『65歳、延長雇用を終えた日、妻に離婚届を渡された ― 未婚男性の死亡中央値67.2歳から始まる、僕の再就職人生 ―』

かおるこ

文字の大きさ
2 / 22

第1話 花束と離婚届

しおりを挟む
第1話 花束と離婚届

「立石さん、本当に長い間ありがとうございました」

拍手が、ぱらぱらと会議室の壁に跳ねた。
乾いた音だった。大きくもなく、かといって冷たいわけでもない。ただ、終わりの音だった。

立石恒一は立ち上がり、ぎこちなく頭を下げる。

「いや……こちらこそ」

自分の声が少し掠れているのがわかった。

テーブルの上に置かれた花束を受け取る。白い百合と、薄いピンクのカーネーション。リボンが少しきつく結ばれていて、指先に硬さが残る。

隣の若い課長が笑いながら言った。

「立石さんがいなくなると、営業部も寂しくなりますよ」

「そんなこと言って、来週には忘れるだろ」

恒一は笑ってみせる。
周囲も笑う。

だが、その笑いの奥で、胸の奥にぽっかり穴が空く感覚があった。

四十年。
いや、正確には四十二年と三ヶ月。

延長雇用の二年が終わり、今日で会社人生は完全に終わった。

机の上には、私物が入った段ボール。
マグカップ、古い手帳、ボールペン、名刺入れ。

名刺入れを開くと、もう配る相手はいないことに気づく。

「部長」

と呼ばれることも、もうない。

エレベーターの扉が閉まるとき、若い社員が手を振った。

「立石さん、お元気で!」

「おう」

恒一は手を上げる。

ガラスの扉が閉まり、会社のロビーが遠ざかる。
百合の匂いが、鼻の奥に残っている。

外は少し冷たい風だった。
夕方の空気が、スーツの隙間から入り込む。

「……終わったな」

自分でも気づかないほど小さな声だった。

電車に揺られながら、花束を膝に置く。
向かいの席の高校生がスマホを見て笑っている。イヤホンから音漏れがして、シャカシャカとリズムが響く。

窓に映る自分の顔を見た。

思ったより老けていた。

六十五歳。
肩書きが消えた顔だった。

家に着く頃には、空はすっかり暗くなっていた。

玄関の鍵を回す。
金属の音が、やけに大きく響く。

「ただいま」

返事はない。

靴を脱ぎ、廊下を歩く。
台所から、ほのかに煮物の匂いがする。だが、温かい湯気の匂いではない。冷えた醤油の匂いだった。

食卓の上に、皿が三つ。

味噌汁。
煮物。
ご飯。

どれも湯気がない。

その横に、一枚の紙が置かれていた。

白い紙。
見慣れた書式。

恒一は眉をひそめる。

「なに、これ……」

紙を持ち上げた瞬間、心臓が一度、強く打った。

離婚届。

ペンが添えてある。

キッチンから声がした。

「離婚届」

振り向くと、志保が流し台に立っていた。背中を向けたまま、スポンジで皿を洗っている。

水の音が、さらさらと続く。

「明日じゃなくて、今日がいいと思って」

恒一は、思わず笑った。

「冗談だろ」

皿を置く音が止まる。

志保は振り向いた。
表情は、驚くほど静かだった。

「冗談で二十五年待たないわ」

その言葉は、包丁の刃みたいに真っ直ぐだった。

恒一は椅子に腰を下ろす。

「……何言ってるんだ」

志保は手を拭きながら言う。

「あなたの定年まで待ってたの」

「定年?」

「退職金も出たし、ローンも終わったでしょ。子どもも独立した」

淡々とした声だった。

「条件が全部揃ったから」

恒一は、言葉が出ない。

志保は椅子に座らない。
食卓の横に立ったまま続ける。

「私はもう」

少しだけ間を置く。

「あなたの世話をするために、残りの人生を使いたくないの」

その瞬間、百合の匂いが急に強く感じられた。

甘い。
むせるほど甘い。

「世話って……」

「洗濯、掃除、食事、手続き、親の介護、子どもの学校」

志保の声は静かだった。

「全部、誰がやってたと思う?」

恒一は答えない。

いや、答えられない。

時計の秒針が、やけに大きく聞こえる。

カチ、カチ、カチ。

「……急すぎるだろ」

ようやく絞り出した声だった。

志保は首を振る。

「急じゃない」

そして、小さく笑った。

「二十五年かけて決めたの」

その夜、恒一は寝室に入らなかった。

居間のソファに横になる。
スプリングが軋む。

天井を見つめる。
暗い。

志保の足音が遠くで聞こえる。
ドアが閉まる音。

それで、この家は二つに割れた。

眠れない。

恒一はスマホを手に取る。

ニュースを流し読みする。
政治、株価、事故、芸能。

指が止まった。

小さな記事。

**「独身男性の死亡中央値 67.2歳」**

恒一は画面を拡大する。

六十五歳。

数字を指でなぞる。

67.2

「……あと、二年ちょっと?」

声が出た。

部屋は暗い。
冷蔵庫のモーター音だけが低く唸っている。

胸の奥が、じわりと冷たくなる。

会社は終わった。
妻もいなくなる。

そして、統計では。

自分の人生は、あと二年。

スマホの光が顔を照らす。

百合の花束が、テーブルの上で白く光っていた。

その匂いが、夜の部屋いっぱいに広がっている。

甘い。

甘すぎる。

恒一は目を閉じる。

そのとき初めて、
本当に死が近くに立っている気がした。

しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

あなたが愛人を作るのなら

あんど もあ
ファンタジー
結婚して八年の夫が、愛人を作った。それも私の推しの女優を! 「君と違って彼女には才能がある」と言う。ならば、私も才能のある愛人を持つ事にいたしましょう。愛人の才能を花開かせる事が出来るのはどちら?

