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第2話 姉という鎧
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第2話 姉という鎧
夜になると、家は静かすぎる。
食器を洗う水の音だけが、やけに響く。
スポンジが皿の表面を擦る、キュッ、キュッという音。
「今日は楽しかったな」
リビングから、圭吾の声がする。
「由奈ちゃん、ほんと変わらないよな。ああいう子、得だよな」
得。
私は蛇口を閉める。
水滴が、最後にぽたりと落ちた。
「そうだね。昔からああだったよ」
声は、驚くほど穏やかだった。
「真帆は真逆だよな。昔から大人びてた」
真逆。
私はタオルで手を拭く。
柔軟剤の甘い匂いが、鼻に残る。
「それ、褒めてる?」
「褒めてるって。しっかりしてるって意味」
しっかりしてる。
その言葉は、私の胸にぴたりと貼りついて離れない。
寝室のドアを閉めると、空気が少し冷たくなる。
冬用の羽毛布団の匂い。洗い立てのシーツの、乾いた清潔さ。
圭吾はベッドに入ると、スマホを数分眺めて、すぐに横を向いた。
「おやすみ」
「おやすみ」
背中。
広い、背中。
私の方には向かない。
天井を見つめながら、目を閉じる。
すると、母の声が、ふいに蘇る。
「お姉ちゃんなんだから」
夏の午後。
蝉の鳴き声がうるさい庭。
「由奈はまだ小さいんだから、譲ってあげなさい」
「でも、それ私の……」
「我慢しなさい」
母の声は、いつも決まっていた。
由奈は泣いていた。
私は、泣かなかった。
泣くと、母が疲れた顔をするのを知っていたから。
「真帆は強いわね」
その言葉が、胸に誇らしく刺さった。
強い。
私は強い。
だから、我慢できる。
だから、平気。
ベッドの中で、圭吾が小さく寝息を立てる。
規則正しい呼吸。
私はそっと体を寄せる。
背中に触れる。
温かい。
でも、振り向かない。
腕を伸ばす。
そのまま、止まる。
“しっかり者”は、求めない。
“理解ある妻”は、甘えない。
自分で自分に言い聞かせる。
私は静かにベッドを抜け出した。
洗面所の明かりをつける。
白い蛍光灯が、容赦なく肌を照らす。
鏡の中の私。
目元に、うっすらと影。
頬は、以前より少しだけ下がっている気がする。
パジャマのボタンを外す。
布が、床に落ちる。
鏡の前に立つ。
肩の線。
腰の丸み。
腹部の、わずかな緩み。
「……若くない」
声に出した瞬間、喉がひりつく。
触れてみる。
肌はまだ柔らかい。
でも、どこか重い。
由奈の腕を思い出す。
今日、圭吾に触れていた、あの軽さ。
「若いっていいな」
あの言葉が、耳の奥で繰り返される。
私は、鏡に向かって微笑んでみる。
口角を上げる。
違う。
目が、笑っていない。
もう一度、笑う。
今度は少し、妹を意識して。
顎を引いて、首を傾けて。
「……ばかみたい」
笑顔が崩れる。
涙は出ない。
泣かない。
泣いたら、弱い。
泣いたら、由奈になる。
私は、姉だ。
タオルで顔を拭く。
化粧水の冷たさが、肌に染みる。
寝室に戻ると、圭吾は完全に眠っている。
「圭吾」
小さく呼ぶ。
返事はない。
「……私、しっかりしてる?」
聞こえない声。
布団に入る。
背中を向けられたまま、私は目を開ける。
“しっかりしてる”は、褒め言葉のはずなのに。
どうして、こんなに寒いのだろう。
天井の暗闇を見つめながら、私はようやく気づく。
私は、姉という鎧を脱いだことがない。
母の前でも。
由奈の前でも。
圭吾の前でも。
そして、自分の前でも。
鎧は重い。
でも、外し方を知らない。
私は布団の中で、自分の腕を抱きしめた。
