『65歳、延長雇用を終えた日、妻に離婚届を渡された ― 未婚男性の死亡中央値67.2歳から始まる、僕の再就職人生 ―』

かおるこ

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第10話 妻がいなくなってわかったこと

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第10話 妻がいなくなってわかったこと

午後の光が、畳の端をゆっくりと滑っていた。

恒一は段ボール箱の前に座っている。
引っ越しのときに持ってきた荷物だが、ほとんど開けていなかった。

「……こんなのあったか」

箱の底から、古いアルバムが出てくる。

ビニールのカバーは少し黄ばんでいる。
触ると、かさり、と乾いた音がした。

恒一はページをめくる。

一枚目。

娘が赤ん坊の頃の写真。
白い布団の上で、志保が抱いている。

「……こんな顔してたんだな」

思わず小さく笑う。

次のページ。

幼稚園の入園式。
志保がスーツで立っている。
娘が少し泣いている。

恒一は写真を指でなぞる。

「俺、どこだ」

写っていない。

次のページ。

運動会。

息子が走っている写真。
志保がカメラを持って笑っている。

恒一は眉をひそめる。

「……これも俺いないな」

アルバムの中には、家族の時間が詰まっていた。

だが、恒一の姿はほとんどない。

ページの間から、ノートが落ちた。

バサッ。

床に落ちる。

「ん?」

拾う。

家計簿だった。

表紙に、志保の字。

**「家計 2003年」**

恒一は椅子に座り直す。

ノートを開く。

細かい字がびっしり並んでいる。

食費。
光熱費。
学費。

赤いボールペンで、節約のメモ。

**「牛肉→鶏肉に変更」**
**「塾代 来月増える」**

ページをめくる。

そこには別のメモ。

**「娘 38.6℃ 病院」**

さらに次。

**「息子 発熱 夜中2時」**

恒一は眉を寄せる。

「……知らない」

その夜のことを思い出そうとする。

だが、何も浮かばない。

ページをめくる。

今度は大きな文字。

**「義父 介護開始」**

その下に、小さく書かれている。

**「恒一 出張」**

恒一の喉が乾く。

もう一ページ。

**「住宅ローン 繰上返済」**

横に志保の字。

**「あと15年」**

恒一はノートを閉じる。

静かな部屋。

窓の外で、風が鳴る。

「……俺」

小さく言う。

「何してたんだ」

スマホが震える。

娘からだった。

恒一は出る。

「もしもし」

娘の声。

「お父さん?」

「おう」

少し沈黙。

娘が言う。

「家、片付けてるの?」

「まあな」

「アルバム見た?」

恒一は驚く。

「なんでわかる」

娘は笑う。

「だって、お父さん写ってないでしょ」

恒一は黙る。

娘の声が少し真剣になる。

「お父さん」

「ん?」

「覚えてる?」

「何を」

「お母さんが倒れた日」

恒一は考える。

思い出せない。

「……いつだ」

電話の向こうで、小さなため息。

「やっぱり」

娘は言う。

「接待ゴルフ」

恒一の胸が止まる。

娘が続ける。

「お母さん、あの日、熱出して倒れたの」

恒一は言葉を失う。

「私、まだ小学生で」

「救急車呼んだの、私なんだよ」

恒一は椅子を握る。

手のひらが汗で濡れる。

娘が静かに言う。

「お母さん、泣いてた」

恒一は小さく聞く。

「……何て」

娘の声が少し震える。

「“私がいなくなっても、この人は困らない”って」

電話が切れる。

部屋は静かだった。

冷蔵庫のモーター音。

ブーン。

恒一はノートを見る。

志保の字。

何十ページも続いている。

その横に、自分の字はほとんどない。

「……そうか」

胸の奥が、ゆっくり崩れる。

離婚は突然ではなかった。

裏切りでもなかった。

長い、長い時間の積み重ね。

恒一は顔を覆う。

「……志保」

声が少し震える。

---

数日後。

小さな喫茶店。

コーヒーの匂い。

窓際の席。

志保が座っている。

グレーのコート。

湯気の立つカップ。

恒一は向かいに座る。

しばらく二人とも黙る。

スプーンの音。

カチャ。

恒一が言う。

「志保」

「なに」

「俺は」

言葉が詰まる。

「そんなにひどかったのか」

志保はコーヒーを一口飲む。

苦い匂いが漂う。

しばらく考えてから言う。

「ひどいというより」

少し目を伏せる。

「ずっと不在だったの」

その言葉は静かだった。

だが重かった。

恒一は何も言えない。

志保は続ける。

「家にいても」

「いなかった」

窓の外で車が通る。

光がテーブルを横切る。

恒一は初めて、志保の顔を見る。

疲れた顔。

でも、怒りはない。

ただ、長い時間の重さがある。

恒一はゆっくり言う。

「……そうか」

それ以上、言葉は出なかった。

志保の声が遠くで聞こえる。

「でも」

「なに」

「今、ちゃんと聞いてる」

恒一は顔を上げる。

志保が小さく笑う。

「それは、初めてかもしれない」

その言葉を聞いた瞬間、

恒一の中で、何かが崩れた。

だが同時に、

初めて、

誰かの言葉が、
胸の奥まで届いた気がした。

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