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第5話 IF もう一つの朝
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IF もう一つの朝
「お父さん、卵焼きまだ?」
台所から声が飛ぶ。
「今だよ、ちょっと待て」
恒一はフライパンを傾けながら答えた。
油の匂いと、卵の甘い香りが湯気になって立ちのぼる。
ジュッ、と小さな音。
菜箸で卵を巻く。
黄色い層が重なっていく。
「見てろよ、今日はきれいだぞ」
息子が椅子の上で身を乗り出す。
「ほんと?」
志保が笑う。
「焦がさないでね」
「今日は大丈夫」
恒一は得意げに言う。
卵焼きを皿に乗せる。
少し形は歪だが、きれいな黄色だ。
息子が一口食べる。
「うまい!」
その声に、恒一は少し胸を張る。
志保が言う。
「あなた、ほんと料理上手になったわね」
「練習したからな」
味噌汁の湯気が立つ。
鰹だしの匂いが、朝の部屋に広がる。
窓から差し込む光。
食卓の湯気。
家族の声。
その朝は、たしかに温かかった。
---
会社。
会議室。
空気は冷たい。
部長が資料をめくる。
「立石」
「はい」
「この前の会議、また早退したな」
恒一は答える。
「保育園の迎えで……」
部長は小さく鼻を鳴らす。
「そういうのは奥さんに任せろ」
恒一は少しだけ首を振る。
「志保も働いています」
沈黙。
隣の席の同僚が目を伏せる。
部長は言う。
「お前は家庭優先か」
「……はい」
その一言で空気が決まった。
---
夕方。
保育園。
子どもたちの笑い声。
砂の匂い。
ブランコの軋む音。
息子が走ってくる。
「お父さん!」
「おう」
恒一はしゃがんで抱き上げる。
小さな身体。
シャンプーの甘い匂い。
「今日はね、転ばなかった!」
「それはすごいな」
先生が言う。
「立石さん、いつもお迎えありがとうございます」
「いえ」
「お父さんが来る子、珍しいんですよ」
恒一は少し照れる。
息子が手を引く。
「早く帰ろ!」
「はいはい」
夕焼けが、道をオレンジ色に染めている。
---
夜。
台所。
恒一がフライパンを振る。
ジュウッ。
野菜炒めの匂い。
志保が後ろから言う。
「今日も会社大変?」
恒一は肩をすくめる。
「まあな」
「昇進の話は?」
少し沈黙。
恒一はフライパンを止める。
「……なかった」
志保は何も言わない。
皿を並べる。
息子が言う。
「お父さん、今日もご飯作ったの?」
「そうだ」
「すごい!」
その一言で、少し気持ちが軽くなる。
だが志保は、少しだけ心配そうな顔をしていた。
---
数年後。
会社。
廊下。
若い社員が声をかける。
「部長、お疲れさまです」
呼ばれたのは、恒一ではない。
後輩だった。
その男が笑いながら言う。
「立石さん、まだ課長補佐でしたっけ」
恒一は笑う。
「まあな」
男は言う。
「うちの会社、家庭優先だと出世難しいですよね」
恒一は肩をすくめる。
「そうだな」
男は去っていく。
廊下の蛍光灯が白い。
恒一は小さく息を吐く。
---
家。
夜。
志保が通帳を見ている。
テーブルの上に電卓。
カチ、カチ。
「……ねえ」
「ん?」
「やっぱり少し厳しいわね」
恒一は黙る。
志保は続ける。
「ローンもあるし」
「うん」
「あなたが出世してたら、もう少し……」
そこで言葉を止める。
「ごめん」
恒一は笑う。
「いいよ」
志保は首を振る。
「違うの」
「あなたが悪いわけじゃない」
少しだけ声が震える。
「でも現実はあるのよ」
息子の部屋から寝息が聞こえる。
静かな夜。
志保が言う。
「もし、普通の夫だったら」
「普通?」
「仕事だけしてる人」
恒一は少し笑う。
「俺は普通じゃないのか」
志保も笑う。
「うん」
その笑いは少し切ない。
---
六畳のアパート。
恒一は目を開ける。
冷たい空気。
天井の染み。
あの朝の夢だった。
卵焼きの匂いも、
息子の声も、
志保の笑いも、
全部、夢。
テーブルの上には、離婚届。
恒一はそれを見つめる。
「……イクメンでも」
小さく言う。
「出世しない」
天井を見上げる。
「出世しなきゃ」
苦く笑う。
「やっぱり生活は苦しい」
窓の外で、始発電車の音がする。
ゴトン。
ゴトン。
恒一は目を閉じる。
もしも。
人生はいつも、その言葉で揺れる。
だが、現実はひとつしかない。
静かな部屋の中で、
恒一はその事実だけを、
ゆっくり飲み込んでいった。
「お父さん、卵焼きまだ?」
台所から声が飛ぶ。
「今だよ、ちょっと待て」
恒一はフライパンを傾けながら答えた。
油の匂いと、卵の甘い香りが湯気になって立ちのぼる。
ジュッ、と小さな音。
菜箸で卵を巻く。
