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第8話 氷の準備
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第8話 氷の準備
朝六時。
まだ空は薄い灰色で、隣のマンションの輪郭がぼんやりと浮かんでいる。
キッチンの窓を少し開けると、冷たい空気が指先を刺した。
私はコーヒーを淹れる。
粉に湯を落とすと、ふわりと苦い香りが立ち上る。
その匂いを、ゆっくり吸い込む。
最近、よく早起きする。
圭吾が起きる前の、静かな時間が好きになった。
ノートパソコンを開く。
資格講座の動画を再生する。
イヤホンを耳に入れる。
「本日の講義は、離婚時の財産分与の基本構造について――」
画面の中の講師が淡々と話す。
私はメモを取る。
ペン先が紙を走る音。
かり、かり、かり。
心臓は静かだ。
怒りもない。
焦りもない。
ただ、準備。
氷が張る前の水面のように、透明で、冷たい。
圭吾が起きてくる。
「……早いな」
「うん」
「何してんの」
「勉強」
「何の?」
「資格」
「今さら?」
その“今さら”という言葉に、少しだけ笑う。
「今だから」
私はカップを差し出す。
「コーヒー」
「ありがと」
圭吾は受け取りながら、私を見る。
じっと。
「最近、冷たくない?」
来た。
私はカップを口に運ぶ。
苦味が舌に広がる。
「普通よ」
「いや、なんかさ」
「何?」
「前みたいに、話聞いてくれない」
「聞いてるよ」
「違う」
圭吾は眉をひそめる。
「反応が薄い」
「そう?」
「うん」
私は微笑む。
「大人になっただけ」
「意味わかんねえ」
私はノートを閉じる。
「あなた、昨日何時に帰ってきた?」
「十一時くらい」
「うん」
「それが?」
「何も」
何も。
私は立ち上がり、洗濯機を回す。
水が回る音が、低く響く。
昼。
私は仕事に向かう。
パートの時間を増やした。
「真帆さん、最近シフト増やしましたよね」
同僚が言う。
「うん、ちょっとね」
「無理しないでくださいね」
「大丈夫」
レジのスキャナーが、ピッ、ピッ、と鳴る。
単純作業。
嫌いじゃない。
数字が積み上がる。
私の口座にも、少しずつ積み上がる。
夜。
圭吾はテレビを見ている。
「今日さ、会社でさ」
話しかけてくる。
「うん」
「新しいプロジェクト任された」
「すごいね」
それだけ。
「……それだけ?」
「何が」
「もっとさ」
「何?」
「なんかあるだろ」
私は首を傾げる。
「おめでとう、で足りない?」
「……前はさ」
圭吾が言葉を探す。
「もっと喜んでくれた」
私は、少し考える。
「喜んでるよ」
「顔がさ」
「顔?」
「平坦」
私は笑う。
「平坦、いいじゃない」
「よくない」
彼の声に、わずかな焦りが混じる。
「真帆、どっか行くの?」
「どこに?」
「わかんないけど」
私は彼を見る。
真正面から。
「どこにも行かないよ」
まだ。
深夜。
圭吾が寝た後、私は机に向かう。
電卓を叩く。
貯金額を確認する。
家賃の相場を調べる。
賃貸サイトの写真を眺める。
白い壁。
小さなキッチン。
一人分の空間。
胸が、少しだけ高鳴る。
怖くない。
むしろ、静かに整っていく感覚。
数日後。
「真帆」
「なに」
「本当に最近おかしい」
「どこが?」
「怒らない」
「怒ることないから」
「嫉妬もしない」
「する必要ある?」
圭吾は黙る。
「なんかさ」
「うん」
「俺がいなくても平気そう」
私は、一瞬だけ言葉を止める。
それから、微笑む。
「平気じゃなかったら、どうするの?」
「……」
「平気じゃない方がいい?」
圭吾は目を逸らす。
私は、彼の不安を見ている。
観察するように。
氷がゆっくりと張っていく。
水面はまだ割れていない。
でも、もう戻らない。
洗面所で歯を磨く。
鏡の中の自分。
目が澄んでいる。
「冷たい?」
小さく呟く。
違う。
冷たくない。
熱を内側に戻しただけ。
布団に入る。
圭吾が背中を向ける。
「真帆」
「なに」
「俺のこと、好き?」
その問いに、少し間が空く。
昔なら即答した。
今は、考える。
「……嫌いじゃないよ」
それが精一杯。
圭吾は黙る。
私は天井を見る。
覚悟は、もう決まっている。
叫ばない。
宣言しない。
ただ、整える。
資格。
仕事。
貯金。
住まい。
証拠。
氷は、音を立てずに厚くなる。
圭吾は、不安を感じ始めている。
でもまだ、正体を知らない。
「最近、冷たくない?」
その言葉を思い出す。
