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第10話 数え終えたので、前を向きます
第10話 数え終えたので、前を向きます
春の空気は、やわらかく乾いていた。
窓を開けると、淡い風がカーテンを揺らす。
土の匂いと、かすかな花の香り。
胸に入る空気が、どこまでも軽い。
「……こんなに、静かでしたかしら」
セレナは小さく呟く。
机の上には、あの帳面。
角が少しだけ擦れている。
手に取る。
紙の感触は、変わらない。
けれど——
(もう、重くはない)
指先に伝わるのは、ただの重さだけだった。
◇
「セレナ」
呼ばれて顔を上げると、兄のアーヴィンが立っていた。
「出かける準備はいいか」
「ええ」
セレナは頷く。
「少し緊張いたしますわ」
「必要ない」
アーヴィンは淡々と言う。
「相手は人を見る目がある」
その一言に、余計な装飾はなかった。
「紹介するだけだ。後はお前が決めればいい」
「……はい」
セレナは静かに立ち上がる。
ドレスの裾が、軽く揺れる。
◇
石造りの建物は、ひんやりとした空気を保っていた。
厚い扉。
整然と並ぶ書架。
紙とインクの匂いが、静かに広がる。
「こちらです」
案内された部屋に入る。
そこには一人の男がいた。
「お待ちしておりました」
低く、落ち着いた声。
「ディオンと申します」
視線はまっすぐで、余計な探りがない。
「セレナでございます」
軽く会釈する。
椅子に座ると、木の軋む音が小さく響く。
◇
「……監査院に関わるお仕事と伺っております」
セレナが口を開く。
「はい」
ディオンは頷く。
「主に記録と検証です」
「記録」
その言葉に、ほんのわずかに指先が動く。
「事実を整理し、判断の基準とする」
淡々とした説明。
「曖昧さを排除するためのものです」
セレナは一瞬だけ息を止める。
(同じ)
形は違う。
だが、本質は同じだった。
「……拝見してもよろしいですか」
ディオンが言う。
視線が、机の上に置かれた帳面へ向く。
セレナは少しだけ迷う。
ほんの、一瞬だけ。
だが、すぐに手を伸ばす。
「どうぞ」
差し出す。
ディオンはそれを受け取り、静かに開く。
ページをめくる音が、規則正しく響く。
◇
沈黙。
長くも短くもない時間。
ディオンの視線は、ぶれない。
ただ、読み取っている。
一行ずつ。
積み重ねを。
「……なるほど」
やがて、小さく呟く。
「分類も整理も、無駄がない」
「ありがとうございます」
「感情は入れていない」
「はい」
「それでも、意図は明確です」
ページを閉じる。
「これは、記録として成立しています」
その言葉に、胸の奥がわずかに動く。
「……そう、でしょうか」
「ええ」
ディオンははっきりと言う。
「そして」
一瞬だけ間を置く。
「あなたは、怒りに任せず、事実を守ったのですね」
その一言が、静かに落ちる。
◇
セレナは、言葉を返せない。
胸の奥に、何かが広がる。
それは、これまで感じたことのない種類のものだった。
(怒りではない)
(悲しみでもない)
ただ——
認められた、という感覚。
「……わたくしは」
ようやく口を開く。
「間違っておりませんでしたか」
声は小さい。
だが、確かだった。
「ええ」
ディオンは迷いなく頷く。
「これは執念ではありません」
その言葉が、はっきりと響く。
「技術です」
「技術……」
繰り返す。
「自分を守るための」
その定義が、胸に落ちる。
ゆっくりと。
確かに。
◇
帰り道。
空は高く、雲が薄く流れている。
風が頬を撫でる。
その感触が、どこか新しい。
「どうだった」
アーヴィンが横で問う。
「……少し、驚きました」
セレナは正直に答える。
「何にだ」
「同じものを、違う言葉で説明されることに」
兄が小さく笑う。
「評価されたということだ」
「……そう、ですわね」
セレナは頷く。
歩く足取りが、わずかに軽い。
◇
夜。
部屋の中は、柔らかな灯りに包まれている。
机の上に、帳面を置く。
最後のページを開く。
白い余白。
そこに、ペンを置く。
インクが、静かに滲む。
書く。
二十七回。
少しだけ、手を止める。
そして続ける。
これにて記録を終える。
ペンを置く。
音は、ほんのわずか。
だが、それは確かな終わりだった。
◇
帳面を閉じる。
指先に、紙の感触が残る。
もう開くことはない。
(終わった)
その実感が、静かに広がる。
セレナは立ち上がる。
引き出しを開ける。
中から、新しいノートを取り出す。
表紙は、まだ何も書かれていない。
ページを開く。
白い。
まっさらな余白。
ペンを取る。
少しだけ、考える。
そして——
書く。
来週の予定。
面会。
書類確認。
新しい依頼。
言葉が、前を向いている。
◇
窓の外では、風がやわらかく流れている。
もう、数える必要はない。
もう、耐える必要もない。
ただ——
選ぶだけでいい。
セレナは小さく息を吸う。
空気は軽く、澄んでいた。
新しいページの上に、ペンを走らせる。
その音は、静かで。