黄色い層が重なっていく。
「見てろよ、今日はきれいだぞ」
息子が椅子の上で身を乗り出す。
「ほんと?」
志保が笑う。
「焦がさないでね」
「今日は大丈夫」
恒一は得意げに言う。
卵焼きを皿に乗せる。
少し形は歪だが、きれいな黄色だ。
息子が一口食べる。
「うまい!」
その声に、恒一は少し胸を張る。
志保が言う。
「あなた、ほんと料理上手になったわね」
「練習したからな」
味噌汁の湯気が立つ。
鰹だしの匂いが、朝の部屋に広がる。
窓から差し込む光。
食卓の湯気。
家族の声。
その朝は、たしかに温かかった。
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会社。
会議室。
空気は冷たい。
部長が資料をめくる。
「立石」
「はい」
「この前の会議、また早退したな」
恒一は答える。
「保育園の迎えで……」
部長は小さく鼻を鳴らす。
「そういうのは奥さんに任せろ」
恒一は少しだけ首を振る。
「志保も働いています」
沈黙。
隣の席の同僚が目を伏せる。
部長は言う。
「お前は家庭優先か」
「……はい」
その一言で空気が決まった。
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夕方。
保育園。
子どもたちの笑い声。
砂の匂い。
ブランコの軋む音。
息子が走ってくる。
「お父さん!」
「おう」
恒一はしゃがんで抱き上げる。
小さな身体。
シャンプーの甘い匂い。
「今日はね、転ばなかった!」
「それはすごいな」
先生が言う。
「立石さん、いつもお迎えありがとうございます」
「いえ」
「お父さんが来る子、珍しいんですよ」
恒一は少し照れる。
息子が手を引く。
「早く帰ろ!」
「はいはい」
夕焼けが、道をオレンジ色に染めている。
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夜。
台所。
恒一がフライパンを振る。
ジュウッ。
野菜炒めの匂い。
志保が後ろから言う。
「今日も会社大変?」
恒一は肩をすくめる。
「まあな」
「昇進の話は?」
少し沈黙。
恒一はフライパンを止める。
「……なかった」
志保は何も言わない。
皿を並べる。
息子が言う。
「お父さん、今日もご飯作ったの?」
「そうだ」
「すごい!」
その一言で、少し気持ちが軽くなる。
だが志保は、少しだけ心配そうな顔をしていた。
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数年後。
会社。
廊下。
若い社員が声をかける。
「部長、お疲れさまです」
呼ばれたのは、恒一ではない。
後輩だった。
その男が笑いながら言う。
「立石さん、まだ課長補佐でしたっけ」
恒一は笑う。
「まあな」
男は言う。
「うちの会社、家庭優先だと出世難しいですよね」
恒一は肩をすくめる。
「そうだな」
男は去っていく。
廊下の蛍光灯が白い。
恒一は小さく息を吐く。
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家。
夜。
志保が通帳を見ている。
テーブルの上に電卓。
カチ、カチ。
「……ねえ」
「ん?」
「やっぱり少し厳しいわね」
恒一は黙る。
志保は続ける。
「ローンもあるし」
「うん」
「あなたが出世してたら、もう少し……」
そこで言葉を止める。
「ごめん」
恒一は笑う。
「いいよ」
志保は首を振る。
「違うの」
「あなたが悪いわけじゃない」
少しだけ声が震える。
「でも現実はあるのよ」
息子の部屋から寝息が聞こえる。
静かな夜。
志保が言う。
「もし、普通の夫だったら」
「普通?」
「仕事だけしてる人」
恒一は少し笑う。
「俺は普通じゃないのか」
志保も笑う。
「うん」
その笑いは少し切ない。
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六畳のアパート。
恒一は目を開ける。
冷たい空気。
天井の染み。
あの朝の夢だった。
卵焼きの匂いも、
息子の声も、
志保の笑いも、
全部、夢。
テーブルの上には、離婚届。
恒一はそれを見つめる。
「……イクメンでも」
小さく言う。
「出世しない」
天井を見上げる。
「出世しなきゃ」
苦く笑う。
「やっぱり生活は苦しい」
窓の外で、始発電車の音がする。
ゴトン。
ゴトン。
恒一は目を閉じる。
もしも。
人生はいつも、その言葉で揺れる。
だが、現実はひとつしかない。
静かな部屋の中で、
恒一はその事実だけを、
ゆっくり飲み込んでいった。
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