『妹を選んだ男』

かおるこ

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第10話 春嶺

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第10話 春嶺

 春の匂いは、音もなくやってくる。

 引っ越して三年目の部屋は、南向きで、午前中の光がまっすぐ床を照らす。
 白い壁に反射した柔らかな明るさが、カーテン越しに揺れる。

 キッチンには、炊きたてのごはんの湯気。
 味噌汁の出汁の匂い。
 小さな観葉植物の土が、少し湿っている。

 私は一人分の朝食を並べる。

「いただきます」

 声は、静かに部屋に落ちる。

 誰も返事をしない。

 でも、寂しくない。

 

 仕事は穏やかだ。

 資格を取って転職した事務所は、小さくて、窓から川沿いの桜並木が見える。

「真帆さん、今日も早いですね」

「朝の空気が好きなんです」

 同僚が笑う。

「最近、顔が柔らかいですよ」

「そうですか?」

「うん。前より」

 私は窓の外を見る。

 蕾が、少し膨らんでいる。

 春嶺。

 山の稜線が、霞んで見える季節。

 

 土曜日。

 駅前のスーパーで、いちごを選んでいる時だった。

「……真帆?」

 背後から声。

 振り返る。

 圭吾。

 一瞬、分からなかった。

 頬が少し痩せ、目の下に影がある。
 スーツは着ているが、以前のような自信の匂いがない。

「久しぶり」

 私の声は、自然だった。

「……元気?」

「うん」

 圭吾が、視線を泳がせる。

「真帆、変わったな」

「そう?」

「なんか……」

 言葉を探す。

「強くなった?」

 私はいちごをカゴに入れる。

「普通よ」

 彼は苦笑する。

「俺さ」

「うん」

「色々あって」

「そうなんだ」

 深くは聞かない。

 彼の目が、私を探る。

「今、どうしてるの」

「働いてる」

「一人?」

「うん」

「……寂しくない?」

 その問いに、少しだけ考える。

 部屋の光。
 朝の味噌汁。
 川沿いの桜。
 一人分の食卓。

「ううん」

 私は首を振る。

「幸せ」

 圭吾の喉が動く。

「……そうか」

 彼は笑おうとして、少し失敗する。

「俺さ」

「うん」

「たまに思う」

「何を」

「楽なほう、選び続けてたなって」

 私は黙って聞く。

「若い子に褒められて」

「……」

「責められない場所にいて」

「……」

「でも、残ったの、何もなかった」

 春の風が吹く。

 スーパーの自動ドアが開き、外の空気が流れ込む。
 少し冷たいけれど、やわらかい。

「真帆は」

 圭吾が言う。

「俺の鏡だった」

 私は微笑む。

「今は?」

「……もう違う」

 その言葉は、静かだった。

 悔しさも、未練も、あまりない。

 ただ、事実。

「元気でね」

 私はカゴを持ち直す。

「真帆」

「なに」

「ありがとう」

 その一言に、私は少しだけ驚く。

「何が」

「五年、ちゃんと隣にいてくれたこと」

 私は頷く。

「あなたもね」

 それ以上は、何も言わない。

 

 外に出る。

 空は薄い青。

 遠くの山並みが、やわらかく霞んでいる。

 春嶺。

 圭吾は振り返らない。

 私も振り返らない。

 

 部屋に戻る。

 窓を開ける。

 風が、カーテンを揺らす。

 いちごを洗う。
 水滴が赤い表面を転がる。

 一粒、口に入れる。

 甘い。

 少し酸っぱい。

 ちゃんと、味がある。

 

 私はもう、誰かを持ち上げるために存在していない。

 誰かの若さを測るための物差しでもない。

 誰かの安心のための役割でもない。

 鏡でもない。

 

 机の上には、新しい手帳。

 予定は、自分のためだけに埋まっている。

 誰に合わせる必要もない。

 誰の機嫌も取らない。

 

 窓の外、風が少し強くなる。

 洗濯物が揺れる。

 白いシャツが、光を受けてひるがえる。

 私はそれを眺めながら、静かに息を吸う。

 胸の奥は、穏やかだ。

 ざまぁはない。

 勝ち負けもない。

 ただ、温度差。

 かつて隣にいた男は、少し冷えている。

 私は、やわらかく、温かい。

 

 カップにお茶を注ぐ。

 湯気が立ち上る。

「……いい春」

 誰に言うでもなく、呟く。

 

 私は、誰の姉でもない春を、生きている。

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