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第5話 欲望の標本
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第5話 欲望の標本
朝の光は、意外なほど残酷だ。
カーテンの隙間から差し込む白い線が、リビングのテーブルの上を斜めに切り裂いている。
昨夜、由奈が置いていったクッキーの箱が、半分開いたままそこにある。
甘いバターの匂いが、部屋に薄く残っていた。
私はそれを一枚、口に入れる。
さくり、と軽い音。
舌の上でほどける甘さ。
「……甘すぎ」
吐き出すほどではない。
でも、飲み込むと喉がひりつく。
圭吾はシャワーを浴びている。
水音が、浴室の向こうで途切れなく続いている。
私はソファに座り、スマホを開いた。
由奈のSNS。
昨日の写真が上がっている。
《お姉ちゃん家でごはん♡ 楽しかった~》
笑顔の絵文字。
私の顔は、写っていない。
圭吾の横顔だけが、柔らかく写っている。
その視線。
私は画面を拡大する。
圭吾は、由奈を見ている。
あの目。
あの目を、私は知っている。
結婚前、まだ私が“可愛い”と呼ばれていた頃。
新しいワンピースを着て、「似合う?」と聞いた時。
仕事で成果を出して、報告した時。
彼は同じ目で、私を見ていた。
「……ああ」
胸の奥で、何かが静かに組み立てられる。
圭吾が欲しいのは、由奈じゃない。
由奈の“若さ”でもない。
彼が欲しいのは――
無垢な賞賛。
無条件の肯定。
「お義兄さんすごい!」
「優しい!」
「さすが!」
そう言われる時の、あの少し得意げな横顔。
私は立ち上がり、洗面所へ行く。
鏡を見る。
35歳。
目尻にうっすら線。
頬の輪郭も、少し変わった。
「……老けた」
口に出してみる。
その言葉は、意外と軽い。
本当にそう?
私は自分の頬を触る。
冷たい。
でも、まだ弾力はある。
「違う」
私は鏡の中の自分に言う。
「老けたんじゃない」
役割。
しっかり者。
理解ある妻。
空気を読む姉。
その全部を、背負いすぎただけだ。
浴室のドアが開く。
「真帆?」
「なに」
「昨日のこと、まだ怒ってる?」
圭吾がタオルで髪を拭きながら言う。
「怒ってない」
「だったらあの顔は何?」
私は振り返る。
「どんな顔してた?」
「……怖かった」
怖い。
また。
「由奈にあんな言い方する必要あったか?」
「必要はなかったかもね」
「だろ?」
圭吾は安心したように笑う。
その笑い。
私はじっと見る。
「圭吾」
「ん?」
「あなたさ」
「なに」
「褒められるの、好きでしょ」
タオルの動きが止まる。
「……普通じゃない?」
「普通かな」
「なんだよ、急に」
私はゆっくり近づく。
シャンプーの匂いがする。
清潔で、爽やかで、少し甘い。
「由奈がさ、『優しい』って言うたびに、顔が変わる」
「変わってない」
「変わってる」
私は微笑む。
怒っていない。
泣いてもいない。
ただ、観察している。
「あなたが欲しいのは、由奈じゃないよね」
「は?」
「“若い子に褒められる自分”でしょ?」
沈黙。
時計の秒針が、やけに大きい。
「……考えすぎだよ」
「そうかもね」
でも、私は続ける。
「私が昔してたこと、覚えてる?」
「何を」
「あなたが仕事で失敗した時も、『大丈夫だよ』って言った」
「言ってたな」
「新しいネクタイ買った時も、『似合う』って言った」
「……言ってた」
「あなたが自信なくしてる時、持ち上げてたの、私だよ」
圭吾は目を逸らす。
私は気づく。
これは責めているのではない。
標本を、じっと見ているだけ。
欲望の標本。
ガラスの箱の中に入った、小さな生き物。
「真帆」
「なに」
「そんな言い方、やめろよ」
「どんな言い方?」
「分析みたいで気持ち悪い」
私は笑う。
「気持ち悪い?」
「うん」
「だって、見えてしまったんだもん」
私はテーブルに戻る。
クッキーをもう一枚、手に取る。
今度は、ゆっくり噛む。
甘さが、さっきよりも柔らかい。
「ねえ、圭吾」
「……何」
「私、変わった?」
「……ちょっと、冷たくなった」
「そう?」
「前はもっと、優しかった」
前。
私は頷く。
「優しかったんじゃないよ」
「は?」
「必死だったの」
役割を守るために。
姉でいるために。
妻でいるために。
若くて、可愛くて、肯定する存在でいるために。
圭吾は黙る。
私は深呼吸する。
胸が、少し軽い。
「ねえ」
「……何」
「私、若くないよ」
「当たり前だろ」
「でもね」
私は立ち上がる。
「若さを失ったんじゃない」
圭吾を見る。
「役割を背負いすぎただけ」
静かに言う。
怒鳴らない。
泣かない。
ただ、言う。
圭吾は何も返さない。
その沈黙が、答え。
私は洗面所に戻り、もう一度鏡を見る。
そこにいるのは、35歳の女。
でも、消えてはいない。
薄くもない。
ただ、疲れていただけ。
「……私は、まだいる」
小さく呟く。
圭吾の欲望が、由奈の無邪気さに反応するなら。
それは、彼の問題だ。
私は、標本にはならない。
誰かの欲望のガラス箱の中で、笑っている存在には戻らない。
窓の外で、風が揺れる。
まだ寒い。
でも、どこかで季節が動き始めている。
私の中でも、ほんの少しだけ、何かが変わった。
怒りではない。
絶望でもない。
観察。
理解。
そして、ほんの少しの距離。
