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第6話 楽なんだよ
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第6話 楽なんだよ
夜は、妙に静かだった。
食器を洗う水音が、やけに響く。
スポンジが皿をこする、きゅっ、きゅっ、という規則正しい音。
圭吾はリビングでテレビを見ている。
笑い声のSEが、空虚に弾む。
私は蛇口を閉めた。
水滴が、ぽたり、と一つ落ちる。
「圭吾」
「んー?」
「話ある」
テレビの音量が下がる。
「なに」
私は手を拭く。
タオルの繊維が、指先の荒れた皮膚に引っかかる。
向かい合って座る。
テーブルの上には、夕食の残り香。
味噌と生姜の匂いが、まだ微かに漂っている。
「妹、好き?」
空気が止まる。
圭吾の瞬きが、一拍遅れる。
「……は?」
「由奈」
「急に何」
「答えて」
私は笑っていない。
怒ってもいない。
ただ、聞いている。
圭吾は視線を逸らす。
「好きとかじゃない」
「じゃあ何」
「義理の妹だろ」
「そうだね」
私は頷く。
「でも、“好き?”って聞いたら、否定はしなかった」
圭吾が舌打ちしそうな顔をする。
「面倒くさいな」
「うん、面倒くさいね」
静かに言う。
「でも、聞きたいの」
沈黙。
エアコンの送風音が、低く唸る。
「……違うよ」
圭吾がやっと口を開く。
「好きとか、そういうのじゃない」
「じゃあ?」
「ただ」
彼は髪をかき上げる。
「楽なんだよ」
楽。
その一言が、テーブルの上に置かれた。
軽く。
あっけなく。
「……楽?」
「うん」
圭吾は続ける。
「由奈ちゃん、何も考えてないだろ」
「うん」
「俺が何言っても、すぐ笑うし」
「うん」
「すごいって言ってくれるし」
「うん」
「責めないし」
私は、息を吸う。
肺が冷たい。
「私、責めてる?」
「そうじゃなくて」
圭吾は苛立つ。
「真帆はさ、いつも正しいじゃん」
「正しい?」
「俺がちょっと愚痴ったら、すぐ分析するし」
分析。
「こうすればいい、ああすればいいって」
「あなたが困ってたから」
「分かってるよ!」
声が少し荒れる。
「でもさ、たまにはさ」
彼は目を伏せる。
「何も考えずに、すごいって言われたい時もあるんだよ」
私は、彼の顔を見る。
子どもみたいだ。
拗ねた顔。
「……楽なんだよ」
もう一度、言う。
楽。
私といるのは、楽じゃない。
その事実が、胸の中で、静かに沈む。
重たい石みたいに。
でも、涙は出ない。
怒りも湧かない。
ただ、音が遠くなる。
「そっか」
私は頷く。
「私、楽じゃなかったんだ」
「そういう言い方するなよ」
「どういう言い方?」
「責めてるみたいだろ」
「責めてないよ」
本当に。
責める気持ちは、どこかへ消えている。
ただ。
何かが、静かに死んだ。
五年前。
結婚式の日。
白いドレスの裾を踏まないように歩きながら、私は思った。
この人を支える。
この人と、並ぶ。
隣に立つ。
でも今。
目の前の男は、私を“楽じゃない存在”として見ている。
私は背筋を伸ばす。
「ねえ」
「なに」
「私も、楽じゃなかったよ」
圭吾が顔を上げる。
「どういう意味だよ」
「あなたの機嫌、ずっと気にしてた」
「……」
「自信なくしたら、持ち上げて」
「……」
「失敗したら、慰めて」
「……」
「それ、楽じゃなかった」
圭吾は何も言わない。
私は、初めて気づく。
私はずっと、“役割”をやっていた。
楽じゃない役割。
しっかり者。
理解ある妻。
冷静な姉。
「由奈は楽なんだね」
「……そうだよ」
「そっか」
私は立ち上がる。
足の裏が、床の冷たさを感じる。
キッチンに行き、水を飲む。
冷たい。
喉を通る。
ちゃんと、感覚がある。
リビングに戻る。
圭吾はソファに座ったまま、動かない。
「真帆」
「なに」
「怒らないのか?」
「怒る?」
「普通、怒るだろ」
「そう?」
私は首を傾げる。
「怒るって、まだあなたに期待してるってことでしょ」
圭吾の顔が固まる。
「……何言ってんだよ」
「楽なんでしょ」
「……」
「じゃあ、楽な方にいればいい」
私は微笑む。
優しくもなく、冷たくもない笑顔。
ただ、距離のある笑顔。
その瞬間。
圭吾の輪郭が、少し変わる。
夫ではない。
他人。
同じ空間にいる、別の大人。
私は初めて、彼を“外側”から見る。
この人は、承認が欲しい。
褒められたい。
持ち上げられたい。
楽でいたい。
それだけ。
私は深呼吸する。
胸が、意外と静かだ。
嵐は来ない。
泣き叫びもしない。
ただ、静かな空洞。
そこに、冷たい風が吹いている。
「……真帆」
圭吾の声が、少し不安げになる。
「何」
「なんか、怖い」
私は首を傾げる。
「さっきも言ったね」
「違う」
「何が?」
「なんか、遠い」
遠い。
そうかもしれない。
私は頷く。
「うん」
「うんって」
「少し、楽になった」
私の方が。
圭吾は言葉を失う。
私は自分の手を見る。
震えていない。
冷たいけれど、安定している。
楽。
その一言で、何かが死んだ。
でも。
同時に、何かが生まれた。
私はもう、“役割”として隣にいるわけじゃない。
私は、私として、ここにいる。
そして、目の前の男は。
私の夫ではなく。
ただの、楽を求める一人の人間。
それだけ。
テレビの画面が、無音のまま光っている。
私はリモコンを取り、電源を切った。
部屋が、しん、と静まる。
この静けさの中で。
覚醒は、声を上げずに始まった。
夜は、妙に静かだった。
食器を洗う水音が、やけに響く。
スポンジが皿をこする、きゅっ、きゅっ、という規則正しい音。
圭吾はリビングでテレビを見ている。
笑い声のSEが、空虚に弾む。
私は蛇口を閉めた。
水滴が、ぽたり、と一つ落ちる。
「圭吾」
「んー?」
「話ある」
テレビの音量が下がる。
「なに」
私は手を拭く。
タオルの繊維が、指先の荒れた皮膚に引っかかる。
向かい合って座る。
テーブルの上には、夕食の残り香。
味噌と生姜の匂いが、まだ微かに漂っている。
「妹、好き?」
空気が止まる。
圭吾の瞬きが、一拍遅れる。
「……は?」
「由奈」
「急に何」
「答えて」
私は笑っていない。
怒ってもいない。
ただ、聞いている。
圭吾は視線を逸らす。
「好きとかじゃない」
「じゃあ何」
「義理の妹だろ」
「そうだね」
私は頷く。
「でも、“好き?”って聞いたら、否定はしなかった」
圭吾が舌打ちしそうな顔をする。
「面倒くさいな」
「うん、面倒くさいね」
静かに言う。
「でも、聞きたいの」
沈黙。
エアコンの送風音が、低く唸る。
「……違うよ」
圭吾がやっと口を開く。
「好きとか、そういうのじゃない」
「じゃあ?」
「ただ」
彼は髪をかき上げる。
「楽なんだよ」
楽。
その一言が、テーブルの上に置かれた。
軽く。
あっけなく。
「……楽?」
「うん」
圭吾は続ける。
「由奈ちゃん、何も考えてないだろ」
「うん」
「俺が何言っても、すぐ笑うし」
「うん」
「すごいって言ってくれるし」
「うん」
「責めないし」
私は、息を吸う。
肺が冷たい。
「私、責めてる?」
「そうじゃなくて」
圭吾は苛立つ。
「真帆はさ、いつも正しいじゃん」
「正しい?」
「俺がちょっと愚痴ったら、すぐ分析するし」
分析。
「こうすればいい、ああすればいいって」
「あなたが困ってたから」
「分かってるよ!」
声が少し荒れる。
「でもさ、たまにはさ」
彼は目を伏せる。
「何も考えずに、すごいって言われたい時もあるんだよ」
私は、彼の顔を見る。
子どもみたいだ。
拗ねた顔。
「……楽なんだよ」
もう一度、言う。
楽。
私といるのは、楽じゃない。
その事実が、胸の中で、静かに沈む。
重たい石みたいに。
でも、涙は出ない。
怒りも湧かない。
ただ、音が遠くなる。
「そっか」
私は頷く。
「私、楽じゃなかったんだ」
「そういう言い方するなよ」
「どういう言い方?」
「責めてるみたいだろ」
「責めてないよ」
本当に。
責める気持ちは、どこかへ消えている。
ただ。
何かが、静かに死んだ。
五年前。
結婚式の日。
白いドレスの裾を踏まないように歩きながら、私は思った。
この人を支える。
この人と、並ぶ。
隣に立つ。
でも今。
目の前の男は、私を“楽じゃない存在”として見ている。
私は背筋を伸ばす。
「ねえ」
「なに」
「私も、楽じゃなかったよ」
圭吾が顔を上げる。
「どういう意味だよ」
「あなたの機嫌、ずっと気にしてた」
「……」
「自信なくしたら、持ち上げて」
「……」
「失敗したら、慰めて」
「……」
「それ、楽じゃなかった」
圭吾は何も言わない。
私は、初めて気づく。
私はずっと、“役割”をやっていた。
楽じゃない役割。
しっかり者。
理解ある妻。
冷静な姉。
「由奈は楽なんだね」
「……そうだよ」
「そっか」
私は立ち上がる。
足の裏が、床の冷たさを感じる。
キッチンに行き、水を飲む。
冷たい。
喉を通る。
ちゃんと、感覚がある。
リビングに戻る。
圭吾はソファに座ったまま、動かない。
「真帆」
「なに」
「怒らないのか?」
「怒る?」
「普通、怒るだろ」
「そう?」
私は首を傾げる。
「怒るって、まだあなたに期待してるってことでしょ」
圭吾の顔が固まる。
「……何言ってんだよ」
「楽なんでしょ」
「……」
「じゃあ、楽な方にいればいい」
私は微笑む。
優しくもなく、冷たくもない笑顔。
ただ、距離のある笑顔。
その瞬間。
圭吾の輪郭が、少し変わる。
夫ではない。
他人。
同じ空間にいる、別の大人。
私は初めて、彼を“外側”から見る。
この人は、承認が欲しい。
褒められたい。
持ち上げられたい。
楽でいたい。
それだけ。
私は深呼吸する。
胸が、意外と静かだ。
嵐は来ない。
泣き叫びもしない。
ただ、静かな空洞。
そこに、冷たい風が吹いている。
「……真帆」
圭吾の声が、少し不安げになる。
「何」
「なんか、怖い」
私は首を傾げる。
「さっきも言ったね」
「違う」
「何が?」
「なんか、遠い」
遠い。
そうかもしれない。
私は頷く。
「うん」
「うんって」
「少し、楽になった」
私の方が。
圭吾は言葉を失う。
私は自分の手を見る。
震えていない。
冷たいけれど、安定している。
楽。
その一言で、何かが死んだ。
でも。
同時に、何かが生まれた。
私はもう、“役割”として隣にいるわけじゃない。
私は、私として、ここにいる。
そして、目の前の男は。
私の夫ではなく。
ただの、楽を求める一人の人間。
それだけ。
テレビの画面が、無音のまま光っている。
私はリモコンを取り、電源を切った。
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覚醒は、声を上げずに始まった。
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