三年分の涙を飲み込んで離婚を決めた私に、今さら愛してると言わないでください

まさき
恋愛
「別れてください」 笑顔で、声を震わせずに、澄花はそう言った。 三年間、夫の隣に立ち続けた。残業続きの夫を待ち、不満を飲み込み、完璧な妻を演じた。幼なじみの麗奈が現れるまでは、それが愛だと信じていた。 嫉妬も、怒りも、とうに泣き尽くしていた。残ったのは、静かな決意だけだった。 離婚届を差し出した翌朝、夫・誠は初めて泣いた。 ――遅すぎる。三年分、遅すぎる。 幼なじみに夫を奪われかけた妻が、すべてを手放す覚悟をしたとき、夫はようやく目を覚ます。泣き終わった女の強さと、取り戻せないものの重さを描く、夫婦の崩壊と再生の物語。

あなたへの愛を捨てた日

柴田はつみ
恋愛
公爵夫人エステルは、冷徹な夫レオニスを心から愛していた。彼の好みを調べ、帰宅を待ちわび、献身的に尽くす毎日。 しかし、ある夜会の回廊で、エステルは残酷な真実を知る。 レオニスが、未亡人クラリスの手を取り囁いていたのだ。 「君のような(自立した)女性が、私の隣にいるべきだった」 エステルは悟る。自分の愛は彼にとって「重荷」であり、自分という人間は彼にとって「不足」だったのだと。その瞬間、彼女の中で何かが音を立てて砕け散る。

愚か者たちの婚約破棄

あんど もあ
ファンタジー
ライラは、父と後妻と妹だけが家族のような侯爵家で居候のように生きてきた。そして、卒業パーティーでライラの婚約者までライラでは無く妹と婚約すると宣言する。侯爵家の本当の姿に気づいているのがライラだけだと知らずに……。

「では、ごきげんよう」と去った悪役令嬢は破滅すら置き去りにして

東雲れいな
恋愛
「悪役令嬢」と噂される伯爵令嬢・ローズ。王太子殿下の婚約者候補だというのに、ヒロインから王子を奪おうなんて野心はまるでありません。むしろ彼女は、“わたくしはわたくしらしく”と胸を張り、周囲の冷たい視線にも毅然と立ち向かいます。 破滅を甘受する覚悟すらあった彼女が、誇り高く戦い抜くとき、運命は大きく動きだす。

旦那様は、幼馴染との真実の愛に目覚めたらしいです。

睡蓮
恋愛
ルーグ第一王子はナータリアとの婚約関係を築き、二人の関係は貴族会から非常に好印象であった。しかしある日、ルーグは自身の幼馴染であるリーフォとの真実の愛に目覚めたと言い始め、ナータリアの事を婚約破棄してしまう。ルーグとリーフォは互いに新たな婚約者としての関係を築こうとしか考えていなかったものの、次第にその関係は険しいものとなっていく。それは、ナータリアの事を婚約破棄したことにあるきっかけがあったからなのだが…。

勝手にしろと言われたので、勝手にさせていただきます

結城芙由奈@コミカライズ連載中
恋愛
子爵家の私は自分よりも身分の高い婚約者に、いつもいいように顎でこき使われていた。ある日、突然婚約者に呼び出されて一方的に婚約破棄を告げられてしまう。二人の婚約は家同士が決めたこと。当然受け入れられるはずもないので拒絶すると「婚約破棄は絶対する。後のことなどしるものか。お前の方で勝手にしろ」と言い切られてしまう。 いいでしょう……そこまで言うのなら、勝手にさせていただきます。 ただし、後のことはどうなっても知りませんよ? * 他サイトでも投稿 * ショートショートです。あっさり終わります

報われない恋の行方〜いつかあなたは私だけを見てくれますか〜

矢野りと
恋愛
『少しだけ私に時間をくれないだろうか……』 彼はいつだって誠実な婚約者だった。 嘘はつかず私に自分の気持ちを打ち明け、学園にいる間だけ想い人のこともその目に映したいと告げた。 『想いを告げることはしない。ただ見ていたいんだ。どうか、許して欲しい』 『……分かりました、ロイド様』 私は彼に恋をしていた。だから、嫌われたくなくて……それを許した。 結婚後、彼は約束通りその瞳に私だけを映してくれ嬉しかった。彼は誠実な夫となり、私は幸せな妻になれた。 なのに、ある日――彼の瞳に映るのはまた二人になっていた……。 ※この作品の設定は架空のものです。 ※お話の内容があわないは時はそっと閉じてくださいませ。

処理中です...