『境界線の濁流』

かおるこ

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第5話「枯れる命」

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第5話「枯れる命」

朝、妙な臭いで目が覚めた。

酸っぱいような、鉄のような、湿った泥のような匂い。
鼻の奥にまとわりついて、喉の奥がざらつく。

「……なんだよ」

蓮は毛布から顔だけ出して呟いた。
カーテンの隙間から白い朝の光が差し込んでいる。

頭が重い。
昨夜もほとんど眠れなかった。

壁を叩く音が、ずっと続いていたからだ。

――パキ。
――パキ。

木が割れるような、乾いた音。

隣の部屋かもしれない。
そう思うことにしている。

蓮はゆっくり体を起こした。

部屋は散らかっていた。
コンビニの袋、空のペットボトル、弁当の容器。
足の踏み場を探しながら床に降りる。

そのときだった。

「……え?」

視界の端に、違和感があった。

窓際。

小さな観葉植物の鉢。

蓮は数歩近づいた。

そして、立ち止まる。

「……なんだよ、これ」

葉が黒かった。

枯れている、というより――

**染まっている。**

墨汁をぶちまけたように、葉も茎も、つやのない黒。
触ると、ぱり、と音を立てて割れた。

「昨日まで……普通だったよな」

誰にともなく言う。

指先に、粉のような黒がついた。
土からも、同じ匂いがしている。

湿った泥の匂い。

蓮は顔をしかめた。

「おい……」

もちろん返事はない。

それでも、つい声をかけてしまう。

「……お前、死んだのか?」

言った瞬間、胸の奥が少しだけ痛んだ。

この部屋で、生きているものは少ない。
植物は、そのひとつだった。

蓮はため息をつき、鉢を持ち上げる。

軽い。

土が乾ききっているのかと思ったが、
指を差し込むと、逆にぬるりと湿っていた。

泥のようだ。

「……気持ち悪いな」

鉢を置き直した瞬間。

ぶく、と音がした。

「……?」

振り返る。

金魚の水槽だった。

机の上の、小さなガラスの水槽。
中には三匹の金魚がいる。

いた、はずだった。

蓮はゆっくり近づく。

そして、覗き込んだ。

「……うわ」

水が濁っている。

茶色い。

底が見えないほど。

「なんだよこれ……」

顔をしかめながら、水槽に顔を寄せる。

鼻を刺す匂い。

腐った水。

その中で、白いものが浮いていた。

金魚だった。

腹を上にして、力なく漂っている。

一匹。

二匹。

三匹。

全部だ。

「……おい」

思わず声が出る。

「おい、ちょっと待てよ」

指で水槽を叩く。

コン、と鈍い音。

もちろん、動かない。

「昨日……普通に泳いでただろ」

声がかすれる。

水面がゆっくり揺れた。

その下で、金魚の目が濁っている。

「……嘘だろ」

蓮は水槽の蓋を開けた。

臭いが一気に広がる。

思わず顔をそむける。

「くさ……」

それでも、もう一度中を見る。

水が、ゆっくりと揺れている。

まるで――

**流れているみたいに。**

蓮の喉がひくりと動いた。

茶色い濁り。

渦のような揺れ。

その色。

その動き。

どこかで見た。

「……あ」

思い出す。

小学校の通学路。

あの朝。

道いっぱいに流れていた

**濁った川。**

「……違う」

蓮は首を振る。

「ただの水だろ」

手を入れる。

ぬるい。

そして、ざらつく。

砂のような感触。

「なんで……」

手を引き上げると、指が茶色く濁っていた。

泥だ。

「なんで泥なんだよ」

水道水のはずだろ。

昨日、替えたばかりなのに。

蓮は蛇口の方を見る。

台所は静かだ。

水は出ていない。

それなのに。

水槽の水は、

**ゆっくり流れている。**

ちゃぷ。

ちゃぷ。

小さな音。

まるで遠くの川の音。

「……やめろ」

誰に言ったのか、自分でもわからない。

そのときだった。

ぽたり。

足元で音がした。

蓮は視線を落とす。

床。

フローリングの上。

小さな水滴。

ぽたり。

もう一滴。

「……?」

さらに一歩下がる。

靴下が濡れた。

冷たい。

蓮は息を止めた。

床の上に、水が広がっている。

どこから?

天井を見上げる。

乾いている。

壁も。

それなのに。

水は増えている。

じわじわと。

まるで

**染み出しているみたいに。**

「……嘘だろ」

蓮の声は震えていた。

足元の水は、透明ではない。

うすく茶色い。

泥の色。

「……やめろ」

心臓が速くなる。

どく、どく、と耳の奥で鳴る。

水は、靴下を濡らし、

足首に触れ、

じわじわ広がる。

「やめろって……!」

蓮は後ろへ下がった。

そのとき。

背後で、

パキ。

壁が鳴った。

蓮は振り向く。

部屋の隅。

ゴミ袋の山。

その奥。

そこに、

影があった。

黒い。

濃い。

人の形にも見える。

「……お前」

声がかすれる。

影は動かない。

ただ、

少しだけ

**揺れている。**

まるで水面の影みたいに。

蓮の足元で、

ちゃぷ。

水が揺れた。

蓮は影を見つめたまま、呟いた。

「……お前が、やったのか」

沈黙。

部屋の匂いは、ますます濃くなる。

泥。

腐った水。

死んだ魚。

影は答えない。

ただ、

ゆっくり、

ほんの少しだけ、

**大きくなった。**

蓮の足元の水たまりは、

静かに広がり続けていた。

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