2 / 13
第1話 春浅し
しおりを挟む
第1話 春浅し
二月の空は、どこか透明すぎた。
義実家の庭に植えられた白梅が、まだ硬い蕾をつけている。咲くには早い。でも、確実に、何かがほどけかけている。
「真帆、寒くないか?」
圭吾が、私の肩に軽く手を置いた。
その掌は温かい。けれど、触れられている感覚は、なぜか薄い。
「大丈夫。春浅し、って感じね」
「何それ、俳句?」
圭吾は笑う。その横顔は、いつもと同じだ。優しくて、穏やかで、誰から見ても“いい夫”。
リビングから、甲高い笑い声が弾ける。
「えーっ、ほんとに? 圭吾さん、そんなこと言うの?」
由奈だ。
振り向いた瞬間、視界が一段階、明るくなる。
妹は淡いレモン色のワンピースを着ていた。光を吸い込んで、反射して、まるでそこだけ春が早送りされているみたいだった。
「だって本当だろ。若いっていいよな」
圭吾が、グラスを傾けながら言う。
「素直でさ。なんか、見てて気持ちいい」
気持ちいい。
その言葉が、喉の奥に小さく刺さる。
「もう~、お義兄さん、それ褒めすぎ!」
由奈が、笑いながら圭吾の腕を軽く叩く。
その距離。
その軽さ。
私は、口角を上げる。
「ほんとだよね。由奈、昔から愛嬌だけはあったもんね」
“だけ”。
自分でも分かるくらい、細い棘を仕込んだ。
でも、誰も気づかない。
「お姉ちゃんひどーい!」
由奈は笑う。
圭吾も笑う。
私も笑う。
笑い声の中で、レモン色が目に焼きつく。
あの色。
淡くて、軽くて、柔らかい。
私は、グラスの縁をなぞる。冷たい。指先の感覚だけがやけに鮮明だ。
「真帆はさ、昔からしっかりしてたよな」
圭吾が、何気なく言う。
「由奈ちゃんみたいに甘え上手じゃないけど、それがいいんだよ」
“甘え上手じゃないけど”。
けど。
その接続詞が、やけに重い。
「へえ、そうなんだ」
私は笑う。
胸の奥で、何かが小さく軋む。
しっかりしている。
分別がある。
嫉妬しない。
大人。
それが、私の役割。
帰り道、夜風が冷たい。
タクシーの窓に、街灯が流れていく。
「由奈、ほんと変わらないよな」
圭吾が、楽しそうに言う。
「無邪気っていうか。ああいうの、癒やされるわ」
「そう」
短く返す。
「真帆は安心するけどな」
「安心?」
「うん。落ち着く」
落ち着く。
それは、褒め言葉だろうか。
レモン色が、また浮かぶ。
家に帰ると、コートを脱ぐ。
ファンデーションの匂いが、ほのかに残る。鏡の前に立つ。
三十五歳の顔。
目元に、うっすらとした線。
口紅は、落ち着いたローズ。
私は、スマホを手に取る。
検索欄に、指が止まる。
**「レモン色 ワンピース」**
打ち込んだ瞬間、心臓がどくんと鳴る。
何してるの、私。
でも、画面には、似た色が並ぶ。
柔らかい光をまとった布。若いモデルの笑顔。
「……似合うわけない」
そう呟きながら、スクロールを止めない。
由奈の笑い声が、頭の中で再生される。
「若いっていいよな」
その言葉が、ぐるぐる回る。
私はクローゼットを開ける。
黒。紺。ベージュ。
落ち着いた色ばかり。
レモン色は、ない。
胸の奥に、ちり、と小さな焦げ跡ができる。
もし。
あの色を着たら。
圭吾は、同じ目で、私を見るだろうか。
指先が、購入ボタンの上で止まる。
「ばかみたい」
でも、笑いがこぼれる。
勝とうとしている。
妹に。
七つも年下の妹に。
それでも。
負けたくない。
圭吾の視線を、取り戻したい。
スマホの青い光が、顔を照らす。