私は初めて、夫を“見る側”に回った。
朝の光は、意外なほど残酷だ。
カーテンの隙間から差し込む白い線が、リビングのテーブルの上を斜めに切り裂いている。
昨夜、由奈が置いていったクッキーの箱が、半分開いたままそこにある。
甘いバターの匂いが、部屋に薄く残っていた。
私はそれを一枚、口に入れる。
さくり、と軽い音。
舌の上でほどける甘さ。
「……甘すぎ」
吐き出すほどではない。
でも、飲み込むと喉がひりつく。
圭吾はシャワーを浴びている。
水音が、浴室の向こうで途切れなく続いている。
私はソファに座り、スマホを開いた。
由奈のSNS。
昨日の写真が上がっている。
《お姉ちゃん家でごはん♡ 楽しかった~》
笑顔の絵文字。
私の顔は、写っていない。
圭吾の横顔だけが、柔らかく写っている。
その視線。
私は画面を拡大する。
圭吾は、由奈を見ている。
あの目。
あの目を、私は知っている。
結婚前、まだ私が“可愛い”と呼ばれていた頃。
新しいワンピースを着て、「似合う?」と聞いた時。
仕事で成果を出して、報告した時。
彼は同じ目で、私を見ていた。
「……ああ」
胸の奥で、何かが静かに組み立てられる。
圭吾が欲しいのは、由奈じゃない。
由奈の“若さ”でもない。
彼が欲しいのは――
無垢な賞賛。
無条件の肯定。
「お義兄さんすごい!」
「優しい!」
「さすが!」
そう言われる時の、あの少し得意げな横顔。
私は立ち上がり、洗面所へ行く。
鏡を見る。
35歳。
目尻にうっすら線。
頬の輪郭も、少し変わった。
「……老けた」
口に出してみる。
その言葉は、意外と軽い。
本当にそう?
私は自分の頬を触る。
冷たい。
でも、まだ弾力はある。
「違う」
私は鏡の中の自分に言う。
「老けたんじゃない」
役割。
しっかり者。
理解ある妻。
空気を読む姉。
その全部を、背負いすぎただけだ。
浴室のドアが開く。
「真帆?」
「なに」
「昨日のこと、まだ怒ってる?」
圭吾がタオルで髪を拭きながら言う。
「怒ってない」
「だったらあの顔は何?」
私は振り返る。
「どんな顔してた?」
「……怖かった」
怖い。
また。
「由奈にあんな言い方する必要あったか?」
「必要はなかったかもね」
「だろ?」
圭吾は安心したように笑う。
その笑い。
私はじっと見る。
「圭吾」
「ん?」
「あなたさ」
「なに」
「褒められるの、好きでしょ」
タオルの動きが止まる。
「……普通じゃない?」
「普通かな」
「なんだよ、急に」
私はゆっくり近づく。
シャンプーの匂いがする。
清潔で、爽やかで、少し甘い。
「由奈がさ、『優しい』って言うたびに、顔が変わる」
「変わってない」
「変わってる」
私は微笑む。
怒っていない。
泣いてもいない。
ただ、観察している。
「あなたが欲しいのは、由奈じゃないよね」
「は?」
「“若い子に褒められる自分”でしょ?」
沈黙。
時計の秒針が、やけに大きい。
「……考えすぎだよ」
「そうかもね」
でも、私は続ける。
「私が昔してたこと、覚えてる?」
「何を」
「あなたが仕事で失敗した時も、『大丈夫だよ』って言った」
「言ってたな」
「新しいネクタイ買った時も、『似合う』って言った」
「……言ってた」
「あなたが自信なくしてる時、持ち上げてたの、私だよ」
圭吾は目を逸らす。
私は気づく。
これは責めているのではない。
標本を、じっと見ているだけ。
欲望の標本。
ガラスの箱の中に入った、小さな生き物。
「真帆」
「なに」
「そんな言い方、やめろよ」
「どんな言い方?」
「分析みたいで気持ち悪い」
私は笑う。
「気持ち悪い?」
「うん」
「だって、見えてしまったんだもん」
私はテーブルに戻る。
クッキーをもう一枚、手に取る。
今度は、ゆっくり噛む。
甘さが、さっきよりも柔らかい。
「ねえ、圭吾」
「……何」
「私、変わった?」
「……ちょっと、冷たくなった」
「そう?」
「前はもっと、優しかった」
前。
私は頷く。
「優しかったんじゃないよ」
「は?」
「必死だったの」
役割を守るために。
姉でいるために。
妻でいるために。
若くて、可愛くて、肯定する存在でいるために。
圭吾は黙る。
私は深呼吸する。
胸が、少し軽い。
「ねえ」
「……何」
「私、若くないよ」
「当たり前だろ」
「でもね」
私は立ち上がる。
「若さを失ったんじゃない」
圭吾を見る。
「役割を背負いすぎただけ」
静かに言う。
怒鳴らない。
泣かない。
ただ、言う。
圭吾は何も返さない。
その沈黙が、答え。
私は洗面所に戻り、もう一度鏡を見る。
そこにいるのは、35歳の女。
でも、消えてはいない。
薄くもない。
ただ、疲れていただけ。
「……私は、まだいる」
小さく呟く。
圭吾の欲望が、由奈の無邪気さに反応するなら。
それは、彼の問題だ。
私は、標本にはならない。
誰かの欲望のガラス箱の中で、笑っている存在には戻らない。
窓の外で、風が揺れる。
まだ寒い。
でも、どこかで季節が動き始めている。
私の中でも、ほんの少しだけ、何かが変わった。
怒りではない。
絶望でもない。
観察。
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私は初めて、夫を“見る側”に回った。
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