体温は、まだある。
でも、誰にも触れられていないみたいに、
冷たかった。
夜になると、家は静かすぎる。
食器を洗う水の音だけが、やけに響く。
スポンジが皿の表面を擦る、キュッ、キュッという音。
「今日は楽しかったな」
リビングから、圭吾の声がする。
「由奈ちゃん、ほんと変わらないよな。ああいう子、得だよな」
得。
私は蛇口を閉める。
水滴が、最後にぽたりと落ちた。
「そうだね。昔からああだったよ」
声は、驚くほど穏やかだった。
「真帆は真逆だよな。昔から大人びてた」
真逆。
私はタオルで手を拭く。
柔軟剤の甘い匂いが、鼻に残る。
「それ、褒めてる?」
「褒めてるって。しっかりしてるって意味」
しっかりしてる。
その言葉は、私の胸にぴたりと貼りついて離れない。
寝室のドアを閉めると、空気が少し冷たくなる。
冬用の羽毛布団の匂い。洗い立てのシーツの、乾いた清潔さ。
圭吾はベッドに入ると、スマホを数分眺めて、すぐに横を向いた。
「おやすみ」
「おやすみ」
背中。
広い、背中。
私の方には向かない。
天井を見つめながら、目を閉じる。
すると、母の声が、ふいに蘇る。
「お姉ちゃんなんだから」
夏の午後。
蝉の鳴き声がうるさい庭。
「由奈はまだ小さいんだから、譲ってあげなさい」
「でも、それ私の……」
「我慢しなさい」
母の声は、いつも決まっていた。
由奈は泣いていた。
私は、泣かなかった。
泣くと、母が疲れた顔をするのを知っていたから。
「真帆は強いわね」
その言葉が、胸に誇らしく刺さった。
強い。
私は強い。
だから、我慢できる。
だから、平気。
ベッドの中で、圭吾が小さく寝息を立てる。
規則正しい呼吸。
私はそっと体を寄せる。
背中に触れる。
温かい。
でも、振り向かない。
腕を伸ばす。
そのまま、止まる。
“しっかり者”は、求めない。
“理解ある妻”は、甘えない。
自分で自分に言い聞かせる。
私は静かにベッドを抜け出した。
洗面所の明かりをつける。
白い蛍光灯が、容赦なく肌を照らす。
鏡の中の私。
目元に、うっすらと影。
頬は、以前より少しだけ下がっている気がする。
パジャマのボタンを外す。
布が、床に落ちる。
鏡の前に立つ。
肩の線。
腰の丸み。
腹部の、わずかな緩み。
「……若くない」
声に出した瞬間、喉がひりつく。
触れてみる。
肌はまだ柔らかい。
でも、どこか重い。
由奈の腕を思い出す。
今日、圭吾に触れていた、あの軽さ。
「若いっていいな」
あの言葉が、耳の奥で繰り返される。
私は、鏡に向かって微笑んでみる。
口角を上げる。
違う。
目が、笑っていない。
もう一度、笑う。
今度は少し、妹を意識して。
顎を引いて、首を傾けて。
「……ばかみたい」
笑顔が崩れる。
涙は出ない。
泣かない。
泣いたら、弱い。
泣いたら、由奈になる。
私は、姉だ。
タオルで顔を拭く。
化粧水の冷たさが、肌に染みる。
寝室に戻ると、圭吾は完全に眠っている。
「圭吾」
小さく呼ぶ。
返事はない。
「……私、しっかりしてる?」
聞こえない声。
布団に入る。
背中を向けられたまま、私は目を開ける。
“しっかりしてる”は、褒め言葉のはずなのに。
どうして、こんなに寒いのだろう。
天井の暗闇を見つめながら、私はようやく気づく。
私は、姉という鎧を脱いだことがない。
母の前でも。
由奈の前でも。
圭吾の前でも。
そして、自分の前でも。
鎧は重い。
でも、外し方を知らない。
私は布団の中で、自分の腕を抱きしめた。
体温は、まだある。
でも、誰にも触れられていないみたいに、
冷たかった。
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