の何かが呼応している気がした。

けれど見ないようにした。
今は何も考えない。
片付ける。
床を見えるようにする。
それだけでいい。

一時間ほど経った頃、ようやく床の半分ほどが見えた。

畳は黒ずみ、ところどころに染みが広がっていた。
それでも、さっきまでよりはましに見えた。

「……これで」

蓮はその場に崩れた。

薬のせいか、疲労のせいか、意識はそのまま暗い底へ沈んでいく。
眠りは深かったが、休息ではなかった。
泥の中を歩き続けるような、不快な夢ばかりだった。

---

目が覚めたとき、部屋は相変わらず暗かった。

朝だと思った。
だが、壁の時計は午後三時を過ぎている。

蓮はしばらく瞬きもできなかった。

「……なんで」

昨日、確かに片付けたはずだった。

床が見えていたはずだった。

だが今、部屋はまた元に戻っていた。

いや、それ以上だった。

袋に詰めたはずのゴミが、部屋中にぶちまけられている。
まるで内側から破裂したように。
空のはずのペットボトルが、なぜか液体を半分ほど残して転がっていた。
畳には黒ずんだ染みが新しく増えている。
食べ終えたはずの容器には、湿った残飯がこびりついていた。

蓮は喉を鳴らした。

「僕が……やったのか」

寝ぼけて、自分で袋を破いたのか。

そう考えようとした。

だが、記憶がなかった。

掌を見る。

爪の間に茶色い汚れが詰まっている。
けれど、それが何の汚れなのか、考えたくなかった。

立ち上がろうとして、足が何かに触れた。

ぬるり、とした感触。

蓮は息を止めた。

視線を落とす。

腐ったバナナの皮が、床に押し潰されていた。
まるで、ついさっき誰かがその上を踏みつけたみたいに。

その瞬間。

背中に、氷の刃を滑らせたような感覚が走った。

玄関を見る。

チェーンはかかったままだった。
鍵も閉まっている。

窓も閉じている。

なのに。

この部屋の空気は、自分ひとりのものではなかった。

匂いの層が増えている。

湿度が変わっている。

澱の濃さが、昨日よりも深くなっている。

「……誰だ」

蓮は掠れた声で言った。

「誰か、いるのか」

返事はない。

その代わり。

部屋の隅、積み上がったゴミの奥から、音がした。

クチャ。

蓮の喉がひくりと動く。

クチャ……クチャ……。

何かが湿ったものを咀嚼している音だった。
歯ではなく、もっと柔らかいもので、ゆっくりと潰しているような音。

蓮は身動きもできず、その闇を見つめた。

段ボールと黒い袋の隙間。
光の届かない場所。
空気の底。

「……そこに、いるんだろ」

声が震えた。

闇が、にじんだ。

そこから影が染み出してきた。

前に見たものより、ずっと濃い。

煤のように黒い。
だが、ただの黒ではない。
重油の膜のような鈍い光沢が、その表面をぬらぬらと滑っている。

人の形に似ていた。
似ているだけだった。

輪郭はたえず波打ち、崩れ、持ち直す。
まるで水の中の海藻が、人のかたちを真似ようとしているようだった。

「お前が……散らかしたのか」

蓮は言った。

影は答えない。

代わりに、またクチャリと鳴いた。

蓮は見た。

影の手のようなものが伸びる。
床に落ちた食べ残しのパンに触れる。
次の瞬間、それは闇に吸い込まれるように消えていた。

「やめろ」

蓮の声が裏返る。

「ここは……僕の部屋だ」

喉が締まる。

「出ていけ!」

手近にあった雑誌を掴み、投げつける。

雑誌は影をすり抜け、壁に当たって落ちた。

乾いた音がした。

影がゆっくりと、顔らしき部分をこちらへ向ける。

目も鼻もない。

なのに蓮は、その空洞に「飢え」を見た。

底のない飢えだった。

食べても満ちない。
片付けても終わらない。
腐っていくものを、もっと腐らせたがるような飢え。

「あ……」

蓮の視界が揺れた。

感覚が一気に膨れ上がる。

腐敗臭が強くなる。
鼻の奥に入り込むだけではない。
意志を持った生き物みたいに、喉の奥を掻き回してくる。

壁のシミが蠢く。

黒い点になる。

それが無数の虫となって、畳の上をざわざわと這い始める。

床の隙間からは、あの川の水がにじみ出していた。
茶色く濁った冷たい水が、足首をゆっくりと包む。

「ヒ……」

笑い声が聞こえた。

「ヒ、ヒヒ……」

自分のものか、影のものか分からない。

影は蓮を見ていた。

そして長い指先を、黒いゴミ袋に当てた。

ゆっくりと。

まるで皮膚を裂くみたいに。

ザリッ。

嫌な音がした。

袋が割ける。

中から生ゴミが溢れ出す。
湿ったティッシュ。
腐った残飯。
液の染みた紙容器。

「あああ!」

蓮は叫んだ。

「やめてくれ!」

床に這いつくばる。
散らばったものを両手でかき集める。

「綺麗にしたいんだ」

涙と鼻水で顔がぐしゃぐしゃになる。

「僕は、普通に……普通になりたいんだ……!」

だが集めても、集めても、追いつかない。

影はそれを見ていた。

散らかし、汚し、腐らせる。

まるで蓮の絶望そのものを育てているみたいに。

蓮の手はごみ汁で濡れ、掌に不快な熱を残した。
息をするたび、腐臭が肺に沈む。

「お前は……」

蓮は顔を上げた。

影はそこにいた。

「お前は、僕なのか」

言葉が落ちる。

「僕の中の汚いものが、外に出てるだけなのか」

喉が震える。

「先生が言ったみたいに、これは僕の脳が作ってる……僕自身の一部なのか」

その瞬間だった。

部屋中で音が弾けた。

パキパキパキパキパキパキ!!

壁が鳴る。
床が鳴る。
天井が鳴る。

耳を塞いでも意味がない。
音は頭の内側で割れていた。

「うるさい!」

蓮は両耳を押さえ、床に額を擦りつけた。

ゴミの匂い。
泥の匂い。
自分の汗の匂い。

それらすべてが混ざり合い、蓮自身がこの部屋に溜まった「澱」になっていくようだった。

もう掃除では追いつかない。

片付けても無駄だ。

この部屋は、ただの部屋ではない。

蓮の精神を映す鏡であり、
怪異が根を張った巣であり、
腐敗と孤独の底だった。

音が止む。

静寂が落ちる。

その静寂の中で、影が動いた。

気づけば、蓮のすぐ背後にいた。

冷たい腕のようなものが、肩に回される。

重い。

湿っている。

けれど、奇妙にやさしかった。

まるで、恋人を抱くみたいに。
拒絶され続けた誰かを、やっと迎え入れるみたいに。

「……寒い」

蓮は呟いた。

そして抵抗しなかった。

影の冷たさに身体を預ける。

荒れ果てた部屋の隅で、蓮と影はゆっくり沈んでいく。

真っ黒な澱の中へ。

窓の外では、存在しないはずの濁流が、アパートの土台を削る音を立てていた。

日常という名の岸辺は、もう、どこにも見えなかった。

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