私は、レモン色をカートに入れた。
春は、まだ浅い。
白梅は、まだ咲いていない。
でも私は、氷の下で、必死に動いている魚みたいに、
静かに、
みっともなく、
泳ぎ始めていた。
二月の空は、どこか透明すぎた。
義実家の庭に植えられた白梅が、まだ硬い蕾をつけている。咲くには早い。でも、確実に、何かがほどけかけている。
「真帆、寒くないか?」
圭吾が、私の肩に軽く手を置いた。
その掌は温かい。けれど、触れられている感覚は、なぜか薄い。
「大丈夫。春浅し、って感じね」
「何それ、俳句?」
圭吾は笑う。その横顔は、いつもと同じだ。優しくて、穏やかで、誰から見ても“いい夫”。
リビングから、甲高い笑い声が弾ける。
「えーっ、ほんとに? 圭吾さん、そんなこと言うの?」
由奈だ。
振り向いた瞬間、視界が一段階、明るくなる。
妹は淡いレモン色のワンピースを着ていた。光を吸い込んで、反射して、まるでそこだけ春が早送りされているみたいだった。
「だって本当だろ。若いっていいよな」
圭吾が、グラスを傾けながら言う。
「素直でさ。なんか、見てて気持ちいい」
気持ちいい。
その言葉が、喉の奥に小さく刺さる。
「もう~、お義兄さん、それ褒めすぎ!」
由奈が、笑いながら圭吾の腕を軽く叩く。
その距離。
その軽さ。
私は、口角を上げる。
「ほんとだよね。由奈、昔から愛嬌だけはあったもんね」
“だけ”。
自分でも分かるくらい、細い棘を仕込んだ。
でも、誰も気づかない。
「お姉ちゃんひどーい!」
由奈は笑う。
圭吾も笑う。
私も笑う。
笑い声の中で、レモン色が目に焼きつく。
あの色。
淡くて、軽くて、柔らかい。
私は、グラスの縁をなぞる。冷たい。指先の感覚だけがやけに鮮明だ。
「真帆はさ、昔からしっかりしてたよな」
圭吾が、何気なく言う。
「由奈ちゃんみたいに甘え上手じゃないけど、それがいいんだよ」
“甘え上手じゃないけど”。
けど。
その接続詞が、やけに重い。
「へえ、そうなんだ」
私は笑う。
胸の奥で、何かが小さく軋む。
しっかりしている。
分別がある。
嫉妬しない。
大人。
それが、私の役割。
帰り道、夜風が冷たい。
タクシーの窓に、街灯が流れていく。
「由奈、ほんと変わらないよな」
圭吾が、楽しそうに言う。
「無邪気っていうか。ああいうの、癒やされるわ」
「そう」
短く返す。
「真帆は安心するけどな」
「安心?」
「うん。落ち着く」
落ち着く。
それは、褒め言葉だろうか。
レモン色が、また浮かぶ。
家に帰ると、コートを脱ぐ。
ファンデーションの匂いが、ほのかに残る。鏡の前に立つ。
三十五歳の顔。
目元に、うっすらとした線。
口紅は、落ち着いたローズ。
私は、スマホを手に取る。
検索欄に、指が止まる。
**「レモン色 ワンピース」**
打ち込んだ瞬間、心臓がどくんと鳴る。
何してるの、私。
でも、画面には、似た色が並ぶ。
柔らかい光をまとった布。若いモデルの笑顔。
「……似合うわけない」
そう呟きながら、スクロールを止めない。
由奈の笑い声が、頭の中で再生される。
「若いっていいよな」
その言葉が、ぐるぐる回る。
私はクローゼットを開ける。
黒。紺。ベージュ。
落ち着いた色ばかり。
レモン色は、ない。
胸の奥に、ちり、と小さな焦げ跡ができる。
もし。
あの色を着たら。
圭吾は、同じ目で、私を見るだろうか。
指先が、購入ボタンの上で止まる。
「ばかみたい」
でも、笑いがこぼれる。
勝とうとしている。
妹に。
七つも年下の妹に。
それでも。
