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第2話 エンジンの音
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第2話 エンジンの音
朝、目が覚めたとき、家は妙に静かだった。
いや、静かというより、音が足りない。
台所の鍋の音もない。
味噌汁の匂いもない。
テレビの朝のニュースも流れていない。
天井の白いシミを見ながら、恒一はゆっくり瞬きをした。
「……夢か?」
昨日のことが、頭の中でぼんやりしている。
花束。
離婚届。
志保の声。
二十五年待った、という言葉。
身体を起こすと、背中にソファの跡が残っていた。腰が鈍く痛む。
時計を見る。
七時四十分。
いつもなら、とっくに会社へ向かう時間だ。
だが今日は、どこへも行く場所がない。
恒一は立ち上がり、台所へ行く。
冷蔵庫を開ける。
冷たい空気が顔に当たる。
卵が二つ。
納豆。
古い漬物。
それだけ。
「……こんなもんか」
卵を手に取るが、フライパンを使う気が起きない。
結局、冷たいご飯を電子レンジで温めて、そのまま口に運んだ。
味がしない。
食べ終わっても、まだ八時過ぎだった。
テーブルの上には、昨日の離婚届がそのまま置かれている。
ペンも。
志保の姿はもうなかった。
靴箱を見ると、志保の靴がいくつか消えている。
「……本気か」
靴の匂いが、少し残っていた。
恒一はその場に立ったまま、しばらく動かなかった。
そのとき、ふと頭の奥に浮かぶものがあった。
黒いバイク。
クロームの輝き。
重いエンジンの振動。
恒一はスマホを取り出す。
予約メール。
**ハーレーダビッドソン 試乗予約**
志保と二人で行く予定だった。
ツーリングの計画。
千葉の御宿。
海を見ながら、昼飯を食う予定だった。
恒一は小さく息を吐く。
「……二人が一人になっただけの話だ」
声に出してみる。
少しだけ、胸が軽くなった気がした。
---
練馬のハーレーダビッドソンの店は、ガラス張りだった。
朝の光が、黒いバイクのボディに反射している。
金属の匂い。
革の匂い。
エンジンオイルの重い匂い。
店に入ると、若い店員が笑顔で近づいてきた。
「いらっしゃいませ」
恒一は少し戸惑いながら言う。
「ええと……試乗予約してた立石です」
「あ、立石様ですね」
タブレットを確認する。
「奥様とご一緒の予定でしたよね?」
その言葉が胸に引っかかった。
恒一は一瞬だけ黙る。
「……今日は一人です」
店員はすぐに笑顔を戻した。
「かしこまりました。こちらどうぞ」
店内には、巨大なバイクが並んでいる。
黒。
銀。
深い赤。
どれも鉄の塊みたいに重そうだ。
恒一はその一台の前で立ち止まる。
低い車体。
太いタイヤ。
タンクに書かれたロゴ。
**Harley-Davidson**
「これが試乗車です」
店員が言う。
「排気量は1868ccです」
恒一は思わず笑った。
「すごいな」
「重いですよ」
「俺の人生より軽いさ」
店員が少しだけ笑う。
革のジャケットを渡される。
袖を通すと、革がきしむ。
重い。
だが、妙に身体に馴染む。
店員が言う。
「エンジン、かけてみてください」
恒一はキーを回す。
次の瞬間。
**ドゥン。**
腹の奥に響く振動。
低い。
重い。
もう一度アクセルを回す。
**ドドドドドドドド**
空気が震える。
胸の奥まで振動が届く。
恒一は思わず笑った。
「……すごいな」
店員が言う。
「ハーレーは鼓動って言われます」
「鼓動か」
恒一はアクセルを軽く回す。
**ドドン**
身体が揺れる。
その振動の中で、昨日のことが少し遠くなった。
離婚届。
志保。
67.2歳。
全部、エンジン音に飲み込まれていく。
店員がヘルメットを渡す。
「海、行くんですか?」
「御宿」
「いいですね」
「ツーリングの予定だったんだ」
少しだけ間を置く。
「……夫婦で」
店員は何も言わない。
ただ、軽く頷く。
恒一はヘルメットをかぶる。
視界が少し狭くなる。
だが、音がはっきり聞こえる。
エンジン。
風。
鼓動。
バイクを走らせる。
道路に出る。
アクセルを回す。
**ドドドドドドド**
身体が後ろへ引っ張られる。
練馬の街が後ろへ流れる。
コンビニ。
信号。
電柱。
全部、遠ざかる。
環七を抜けて、京葉道路へ。
空が広がる。
冷たい風がジャケットの隙間から入る。
だが、気持ちいい。
久しぶりに胸いっぱい空気を吸う。
ヘルメットの中で言う。
「……志保」
声は風に消える。
千葉に入るころ、海の匂いがした。
塩の匂い。
湿った空気。
遠くに青い水平線が見える。
御宿の海岸にバイクを止める。
エンジンを切る。
突然、世界が静かになる。
波の音。
ザァ……ザァ……
砂浜に降りる。
風が強い。
海は広い。
恒一はポケットに手を入れる。
そこには、まだ離婚届が入っていた。
紙が少し折れている。
波を見ながら、恒一は小さく言う。
「……まあいいか」
空は高い。
波は同じ音を繰り返す。
昨日までの人生が、少し遠くなっている。
ポケットの紙を握りながら、恒一は思った。
二人で来るはずだった海に、
一人で来ただけだ。
