『妹を選んだ男』

かおるこ

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第1話 春浅し

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第1話 春浅し

 二月の空は、どこか透明すぎた。
 義実家の庭に植えられた白梅が、まだ硬い蕾をつけている。咲くには早い。でも、確実に、何かがほどけかけている。

「真帆、寒くないか?」

 圭吾が、私の肩に軽く手を置いた。
 その掌は温かい。けれど、触れられている感覚は、なぜか薄い。

「大丈夫。春浅し、って感じね」

「何それ、俳句?」

 圭吾は笑う。その横顔は、いつもと同じだ。優しくて、穏やかで、誰から見ても“いい夫”。

 リビングから、甲高い笑い声が弾ける。

「えーっ、ほんとに? 圭吾さん、そんなこと言うの?」

 由奈だ。

 振り向いた瞬間、視界が一段階、明るくなる。
 妹は淡いレモン色のワンピースを着ていた。光を吸い込んで、反射して、まるでそこだけ春が早送りされているみたいだった。

「だって本当だろ。若いっていいよな」

 圭吾が、グラスを傾けながら言う。

「素直でさ。なんか、見てて気持ちいい」

 気持ちいい。

 その言葉が、喉の奥に小さく刺さる。

「もう~、お義兄さん、それ褒めすぎ!」

 由奈が、笑いながら圭吾の腕を軽く叩く。
 その距離。
 その軽さ。

 私は、口角を上げる。

「ほんとだよね。由奈、昔から愛嬌だけはあったもんね」

 “だけ”。

 自分でも分かるくらい、細い棘を仕込んだ。
 でも、誰も気づかない。

「お姉ちゃんひどーい!」

 由奈は笑う。
 圭吾も笑う。

 私も笑う。

 笑い声の中で、レモン色が目に焼きつく。

 あの色。

 淡くて、軽くて、柔らかい。

 私は、グラスの縁をなぞる。冷たい。指先の感覚だけがやけに鮮明だ。

「真帆はさ、昔からしっかりしてたよな」

 圭吾が、何気なく言う。

「由奈ちゃんみたいに甘え上手じゃないけど、それがいいんだよ」

 “甘え上手じゃないけど”。

 けど。

 その接続詞が、やけに重い。

「へえ、そうなんだ」

 私は笑う。

 胸の奥で、何かが小さく軋む。

 しっかりしている。
 分別がある。
 嫉妬しない。
 大人。

 それが、私の役割。

 帰り道、夜風が冷たい。
 タクシーの窓に、街灯が流れていく。

「由奈、ほんと変わらないよな」

 圭吾が、楽しそうに言う。

「無邪気っていうか。ああいうの、癒やされるわ」

「そう」

 短く返す。

「真帆は安心するけどな」

「安心?」

「うん。落ち着く」

 落ち着く。

 それは、褒め言葉だろうか。

 レモン色が、また浮かぶ。

 家に帰ると、コートを脱ぐ。
 ファンデーションの匂いが、ほのかに残る。鏡の前に立つ。

 三十五歳の顔。

 目元に、うっすらとした線。

 口紅は、落ち着いたローズ。

 私は、スマホを手に取る。

 検索欄に、指が止まる。

 **「レモン色 ワンピース」**

 打ち込んだ瞬間、心臓がどくんと鳴る。

 何してるの、私。

 でも、画面には、似た色が並ぶ。
 柔らかい光をまとった布。若いモデルの笑顔。

「……似合うわけない」

 そう呟きながら、スクロールを止めない。

 由奈の笑い声が、頭の中で再生される。

「若いっていいよな」

 その言葉が、ぐるぐる回る。

 私はクローゼットを開ける。
 黒。紺。ベージュ。

 落ち着いた色ばかり。

 レモン色は、ない。

 胸の奥に、ちり、と小さな焦げ跡ができる。

 もし。

 あの色を着たら。

 圭吾は、同じ目で、私を見るだろうか。

 指先が、購入ボタンの上で止まる。

「ばかみたい」

 でも、笑いがこぼれる。

 勝とうとしている。

 妹に。

 七つも年下の妹に。

 それでも。

 負けたくない。

 圭吾の視線を、取り戻したい。

 スマホの青い光が、顔を照らす。

 私は、レモン色をカートに入れた。

 春は、まだ浅い。

 白梅は、まだ咲いていない。

 でも私は、氷の下で、必死に動いている魚みたいに、

 静かに、

 みっともなく、

 泳ぎ始めていた。

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