そして確かに、前へ進んでいた。
春の空気は、やわらかく乾いていた。
窓を開けると、淡い風がカーテンを揺らす。
土の匂いと、かすかな花の香り。
胸に入る空気が、どこまでも軽い。
「……こんなに、静かでしたかしら」
セレナは小さく呟く。
机の上には、あの帳面。
角が少しだけ擦れている。
手に取る。
紙の感触は、変わらない。
けれど——
(もう、重くはない)
指先に伝わるのは、ただの重さだけだった。
◇
「セレナ」
呼ばれて顔を上げると、兄のアーヴィンが立っていた。
「出かける準備はいいか」
「ええ」
セレナは頷く。
「少し緊張いたしますわ」
「必要ない」
アーヴィンは淡々と言う。
「相手は人を見る目がある」
その一言に、余計な装飾はなかった。
「紹介するだけだ。後はお前が決めればいい」
「……はい」
セレナは静かに立ち上がる。
ドレスの裾が、軽く揺れる。
◇
石造りの建物は、ひんやりとした空気を保っていた。
厚い扉。
整然と並ぶ書架。
紙とインクの匂いが、静かに広がる。
「こちらです」
案内された部屋に入る。
そこには一人の男がいた。
「お待ちしておりました」
低く、落ち着いた声。
「ディオンと申します」
視線はまっすぐで、余計な探りがない。
「セレナでございます」
軽く会釈する。
椅子に座ると、木の軋む音が小さく響く。
◇
「……監査院に関わるお仕事と伺っております」
セレナが口を開く。
「はい」
ディオンは頷く。
「主に記録と検証です」
「記録」
その言葉に、ほんのわずかに指先が動く。
「事実を整理し、判断の基準とする」
淡々とした説明。
「曖昧さを排除するためのものです」
セレナは一瞬だけ息を止める。
(同じ)
形は違う。
だが、本質は同じだった。
「……拝見してもよろしいですか」
ディオンが言う。
視線が、机の上に置かれた帳面へ向く。
セレナは少しだけ迷う。
ほんの、一瞬だけ。
だが、すぐに手を伸ばす。
「どうぞ」
差し出す。
ディオンはそれを受け取り、静かに開く。
ページをめくる音が、規則正しく響く。
◇
沈黙。
長くも短くもない時間。
ディオンの視線は、ぶれない。
ただ、読み取っている。
一行ずつ。
積み重ねを。
「……なるほど」
やがて、小さく呟く。
「分類も整理も、無駄がない」
「ありがとうございます」
「感情は入れていない」
「はい」
「それでも、意図は明確です」
ページを閉じる。
「これは、記録として成立しています」
その言葉に、胸の奥がわずかに動く。
「……そう、でしょうか」
「ええ」
ディオンははっきりと言う。
「そして」
一瞬だけ間を置く。
「あなたは、怒りに任せず、事実を守ったのですね」
その一言が、静かに落ちる。
◇
セレナは、言葉を返せない。
胸の奥に、何かが広がる。
それは、これまで感じたことのない種類のものだった。
(怒りではない)
(悲しみでもない)
ただ——
認められた、という感覚。
「……わたくしは」
ようやく口を開く。
「間違っておりませんでしたか」
声は小さい。
だが、確かだった。
「ええ」
ディオンは迷いなく頷く。
「これは執念ではありません」
その言葉が、はっきりと響く。
「技術です」
「技術……」
繰り返す。
「自分を守るための」
その定義が、胸に落ちる。
ゆっくりと。
確かに。
◇
帰り道。
空は高く、雲が薄く流れている。
風が頬を撫でる。
その感触が、どこか新しい。
「どうだった」
アーヴィンが横で問う。
「……少し、驚きました」
セレナは正直に答える。
「何にだ」
「同じものを、違う言葉で説明されることに」
兄が小さく笑う。
「評価されたということだ」
「……そう、ですわね」
セレナは頷く。
歩く足取りが、わずかに軽い。
◇
夜。
部屋の中は、柔らかな灯りに包まれている。
机の上に、帳面を置く。
最後のページを開く。
白い余白。
そこに、ペンを置く。
インクが、静かに滲む。
書く。
二十七回。
少しだけ、手を止める。
そして続ける。
これにて記録を終える。
ペンを置く。
音は、ほんのわずか。
だが、それは確かな終わりだった。
◇
帳面を閉じる。
指先に、紙の感触が残る。
もう開くことはない。
(終わった)
その実感が、静かに広がる。
セレナは立ち上がる。
引き出しを開ける。
中から、新しいノートを取り出す。
表紙は、まだ何も書かれていない。
ページを開く。
白い。
まっさらな余白。
ペンを取る。
少しだけ、考える。
そして——
書く。
来週の予定。
面会。
書類確認。
新しい依頼。
言葉が、前を向いている。
◇
窓の外では、風がやわらかく流れている。
もう、数える必要はない。
もう、耐える必要もない。
ただ——
選ぶだけでいい。
セレナは小さく息を吸う。
空気は軽く、澄んでいた。
新しいページの上に、ペンを走らせる。
その音は、静かで。
そして確かに、前へ進んでいた。
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