それだけの話だ。
だが。
胸の奥で、エンジンの振動がまだ残っていた。
朝、目が覚めたとき、家は妙に静かだった。
いや、静かというより、音が足りない。
台所の鍋の音もない。
味噌汁の匂いもない。
テレビの朝のニュースも流れていない。
天井の白いシミを見ながら、恒一はゆっくり瞬きをした。
「……夢か?」
昨日のことが、頭の中でぼんやりしている。
花束。
離婚届。
志保の声。
二十五年待った、という言葉。
身体を起こすと、背中にソファの跡が残っていた。腰が鈍く痛む。
時計を見る。
七時四十分。
いつもなら、とっくに会社へ向かう時間だ。
だが今日は、どこへも行く場所がない。
恒一は立ち上がり、台所へ行く。
冷蔵庫を開ける。
冷たい空気が顔に当たる。
卵が二つ。
納豆。
古い漬物。
それだけ。
「……こんなもんか」
卵を手に取るが、フライパンを使う気が起きない。
結局、冷たいご飯を電子レンジで温めて、そのまま口に運んだ。
味がしない。
食べ終わっても、まだ八時過ぎだった。
テーブルの上には、昨日の離婚届がそのまま置かれている。
ペンも。
志保の姿はもうなかった。
靴箱を見ると、志保の靴がいくつか消えている。
「……本気か」
靴の匂いが、少し残っていた。
恒一はその場に立ったまま、しばらく動かなかった。
そのとき、ふと頭の奥に浮かぶものがあった。
黒いバイク。
クロームの輝き。
重いエンジンの振動。
恒一はスマホを取り出す。
予約メール。
**ハーレーダビッドソン 試乗予約**
志保と二人で行く予定だった。
ツーリングの計画。
千葉の御宿。
海を見ながら、昼飯を食う予定だった。
恒一は小さく息を吐く。
「……二人が一人になっただけの話だ」
声に出してみる。
少しだけ、胸が軽くなった気がした。
---
練馬のハーレーダビッドソンの店は、ガラス張りだった。
朝の光が、黒いバイクのボディに反射している。
金属の匂い。
革の匂い。
エンジンオイルの重い匂い。
店に入ると、若い店員が笑顔で近づいてきた。
「いらっしゃいませ」
恒一は少し戸惑いながら言う。
「ええと……試乗予約してた立石です」
「あ、立石様ですね」
タブレットを確認する。
「奥様とご一緒の予定でしたよね?」
その言葉が胸に引っかかった。
恒一は一瞬だけ黙る。
「……今日は一人です」
店員はすぐに笑顔を戻した。
「かしこまりました。こちらどうぞ」
店内には、巨大なバイクが並んでいる。
黒。
銀。
深い赤。
どれも鉄の塊みたいに重そうだ。
恒一はその一台の前で立ち止まる。
低い車体。
太いタイヤ。
タンクに書かれたロゴ。
**Harley-Davidson**
「これが試乗車です」
店員が言う。
「排気量は1868ccです」
恒一は思わず笑った。
「すごいな」
「重いですよ」
「俺の人生より軽いさ」
店員が少しだけ笑う。
革のジャケットを渡される。
袖を通すと、革がきしむ。
重い。
だが、妙に身体に馴染む。
店員が言う。
「エンジン、かけてみてください」
恒一はキーを回す。
次の瞬間。
**ドゥン。**
腹の奥に響く振動。
低い。
重い。
もう一度アクセルを回す。
**ドドドドドドドド**
空気が震える。
胸の奥まで振動が届く。
恒一は思わず笑った。
「……すごいな」
店員が言う。
「ハーレーは鼓動って言われます」
「鼓動か」
恒一はアクセルを軽く回す。
**ドドン**
身体が揺れる。
その振動の中で、昨日のことが少し遠くなった。
離婚届。
志保。
67.2歳。
全部、エンジン音に飲み込まれていく。
店員がヘルメットを渡す。
「海、行くんですか?」
「御宿」
「いいですね」
「ツーリングの予定だったんだ」
少しだけ間を置く。
「……夫婦で」
店員は何も言わない。
ただ、軽く頷く。
恒一はヘルメットをかぶる。
視界が少し狭くなる。
だが、音がはっきり聞こえる。
エンジン。
風。
鼓動。
バイクを走らせる。
道路に出る。
アクセルを回す。
**ドドドドドドド**
身体が後ろへ引っ張られる。
練馬の街が後ろへ流れる。
コンビニ。
信号。
電柱。
全部、遠ざかる。
環七を抜けて、京葉道路へ。
空が広がる。
冷たい風がジャケットの隙間から入る。
だが、気持ちいい。
久しぶりに胸いっぱい空気を吸う。
ヘルメットの中で言う。
「……志保」
声は風に消える。
千葉に入るころ、海の匂いがした。
塩の匂い。
湿った空気。
遠くに青い水平線が見える。
御宿の海岸にバイクを止める。
エンジンを切る。
突然、世界が静かになる。
波の音。
ザァ……ザァ……
砂浜に降りる。
風が強い。
海は広い。
恒一はポケットに手を入れる。
そこには、まだ離婚届が入っていた。
紙が少し折れている。
波を見ながら、恒一は小さく言う。
「……まあいいか」
空は高い。
波は同じ音を繰り返す。
昨日までの人生が、少し遠くなっている。
ポケットの紙を握りながら、恒一は思った。
二人で来るはずだった海に、
一人で来ただけだ。
それだけの話だ。
だが。
胸の奥で、エンジンの振動がまだ残っていた。
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