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第1話 花束と離婚届
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第1話 花束と離婚届
「立石さん、本当に長い間ありがとうございました」
拍手が、ぱらぱらと会議室の壁に跳ねた。
乾いた音だった。大きくもなく、かといって冷たいわけでもない。ただ、終わりの音だった。
立石恒一は立ち上がり、ぎこちなく頭を下げる。
「いや……こちらこそ」
自分の声が少し掠れているのがわかった。
テーブルの上に置かれた花束を受け取る。白い百合と、薄いピンクのカーネーション。リボンが少しきつく結ばれていて、指先に硬さが残る。
隣の若い課長が笑いながら言った。
「立石さんがいなくなると、営業部も寂しくなりますよ」
「そんなこと言って、来週には忘れるだろ」
恒一は笑ってみせる。
周囲も笑う。
だが、その笑いの奥で、胸の奥にぽっかり穴が空く感覚があった。
四十年。
いや、正確には四十二年と三ヶ月。
延長雇用の二年が終わり、今日で会社人生は完全に終わった。
机の上には、私物が入った段ボール。
マグカップ、古い手帳、ボールペン、名刺入れ。
名刺入れを開くと、もう配る相手はいないことに気づく。
「部長」
と呼ばれることも、もうない。
エレベーターの扉が閉まるとき、若い社員が手を振った。
「立石さん、お元気で!」
「おう」
恒一は手を上げる。
ガラスの扉が閉まり、会社のロビーが遠ざかる。
百合の匂いが、鼻の奥に残っている。
外は少し冷たい風だった。
夕方の空気が、スーツの隙間から入り込む。
「……終わったな」
自分でも気づかないほど小さな声だった。
電車に揺られながら、花束を膝に置く。
向かいの席の高校生がスマホを見て笑っている。イヤホンから音漏れがして、シャカシャカとリズムが響く。
窓に映る自分の顔を見た。
思ったより老けていた。
六十五歳。
肩書きが消えた顔だった。
家に着く頃には、空はすっかり暗くなっていた。
玄関の鍵を回す。
金属の音が、やけに大きく響く。
「ただいま」
返事はない。
靴を脱ぎ、廊下を歩く。
台所から、ほのかに煮物の匂いがする。だが、温かい湯気の匂いではない。冷えた醤油の匂いだった。
食卓の上に、皿が三つ。
味噌汁。
煮物。
ご飯。
どれも湯気がない。
その横に、一枚の紙が置かれていた。
白い紙。
見慣れた書式。
恒一は眉をひそめる。
「なに、これ……」
紙を持ち上げた瞬間、心臓が一度、強く打った。
離婚届。
ペンが添えてある。
キッチンから声がした。
「離婚届」
振り向くと、志保が流し台に立っていた。背中を向けたまま、スポンジで皿を洗っている。
水の音が、さらさらと続く。
「明日じゃなくて、今日がいいと思って」
恒一は、思わず笑った。
「冗談だろ」
皿を置く音が止まる。
志保は振り向いた。
表情は、驚くほど静かだった。
「冗談で二十五年待たないわ」
その言葉は、包丁の刃みたいに真っ直ぐだった。
恒一は椅子に腰を下ろす。
「……何言ってるんだ」
志保は手を拭きながら言う。
「あなたの定年まで待ってたの」
「定年?」
「退職金も出たし、ローンも終わったでしょ。子どもも独立した」
淡々とした声だった。
「条件が全部揃ったから」
恒一は、言葉が出ない。
志保は椅子に座らない。
食卓の横に立ったまま続ける。
「私はもう」
少しだけ間を置く。
「あなたの世話をするために、残りの人生を使いたくないの」
その瞬間、百合の匂いが急に強く感じられた。
甘い。
むせるほど甘い。
「世話って……」
「洗濯、掃除、食事、手続き、親の介護、子どもの学校」
志保の声は静かだった。
「全部、誰がやってたと思う?」
恒一は答えない。
いや、答えられない。
時計の秒針が、やけに大きく聞こえる。
カチ、カチ、カチ。
「……急すぎるだろ」
ようやく絞り出した声だった。
志保は首を振る。
「急じゃない」
そして、小さく笑った。
「二十五年かけて決めたの」
その夜、恒一は寝室に入らなかった。
居間のソファに横になる。
スプリングが軋む。
天井を見つめる。
暗い。
志保の足音が遠くで聞こえる。
ドアが閉まる音。
それで、この家は二つに割れた。
眠れない。
恒一はスマホを手に取る。
ニュースを流し読みする。
政治、株価、事故、芸能。
指が止まった。
小さな記事。
**「独身男性の死亡中央値 67.2歳」**
恒一は画面を拡大する。
六十五歳。
数字を指でなぞる。
67.2
「……あと、二年ちょっと?」
声が出た。
部屋は暗い。
冷蔵庫のモーター音だけが低く唸っている。
胸の奥が、じわりと冷たくなる。
会社は終わった。
妻もいなくなる。
そして、統計では。
自分の人生は、あと二年。
スマホの光が顔を照らす。
百合の花束が、テーブルの上で白く光っていた。
その匂いが、夜の部屋いっぱいに広がっている。
甘い。
甘すぎる。
恒一は目を閉じる。
そのとき初めて、
本当に死が近くに立っている気がした。
「立石さん、本当に長い間ありがとうございました」
拍手が、ぱらぱらと会議室の壁に跳ねた。
乾いた音だった。大きくもなく、かといって冷たいわけでもない。ただ、終わりの音だった。
立石恒一は立ち上がり、ぎこちなく頭を下げる。
「いや……こちらこそ」
自分の声が少し掠れているのがわかった。
テーブルの上に置かれた花束を受け取る。白い百合と、薄いピンクのカーネーション。リボンが少しきつく結ばれていて、指先に硬さが残る。
隣の若い課長が笑いながら言った。
「立石さんがいなくなると、営業部も寂しくなりますよ」
「そんなこと言って、来週には忘れるだろ」
恒一は笑ってみせる。
周囲も笑う。
だが、その笑いの奥で、胸の奥にぽっかり穴が空く感覚があった。
四十年。
いや、正確には四十二年と三ヶ月。
延長雇用の二年が終わり、今日で会社人生は完全に終わった。
机の上には、私物が入った段ボール。
マグカップ、古い手帳、ボールペン、名刺入れ。
名刺入れを開くと、もう配る相手はいないことに気づく。
「部長」
と呼ばれることも、もうない。
エレベーターの扉が閉まるとき、若い社員が手を振った。
「立石さん、お元気で!」
「おう」
恒一は手を上げる。
ガラスの扉が閉まり、会社のロビーが遠ざかる。
百合の匂いが、鼻の奥に残っている。
外は少し冷たい風だった。
夕方の空気が、スーツの隙間から入り込む。
「……終わったな」
自分でも気づかないほど小さな声だった。
電車に揺られながら、花束を膝に置く。
向かいの席の高校生がスマホを見て笑っている。イヤホンから音漏れがして、シャカシャカとリズムが響く。
窓に映る自分の顔を見た。
思ったより老けていた。
六十五歳。
肩書きが消えた顔だった。
家に着く頃には、空はすっかり暗くなっていた。
玄関の鍵を回す。
金属の音が、やけに大きく響く。
「ただいま」
返事はない。
靴を脱ぎ、廊下を歩く。
台所から、ほのかに煮物の匂いがする。だが、温かい湯気の匂いではない。冷えた醤油の匂いだった。
食卓の上に、皿が三つ。
味噌汁。
煮物。
ご飯。
どれも湯気がない。
その横に、一枚の紙が置かれていた。
白い紙。
見慣れた書式。
恒一は眉をひそめる。
「なに、これ……」
紙を持ち上げた瞬間、心臓が一度、強く打った。
離婚届。
ペンが添えてある。
キッチンから声がした。
「離婚届」
振り向くと、志保が流し台に立っていた。背中を向けたまま、スポンジで皿を洗っている。
水の音が、さらさらと続く。
「明日じゃなくて、今日がいいと思って」
恒一は、思わず笑った。
「冗談だろ」
皿を置く音が止まる。
志保は振り向いた。
表情は、驚くほど静かだった。
「冗談で二十五年待たないわ」
その言葉は、包丁の刃みたいに真っ直ぐだった。
恒一は椅子に腰を下ろす。
「……何言ってるんだ」
志保は手を拭きながら言う。
「あなたの定年まで待ってたの」
「定年?」
「退職金も出たし、ローンも終わったでしょ。子どもも独立した」
淡々とした声だった。
「条件が全部揃ったから」
恒一は、言葉が出ない。
志保は椅子に座らない。
食卓の横に立ったまま続ける。
「私はもう」
少しだけ間を置く。
「あなたの世話をするために、残りの人生を使いたくないの」
その瞬間、百合の匂いが急に強く感じられた。
甘い。
むせるほど甘い。
「世話って……」
「洗濯、掃除、食事、手続き、親の介護、子どもの学校」
志保の声は静かだった。
「全部、誰がやってたと思う?」
恒一は答えない。
いや、答えられない。
時計の秒針が、やけに大きく聞こえる。
カチ、カチ、カチ。
「……急すぎるだろ」
ようやく絞り出した声だった。
志保は首を振る。
「急じゃない」
そして、小さく笑った。
「二十五年かけて決めたの」
その夜、恒一は寝室に入らなかった。
居間のソファに横になる。
スプリングが軋む。
天井を見つめる。
暗い。
志保の足音が遠くで聞こえる。
ドアが閉まる音。
それで、この家は二つに割れた。
眠れない。
恒一はスマホを手に取る。
ニュースを流し読みする。
政治、株価、事故、芸能。
指が止まった。
小さな記事。
**「独身男性の死亡中央値 67.2歳」**
恒一は画面を拡大する。
六十五歳。
数字を指でなぞる。
67.2
「……あと、二年ちょっと?」
声が出た。
部屋は暗い。
冷蔵庫のモーター音だけが低く唸っている。
胸の奥が、じわりと冷たくなる。
会社は終わった。
妻もいなくなる。
そして、統計では。
自分の人生は、あと二年。
スマホの光が顔を照らす。
百合の花束が、テーブルの上で白く光っていた。
その匂いが、夜の部屋いっぱいに広がっている。
甘い。
甘すぎる。
恒一は目を閉じる。
そのとき初めて、
本当に死が近くに立っている気がした。
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