『65歳、延長雇用を終えた日、妻に離婚届を渡された ― 未婚男性の死亡中央値67.2歳から始まる、僕の再就職人生 ―』

かおるこ

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第19話 余命ではなく、余生

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第19話 余命ではなく、余生

春の光は、少しだけ眩しかった。

病院の窓から見える空は、冬の色を抜けて、淡い青になっている。
白いカーテンが風で揺れる。

恒一はベッドの上で天井を見ていた。

腕には点滴の跡。
胸の奥にまだ少し鈍い痛み。

だが、呼吸は軽い。

医師がカルテを閉じる。

「手術は問題ありませんでした」

恒一は顔を向ける。

「……本当に?」

医師は笑う。

「大病ではありません」

「経過も良好です」

恒一は深く息を吐く。

胸の奥に溜まっていた何かが、ゆっくり抜けていく。

「……そうですか」

医師が言う。

「ただ」

恒一は身構える。

「生活は見直してください」

「運動」

「食事」

「睡眠」

恒一は笑う。

「はい」

医師は軽く肩をすくめる。

「長生きしてください」

その言葉が、妙に現実的に聞こえた。

---

退院の日。

病院の玄関を出る。

外の空気は柔らかい。

春の匂い。
少し湿った土の匂い。

恒一は空を見上げる。

「……生きてるな」

自分で言って、少し笑う。

---

数週間後。

地域センターの会議室。

長机。
ホワイトボード。
少し古い蛍光灯。

恒一はエプロンをつけていた。

前には、同じくらいの年齢の男たちが並んでいる。

「今日は」

恒一が言う。

「包丁の持ち方です」

男たちが苦笑する。

一人が言う。

「六十過ぎて包丁講座か」

別の男がぼやく。

「情けないな」

恒一は笑う。

「俺も同じですよ」

まな板の上に玉ねぎを置く。

トン。

包丁の音。

「こうやって指を曲げる」

男たちが覗き込む。

「猫の手です」

一人が言う。

「猫の手ってなんだよ」

恒一は笑う。

「俺も最初そう思いました」

玉ねぎを切る。

トン、トン。

会議室に軽い音が響く。

---

次の講座。

洗濯。

恒一が洗剤を持ち上げる。

「これ」

男が言う。

「どれくらい入れるの?」

恒一は笑う。

「俺も昔、適当に入れてシャツ縮めました」

会場が少し笑う。

恒一が続ける。

「洗濯機の横に書いてあります」

男たちが頷く。

一人が言う。

「知らなかった」

恒一は肩をすくめる。

「俺もです」

---

講座の終わり。

一人の男が椅子に座ったまま言う。

「今さら覚えてもな」

恒一が聞く。

「何がです」

男がため息をつく。

「先が短い」

周りが少し静かになる。

男が言う。

「どうせあと何年もない」

恒一は少し考える。

それから笑う。

「だからですよ」

男が顔を上げる。

恒一は言う。

「短いかもしれないから」

包丁を置く。

「今日の飯くらい、自分でうまく作りましょう」

会場が少し笑う。

男も、少しだけ笑った。

---

夕方。

スーパー。

惣菜コーナー。

揚げ物の匂い。

恒一は棚を見る。

半額シール。

赤い文字。

「……お」

弁当を手に取る。

ふと笑う。

昔の自分は、この棚を見なかった。

会社帰りに高い店に行っていた。

だが今は。

半額シールを見て、少し嬉しい。

恒一は小さく呟く。

「……67.2」

数字が頭に浮かぶ。

昔は呪いだった。

残り日数のカウント。

だが今は違う。

ただの数字。

自分を押し出した数字。

恒一は弁当をカゴに入れる。

「悪くないな」

---

春。

河原。

風が少し冷たい。

草の匂い。

遠くで子どもがボールを蹴っている。

恒一はレジャーシートを広げる。

真由が言う。

「いい天気ですね」

「そうだな」

晴斗が弁当を覗く。

「おお」

「卵焼き!」

恒一は少し照れる。

「今日は自信ある」

晴斗が一口食べる。

もぐもぐ。

目を丸くする。

「おいしい」

恒一が聞く。

「ほんとか」

晴斗が頷く。

「うん!」

真由も食べる。

「……本当だ」

恒一は笑う。

晴斗が言う。

「おじさん」

「ん?」

「また作って」

恒一は頷く。

「ああ」

空を見る。

青い空。

雲がゆっくり流れている。

恒一は言う。

「次はもっと」

少し笑う。

「うまく作る」

風が吹く。

河原の草が揺れる。

恒一は思う。

人生は、もう遅いのではない。

ようやく。

自分の足で始まったのだと。

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