私は、暗闇の中で微笑む。
「普通よ」
氷は、もう割れる準備ができている。
朝六時。
まだ空は薄い灰色で、隣のマンションの輪郭がぼんやりと浮かんでいる。
キッチンの窓を少し開けると、冷たい空気が指先を刺した。
私はコーヒーを淹れる。
粉に湯を落とすと、ふわりと苦い香りが立ち上る。
その匂いを、ゆっくり吸い込む。
最近、よく早起きする。
圭吾が起きる前の、静かな時間が好きになった。
ノートパソコンを開く。
資格講座の動画を再生する。
イヤホンを耳に入れる。
「本日の講義は、離婚時の財産分与の基本構造について――」
画面の中の講師が淡々と話す。
私はメモを取る。
ペン先が紙を走る音。
かり、かり、かり。
心臓は静かだ。
怒りもない。
焦りもない。
ただ、準備。
氷が張る前の水面のように、透明で、冷たい。
圭吾が起きてくる。
「……早いな」
「うん」
「何してんの」
「勉強」
「何の?」
「資格」
「今さら?」
その“今さら”という言葉に、少しだけ笑う。
「今だから」
私はカップを差し出す。
「コーヒー」
「ありがと」
圭吾は受け取りながら、私を見る。
じっと。
「最近、冷たくない?」
来た。
私はカップを口に運ぶ。
苦味が舌に広がる。
「普通よ」
「いや、なんかさ」
「何?」
「前みたいに、話聞いてくれない」
「聞いてるよ」
「違う」
圭吾は眉をひそめる。
「反応が薄い」
「そう?」
「うん」
私は微笑む。
「大人になっただけ」
「意味わかんねえ」
私はノートを閉じる。
「あなた、昨日何時に帰ってきた?」
「十一時くらい」
「うん」
「それが?」
「何も」
何も。
私は立ち上がり、洗濯機を回す。
水が回る音が、低く響く。
昼。
私は仕事に向かう。
パートの時間を増やした。
「真帆さん、最近シフト増やしましたよね」
同僚が言う。
「うん、ちょっとね」
「無理しないでくださいね」
「大丈夫」
レジのスキャナーが、ピッ、ピッ、と鳴る。
単純作業。
嫌いじゃない。
数字が積み上がる。
私の口座にも、少しずつ積み上がる。
夜。
圭吾はテレビを見ている。
「今日さ、会社でさ」
話しかけてくる。
「うん」
「新しいプロジェクト任された」
「すごいね」
それだけ。
「……それだけ?」
「何が」
「もっとさ」
「何?」
「なんかあるだろ」
私は首を傾げる。
「おめでとう、で足りない?」
「……前はさ」
圭吾が言葉を探す。
「もっと喜んでくれた」
私は、少し考える。
「喜んでるよ」
「顔がさ」
「顔?」
「平坦」
私は笑う。
「平坦、いいじゃない」
「よくない」
彼の声に、わずかな焦りが混じる。
「真帆、どっか行くの?」
「どこに?」
「わかんないけど」
私は彼を見る。
真正面から。
「どこにも行かないよ」
まだ。
深夜。
圭吾が寝た後、私は机に向かう。
電卓を叩く。
貯金額を確認する。
家賃の相場を調べる。
賃貸サイトの写真を眺める。
白い壁。
小さなキッチン。
一人分の空間。
胸が、少しだけ高鳴る。
怖くない。
むしろ、静かに整っていく感覚。
数日後。
「真帆」
「なに」
「本当に最近おかしい」
「どこが?」
「怒らない」
「怒ることないから」
「嫉妬もしない」
「する必要ある?」
圭吾は黙る。
「なんかさ」
「うん」
「俺がいなくても平気そう」
私は、一瞬だけ言葉を止める。
それから、微笑む。
「平気じゃなかったら、どうするの?」
「……」
「平気じゃない方がいい?」
圭吾は目を逸らす。
私は、彼の不安を見ている。
観察するように。
氷がゆっくりと張っていく。
水面はまだ割れていない。
でも、もう戻らない。
洗面所で歯を磨く。
鏡の中の自分。
目が澄んでいる。
「冷たい?」
小さく呟く。
違う。
冷たくない。
熱を内側に戻しただけ。
布団に入る。
圭吾が背中を向ける。
「真帆」
「なに」
「俺のこと、好き?」
その問いに、少し間が空く。
昔なら即答した。
今は、考える。
「……嫌いじゃないよ」
それが精一杯。
圭吾は黙る。
私は天井を見る。
覚悟は、もう決まっている。
叫ばない。
宣言しない。
ただ、整える。
資格。
仕事。
貯金。
住まい。
証拠。
氷は、音を立てずに厚くなる。
圭吾は、不安を感じ始めている。
でもまだ、正体を知らない。
「最近、冷たくない?」
その言葉を思い出す。
私は、暗闇の中で微笑む。
「普通よ」
氷は、もう割れる準備ができている。
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