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第7話 姉をやめる
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第7話 姉をやめる
実家の玄関は、いつもと同じ匂いがした。
醤油と、古い木材と、少し湿った畳の匂い。
子どもの頃から変わらない匂い。
「ただいま」
声が、思ったより低く響く。
「真帆? 急にどうしたの」
母が台所から顔を出す。
エプロンの端で手を拭きながら。
由奈はリビングにいる。
ソファに座って、スマホをいじっている。
「お姉ちゃん?」
顔を上げる。
あの、無防備な目。
私は靴を脱ぐ。
床板の冷たさが、足の裏を刺す。
「ちょっと、話」
母が怪訝な顔をする。
「何よ、改まって」
私はリビングの中央に立つ。
座らない。
逃げない。
由奈が笑う。
「なに? 怖いんだけど」
怖い。
最近よく言われる。
私は深呼吸する。
畳の青い匂いが、肺に入る。
「もうね」
声が震えないことに、自分で驚く。
「お姉ちゃん、やめるね」
空気が止まる。
「……は?」
由奈が瞬きする。
母が皿を落としそうになる。
「何言ってんの、真帆」
「姉、やめる」
「馬鹿なこと言わないで」
母の声が強くなる。
「お姉ちゃんはお姉ちゃんでしょ」
「そうやって、ずっと言われてきた」
私は母を見る。
小さくなった肩。
でも、目はまだ鋭い。
「“お姉ちゃんなんだから”って」
「当たり前でしょ。年上なんだから」
「うん」
私は頷く。
「でも、それ、役割でしょ」
「何が言いたいの」
由奈が立ち上がる。
「お姉ちゃん、どうしたの?」
その声。
泣きそうな声。
昔なら、私はすぐ近づいていた。
今は、立ったまま。
「由奈」
「なに」
「私はね、あなたの盾じゃない」
「……え?」
「泣いたら慰める係でもない」
「何それ」
「失敗したら庇う係でもない」
「意味わかんないよ!」
由奈の目に涙が溜まる。
私は、見ている。
動かない。
「お姉ちゃん、私、何かした?」
震える声。
胸の奥が、少しだけ痛む。
でも、私は近づかない。
「何もしてない」
「じゃあなんで!」
「私が、もう無理なだけ」
母が間に入る。
「真帆、落ち着きなさい」
「落ち着いてる」
「妹に当たらないの」
「当たってない」
私はゆっくり言う。
「事実を言ってるだけ」
由奈が泣き出す。
「私、お姉ちゃんのこと好きだよ?」
好き。
その言葉が、柔らかく落ちる。
私は目を閉じる。
「知ってる」
「じゃあなんで!」
「好きだからって、背負わなきゃいけないわけじゃない」
母が怒る。
「そんな冷たいこと言う子に育てた覚えないわよ」
冷たい。
また。
「冷たいんじゃない」
私は母を見る。
「私、ずっと温めすぎただけ」
沈黙。
時計の秒針。
カチ、カチ。
「お姉ちゃん、私、なんか迷惑だった?」
由奈の涙が頬を伝う。
その透明さ。
昔から変わらない。
「迷惑じゃない」
「じゃあ!」
「羨ましかった」
口に出してしまう。
二人が止まる。
「……何が」
由奈が小さく聞く。
「守られてること」
母の顔が強張る。
「何それ」
「泣けば、誰かが来ること」
「……」
「失敗しても、可愛いで済むこと」
「そんなことない!」
由奈が叫ぶ。
「私だって頑張ってる!」
「知ってる」
私は頷く。
「でも、役割は違った」
私は母に向き直る。
「お母さん」
「なによ」
「私は、あなたの代わりじゃない」
「……」
「由奈を守る係じゃない」
「姉なんだから」
「やめる」
はっきり言う。
「今日から」
由奈がしゃがみ込む。
「お姉ちゃん、ひどい」
ひどい。
そうだと思う。
でも、私は慰めない。
足が動かないのではない。
動かさない。
初めて。
私は初めて、近づかない。
母が由奈の背中をさする。
「大丈夫よ、由奈」
その光景を、私は見る。
ああ。
これが、本来の形。
母が娘を慰める。
私は、そこに入らない。
胸が、少し軽い。
寂しさもある。
でも、軽い。
「真帆」
母が言う。
「後悔するわよ」
「しない」
「家族なのよ?」
「だから?」
私は静かに言う。
「家族でも、役割は選べる」
母が言葉を失う。
由奈が、しゃくりあげる。
「お姉ちゃん、嫌いになる」
私は、目を逸らさない。
「それでもいい」
声が震えない。
不思議なくらい。
「私は、私になる」
沈黙。
畳の匂い。
涙の塩の匂い。
夕方の光が、部屋を橙色に染める。
私は玄関に向かう。
「真帆!」
母の声。
振り返らない。
「もう、お姉ちゃんはやめる」
靴を履く。
冷たい。
ドアを開ける。
外の空気が、頬を打つ。
冷たい。
でも、澄んでいる。
私は息を吸う。
肺が広がる。
背中が、少し軽い。
家の中から、由奈の泣き声が聞こえる。
私は歩く。
慰めない。
戻らない。
初めて、役割を放棄した。
