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第9話 離婚届
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第9話 離婚届
テーブルの上に、白い紙が一枚。
昼間の光を受けて、やけに明るい。
役所でもらってきた離婚届。
薄く、頼りない紙なのに、指先に乗せると重い。
私はボールペンを置いたまま、その紙をまっすぐに整える。
夕方六時。
圭吾が帰ってくる。
「ただいま」
「おかえり」
声は、穏やか。
キッチンには味噌汁の匂いが漂っている。
いつも通りの夕食。
いつも通りの食卓。
違うのは、テーブルの中央に置かれた白い紙だけ。
「……なにこれ」
圭吾が気づく。
靴も脱がずに、固まる。
「離婚届」
私は箸を揃えながら言う。
「は?」
短い、乾いた声。
「本気じゃないよな?」
その問いは、どこか笑いを含んでいる。
冗談だと思いたい顔。
「本気」
私は顔を上げる。
まっすぐに見る。
圭吾の喉が、上下する。
「なんで」
「話したでしょ」
「話って」
「楽なんだよ、って」
圭吾の顔が歪む。
「まだそれ言うのか」
「忘れてない」
忘れない。
あの夜の空気。
あの一言。
「俺はさ」
圭吾が椅子を引く。
「そんなつもりで言ったわけじゃない」
「どういうつもり?」
「ちょっと軽い気持ちで」
「楽な気持ち?」
私は微笑む。
怒っていない。
叫んでいない。
ただ、整理している。
「あなた、楽なほうが好きなんでしょ」
「違う」
「違わない」
「違うって!」
声が大きくなる。
私は味噌汁を一口飲む。
温かい。
喉を通る。
「私は、もう楽じゃないの」
圭吾が黙る。
「真帆」
「なに」
「それで離婚?」
「うん」
「そんな簡単に?」
「簡単じゃない」
私は紙を撫でる。
冷たい。
「ずっと準備してた」
「準備?」
「仕事、増やした」
「……」
「資格も取った」
「……」
「貯金もある」
圭吾の顔色が変わる。
「いつから」
「あなたが“楽なんだよ”って言った日から」
静寂。
時計の音。
カチ、カチ。
「俺はさ」
圭吾の声が、急に弱くなる。
「由奈ちゃんと何かあったわけじゃない」
「知ってる」
「本当に何もない」
「知ってる」
「じゃあなんで」
私は初めて、少しだけ息を強く吐く。
「何もないのに、私は楽じゃなかった」
それが全て。
圭吾は椅子に崩れるように座る。
「やり直せるだろ」
「どうやって?」
「俺、変わる」
「何を?」
「ちゃんと真帆見る」
私は彼を見る。
初めて、焦りの混じった目。
「今まで見てなかったの?」
「そんなこと」
「あなたが見てたのは」
私は言葉を選ぶ。
「若さ」
圭吾の肩が揺れる。
「無垢さ」
「違う」
「賞賛」
沈黙。
「あなたは、由奈じゃなくて」
「……」
「由奈に褒められてる自分が好きだった」
圭吾の目に、初めて涙が浮かぶ。
「そんなの、みんなそうだろ」
「そうかもね」
「俺、悪いことしてない」
「してないよ」
私は頷く。
「だからこそ、無理なの」
「は?」
「悪くないまま、私が削れていった」
その言葉に、圭吾が口を閉じる。
その夜。
圭吾は由奈に連絡する。
私は見ない。
でも、廊下越しに声が聞こえる。
「……真帆、本気なんだ」
「……」
「いや、違うって」
「……」
沈黙のあと。
「もう、しばらく連絡しないほうがいいかも」
由奈の泣き声が、スピーカー越しに漏れる。
「私のせい?」
「違う」
「お姉ちゃん、怒ってる?」
「違う」
違う。
違う。
でも、由奈は距離を置く。
数日後。
SNSから、圭吾の写真が消える。
連絡も減る。
若さの幻想は、簡単に壊れる。
無垢な賞賛は、距離を置けば消える。
テーブルの上の離婚届。
圭吾はそれを見つめる。
「本当に、出すのか」
「うん」
「俺、どうすれば」
私は首を傾げる。
「楽なほう、選べばいい」
「真帆」
「私は、あなたの楽じゃない」
静かに言う。
圭吾の肩が震える。
崩れていく。
若さに救われるはずだった男。
賞賛に包まれていたはずの男。
今は、ただの、取り残された大人。
「……俺、ひとりになる」
その言葉に、私は何も感じない。
哀れみも。
優越も。
ただ、事実。
「私もよ」
私はペンを差し出す。
「書いて」
圭吾の手が震える。
紙の上に、インクが滲む。
名前。
住所。
日付。
それを書き終えた瞬間。
私は静かに息を吐く。
窓の外は、夜。
冷たい空気。
でも、遠くで、春の匂いがする。
若さの幻想は終わった。
賞賛の幻も消えた。
残ったのは、ただの人間。
そして、私は。
役割を脱いだ、ただの女。
氷は割れた。
音は、思ったよりも小さかった。
テーブルの上に、白い紙が一枚。
昼間の光を受けて、やけに明るい。
役所でもらってきた離婚届。
薄く、頼りない紙なのに、指先に乗せると重い。
私はボールペンを置いたまま、その紙をまっすぐに整える。
夕方六時。
圭吾が帰ってくる。
「ただいま」
「おかえり」
声は、穏やか。
キッチンには味噌汁の匂いが漂っている。
いつも通りの夕食。
いつも通りの食卓。
違うのは、テーブルの中央に置かれた白い紙だけ。
「……なにこれ」
圭吾が気づく。
靴も脱がずに、固まる。
「離婚届」
私は箸を揃えながら言う。
「は?」
短い、乾いた声。
「本気じゃないよな?」
その問いは、どこか笑いを含んでいる。
冗談だと思いたい顔。
「本気」
私は顔を上げる。
まっすぐに見る。
圭吾の喉が、上下する。
「なんで」
「話したでしょ」
「話って」
「楽なんだよ、って」
圭吾の顔が歪む。
「まだそれ言うのか」
「忘れてない」
忘れない。
あの夜の空気。
あの一言。
「俺はさ」
圭吾が椅子を引く。
「そんなつもりで言ったわけじゃない」
「どういうつもり?」
「ちょっと軽い気持ちで」
「楽な気持ち?」
私は微笑む。
怒っていない。
叫んでいない。
ただ、整理している。
「あなた、楽なほうが好きなんでしょ」
「違う」
「違わない」
「違うって!」
声が大きくなる。
私は味噌汁を一口飲む。
温かい。
喉を通る。
「私は、もう楽じゃないの」
圭吾が黙る。
「真帆」
「なに」
「それで離婚?」
「うん」
「そんな簡単に?」
「簡単じゃない」
私は紙を撫でる。
冷たい。
「ずっと準備してた」
「準備?」
「仕事、増やした」
「……」
「資格も取った」
「……」
「貯金もある」
圭吾の顔色が変わる。
「いつから」
「あなたが“楽なんだよ”って言った日から」
静寂。
時計の音。
カチ、カチ。
「俺はさ」
圭吾の声が、急に弱くなる。
「由奈ちゃんと何かあったわけじゃない」
「知ってる」
「本当に何もない」
「知ってる」
「じゃあなんで」
私は初めて、少しだけ息を強く吐く。
「何もないのに、私は楽じゃなかった」
それが全て。
圭吾は椅子に崩れるように座る。
「やり直せるだろ」
「どうやって?」
「俺、変わる」
「何を?」
「ちゃんと真帆見る」
私は彼を見る。
初めて、焦りの混じった目。
「今まで見てなかったの?」
「そんなこと」
「あなたが見てたのは」
私は言葉を選ぶ。
「若さ」
圭吾の肩が揺れる。
「無垢さ」
「違う」
「賞賛」
沈黙。
「あなたは、由奈じゃなくて」
「……」
「由奈に褒められてる自分が好きだった」
圭吾の目に、初めて涙が浮かぶ。
「そんなの、みんなそうだろ」
「そうかもね」
「俺、悪いことしてない」
「してないよ」
私は頷く。
「だからこそ、無理なの」
「は?」
「悪くないまま、私が削れていった」
その言葉に、圭吾が口を閉じる。
その夜。
圭吾は由奈に連絡する。
私は見ない。
でも、廊下越しに声が聞こえる。
「……真帆、本気なんだ」
「……」
「いや、違うって」
「……」
沈黙のあと。
「もう、しばらく連絡しないほうがいいかも」
由奈の泣き声が、スピーカー越しに漏れる。
「私のせい?」
「違う」
「お姉ちゃん、怒ってる?」
「違う」
違う。
違う。
でも、由奈は距離を置く。
数日後。
SNSから、圭吾の写真が消える。
連絡も減る。
若さの幻想は、簡単に壊れる。
無垢な賞賛は、距離を置けば消える。
テーブルの上の離婚届。
圭吾はそれを見つめる。
「本当に、出すのか」
「うん」
「俺、どうすれば」
私は首を傾げる。
「楽なほう、選べばいい」
「真帆」
「私は、あなたの楽じゃない」
静かに言う。
圭吾の肩が震える。
崩れていく。
若さに救われるはずだった男。
賞賛に包まれていたはずの男。
今は、ただの、取り残された大人。
「……俺、ひとりになる」
その言葉に、私は何も感じない。
哀れみも。
優越も。
ただ、事実。
「私もよ」
私はペンを差し出す。
「書いて」
圭吾の手が震える。
紙の上に、インクが滲む。
名前。
住所。
日付。
それを書き終えた瞬間。
私は静かに息を吐く。
窓の外は、夜。
冷たい空気。
でも、遠くで、春の匂いがする。
若さの幻想は終わった。
賞賛の幻も消えた。
残ったのは、ただの人間。
そして、私は。
役割を脱いだ、ただの女。
氷は割れた。
音は、思ったよりも小さかった。
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