負けたくない。
圭吾の視線を、取り戻したい。
スマホの青い光が、顔を照らす。
私は、レモン色をカートに入れた。
春は、まだ浅い。
白梅は、まだ咲いていない。
でも私は、氷の下で、必死に動いている魚みたいに、
静かに、
みっともなく、
泳ぎ始めていた。
0
あなたにおすすめの小説
妻からの手紙~18年の後悔を添えて~
Mio
ファンタジー
妻から手紙が来た。
妻が死んで18年目の今日。
息子の誕生日。
「お誕生日おめでとう、ルカ!愛してるわ。エミリア・シェラード」
息子は…17年前に死んだ。
手紙はもう一通あった。
俺はその手紙を読んで、一生分の後悔をした。
------------------------------
私のドレスを奪った異母妹に、もう大事なものは奪わせない
文野多咲
恋愛
優月(ゆづき)が自宅屋敷に帰ると、異母妹が優月のウェディングドレスを試着していた。その日縫い上がったばかりで、優月もまだ袖を通していなかった。
使用人たちが「まるで、異母妹のためにあつらえたドレスのよう」と褒め称えており、優月の婚約者まで「異母妹の方が似合う」と褒めている。
優月が異母妹に「どうして勝手に着たの?」と訊けば「ちょっと着てみただけよ」と言う。
婚約者は「異母妹なんだから、ちょっとくらいいじゃないか」と言う。
「ちょっとじゃないわ。私はドレスを盗られたも同じよ!」と言えば、父の後妻は「悪気があったわけじゃないのに、心が狭い」と優月の頬をぶった。
優月は父親に婚約解消を願い出た。婚約者は父親が決めた相手で、優月にはもう彼を信頼できない。
父親に事情を説明すると、「大げさだなあ」と取り合わず、「優月は異母妹に嫉妬しているだけだ、婚約者には異母妹を褒めないように言っておく」と言われる。
嫉妬じゃないのに、どうしてわかってくれないの?
優月は父親をも信頼できなくなる。
婚約者は優月を手に入れるために、優月を襲おうとした。絶体絶命の優月の前に現れたのは、叔父だった。
【完結】ドレスと一緒にそちらの方も差し上げましょう♪
山葵
恋愛
今日も私の屋敷に来たと思えば、衣装室に籠もって「これは君には幼すぎるね。」「こっちは、君には地味だ。」と私のドレスを物色している婚約者。
「こんなものかな?じゃあこれらは僕が処分しておくから!それじゃあ僕は忙しいから失礼する。」
人の屋敷に来て婚約者の私とお茶を飲む事なくドレスを持ち帰る婚約者ってどうなの!?
ちゃんと忠告をしましたよ?
柚木ゆず
ファンタジー
ある日の、放課後のことでした。王立リザエンドワール学院に籍を置く私フィーナは、生徒会長を務められているジュリアルス侯爵令嬢アゼット様に呼び出されました。
「生徒会の仲間である貴方様に、婚約祝いをお渡したくてこうしておりますの」
アゼット様はそのように仰られていますが、そちらは嘘ですよね? 私は最愛の方に護っていただいているので、貴方様に悪意があると気付けるのですよ。
アゼット様。まだ間に合います。
今なら、引き返せますよ?
※現在体調の影響により、感想欄を一時的に閉じさせていただいております。
公爵令嬢アナスタシアの華麗なる鉄槌
招杜羅147
ファンタジー
「婚約は破棄だ!」
毒殺容疑の冤罪で、婚約者の手によって投獄された公爵令嬢・アナスタシア。
彼女は獄中死し、それによって3年前に巻き戻る。
そして…。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる