『65歳、延長雇用を終えた日、妻に離婚届を渡された ― 未婚男性の死亡中央値67.2歳から始まる、僕の再就職人生 ―』

かおるこ

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67.2歳まで、あと少し

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67.2歳まで、あと少し

花束は、思ったより軽かった。
四十年の会社生活の重さに比べれば、
紙とリボンの重さしかなかった。

「お疲れさまでした」

拍手は、
すぐに止んだ。

帰りの電車の窓に映る顔は、
もう「部長」ではなく、
ただの六十五歳の男だった。

玄関を開けると、
食卓の上に
一枚の紙が置いてあった。

離婚届。

「あなたの定年まで、待ってたの」

妻はそう言った。
声は、
もう怒っていなかった。

長い間、
怒ることも疲れた人の声だった。

その夜、
スマートフォンの小さな画面に
数字が浮かんだ。

**独身男性の死亡中央値 67.2歳**

六十五歳。

あと、
二年と、少し。

それは
未来ではなく、
期限のように見えた。

冷蔵庫のモーター音。
空の茶碗。
湯気のない味噌汁。

こんな音を、
俺は
二十五年も聞かなかったのか。

いや。

聞こうと
しなかっただけだ。

会社の会議室で、
売上の数字を並べながら、
家の時間を
どこかに置き忘れていた。

次の日、
六畳一間のアパートで
米を研いだ。

白い粒が
指の間をすべる。

こんな小さな作業を
知らずに
六十五年生きてきた。

卵を割る。

殻が落ちる。

菜箸が震える。

ジュッ、と
フライパンが鳴る。

焦げた匂いが
部屋に広がる。

「……悪いな、焦げた」

皿を差し出すと
小さな声が言った。

「おいしいよ」

その二文字で、
喉が焼けた。

会社で
何度も感謝された。

「部長のおかげです」
「さすがですね」

でも。

卵焼き一つで
こんなに胸が痛くなることは
なかった。

焦げた甘さ。
少しの苦味。

それは
俺の人生の味だった。

67.2歳。

その数字は
まだそこにある。

でも今は
少しだけ違う意味に見える。

期限じゃない。

境界線だ。

そこまでに
あと何回
卵を割れるだろう。

あと何回
誰かに
「おいしい」と
言ってもらえるだろう。

夕方のスーパーで
100円のコーヒーを買う。

湯気が
冬の空気に溶ける。

小さくすすって
思う。

「……贅沢だな」

一億円なんて
いらない。

肩書きも
拍手も
いらない。

ただ、

今日
飯を炊けて、

誰かが
それを食べて、

夜に
眠れるなら。

六十五歳。

人生は
終わりじゃなかった。

ようやく
始まっただけだった。

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