私は、姉ではなく。
ただの、真帆として、夜の空気の中に立っていた。
実家の玄関は、いつもと同じ匂いがした。
醤油と、古い木材と、少し湿った畳の匂い。
子どもの頃から変わらない匂い。
「ただいま」
声が、思ったより低く響く。
「真帆? 急にどうしたの」
母が台所から顔を出す。
エプロンの端で手を拭きながら。
由奈はリビングにいる。
ソファに座って、スマホをいじっている。
「お姉ちゃん?」
顔を上げる。
あの、無防備な目。
私は靴を脱ぐ。
床板の冷たさが、足の裏を刺す。
「ちょっと、話」
母が怪訝な顔をする。
「何よ、改まって」
私はリビングの中央に立つ。
座らない。
逃げない。
由奈が笑う。
「なに? 怖いんだけど」
怖い。
最近よく言われる。
私は深呼吸する。
畳の青い匂いが、肺に入る。
「もうね」
声が震えないことに、自分で驚く。
「お姉ちゃん、やめるね」
空気が止まる。
「……は?」
由奈が瞬きする。
母が皿を落としそうになる。
「何言ってんの、真帆」
「姉、やめる」
「馬鹿なこと言わないで」
母の声が強くなる。
「お姉ちゃんはお姉ちゃんでしょ」
「そうやって、ずっと言われてきた」
私は母を見る。
小さくなった肩。
でも、目はまだ鋭い。
「“お姉ちゃんなんだから”って」
「当たり前でしょ。年上なんだから」
「うん」
私は頷く。
「でも、それ、役割でしょ」
「何が言いたいの」
由奈が立ち上がる。
「お姉ちゃん、どうしたの?」
その声。
泣きそうな声。
昔なら、私はすぐ近づいていた。
今は、立ったまま。
「由奈」
「なに」
「私はね、あなたの盾じゃない」
「……え?」
「泣いたら慰める係でもない」
「何それ」
「失敗したら庇う係でもない」
「意味わかんないよ!」
由奈の目に涙が溜まる。
私は、見ている。
動かない。
「お姉ちゃん、私、何かした?」
震える声。
胸の奥が、少しだけ痛む。
でも、私は近づかない。
「何もしてない」
「じゃあなんで!」
「私が、もう無理なだけ」
母が間に入る。
「真帆、落ち着きなさい」
「落ち着いてる」
「妹に当たらないの」
「当たってない」
私はゆっくり言う。
「事実を言ってるだけ」
由奈が泣き出す。
「私、お姉ちゃんのこと好きだよ?」
好き。
その言葉が、柔らかく落ちる。
私は目を閉じる。
「知ってる」
「じゃあなんで!」
「好きだからって、背負わなきゃいけないわけじゃない」
母が怒る。
「そんな冷たいこと言う子に育てた覚えないわよ」
冷たい。
また。
「冷たいんじゃない」
私は母を見る。
「私、ずっと温めすぎただけ」
沈黙。
時計の秒針。
カチ、カチ。
「お姉ちゃん、私、なんか迷惑だった?」
由奈の涙が頬を伝う。
その透明さ。
昔から変わらない。
「迷惑じゃない」
「じゃあ!」
「羨ましかった」
口に出してしまう。
二人が止まる。
「……何が」
由奈が小さく聞く。
「守られてること」
母の顔が強張る。
「何それ」
「泣けば、誰かが来ること」
「……」
「失敗しても、可愛いで済むこと」
「そんなことない!」
由奈が叫ぶ。
「私だって頑張ってる!」
「知ってる」
私は頷く。
「でも、役割は違った」
私は母に向き直る。
「お母さん」
「なによ」
「私は、あなたの代わりじゃない」
「……」
「由奈を守る係じゃない」
「姉なんだから」
「やめる」
はっきり言う。
「今日から」
由奈がしゃがみ込む。
「お姉ちゃん、ひどい」
ひどい。
そうだと思う。
でも、私は慰めない。
足が動かないのではない。
動かさない。
初めて。
私は初めて、近づかない。
母が由奈の背中をさする。
「大丈夫よ、由奈」
その光景を、私は見る。
ああ。
これが、本来の形。
母が娘を慰める。
私は、そこに入らない。
胸が、少し軽い。
寂しさもある。
でも、軽い。
「真帆」
母が言う。
「後悔するわよ」
「しない」
「家族なのよ?」
「だから?」
私は静かに言う。
「家族でも、役割は選べる」
母が言葉を失う。
由奈が、しゃくりあげる。
「お姉ちゃん、嫌いになる」
私は、目を逸らさない。
「それでもいい」
声が震えない。
不思議なくらい。
「私は、私になる」
沈黙。
畳の匂い。
涙の塩の匂い。
夕方の光が、部屋を橙色に染める。
私は玄関に向かう。
「真帆!」
母の声。
振り返らない。
「もう、お姉ちゃんはやめる」
靴を履く。
冷たい。
ドアを開ける。
外の空気が、頬を打つ。
冷たい。
でも、澄んでいる。
私は息を吸う。
肺が広がる。
背中が、少し軽い。
家の中から、由奈の泣き声が聞こえる。
私は歩く。
慰めない。
戻らない。
初めて、役割を放棄した。
私は、姉ではなく。
ただの、真帆として、夜の空気の中に立っていた。
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