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第4話 妹の無邪気
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第4話 妹の無邪気
日曜の午後。
窓を開けると、まだ冷たい風がレースのカーテンを膨らませた。
薄い洗剤の匂いと、由奈が持ってきた甘いフローラルの香水が混ざって、部屋の空気が少しだけ軽くなる。
「お邪魔しまーす!」
玄関から弾む声。
私はキッチンで包丁を握ったまま、「どうぞ」と返す。
トマトを切る刃先が、思ったより深く入りすぎて、赤い果汁がまな板に広がった。
「お義兄さんいるー?」
「いるよ」
背後で圭吾が答える声。
低くて、柔らかい。
私は振り返らない。
由奈は白いニットに、春色のスカート。
膝が見える丈。
まだ寒いのに。
「えー、寒くないの?」
思わず言う。
「若いから平気~」
笑う。
その笑い方が、昔と同じで、無防備で、無邪気で、何も考えていない顔。
「お義兄さん、これ食べてみて? 新しくできたお店のクッキーなんだよ」
由奈が圭吾の隣に座る。
距離が近い。
近い。
太ももが、触れていない?
触れている?
「ありがとう。由奈ちゃん、ほんと気が利くなあ」
圭吾が笑う。
その声のトーンが、私に向けるときと、微妙に違う。
「真帆はさ、こういうのあんまり買わないもんな」
「必要ないと思ってるだけ」
私の声は、少し硬い。
由奈が、きょとんとする。
「え? お姉ちゃん、怒ってる?」
「怒ってない」
怒ってない。
怒ってない。
怒ってない。
私は皿をテーブルに置く。
ガチャン、と音が少し強くなる。
「お義兄さんって、ほんと優しいよね~」
由奈が、圭吾の肩をぽん、と叩く。
「この前もさ、駅まで送ってくれたでしょ? めっちゃ助かった!」
「たまたまだよ」
圭吾が照れたように笑う。
「でもさ、お姉ちゃん羨ましいなあ。こんな旦那さんで」
由奈の指が、圭吾の腕に軽く触れる。
軽い。
悪気のない触れ方。
私は、フォークを握る手に力を入れる。
金属の冷たさが、指に食い込む。
「……由奈」
「なに?」
「距離、近くない?」
空気が一瞬止まる。
「え?」
「座る位置」
「えー? 普通じゃない?」
由奈は本当に分からない顔をする。
分からない。
何も分からない。
それが腹立たしい。
「真帆、気にしすぎだよ」
圭吾が、困ったように言う。
その言い方。
私が面倒くさいみたいな。
「そうだよー。お姉ちゃん昔から神経質なんだから」
昔から。
昔から。
お姉ちゃんなんだから。
お姉ちゃんなんだから。
胸の奥が、ざわつく。
私は水を飲む。
冷たい。
喉を通る感覚が、やけに生々しい。
「私、そんなに神経質?」
「うん」
由奈が笑う。
「だってさ、子どもの頃も、私が転んだらすぐ怒るんだもん。『走らないの!』って」
「あれは心配して」
「でもさ、怒ってる顔だったよ?」
由奈は笑う。
圭吾も笑う。
二人の笑い声が重なる。
私は、自分の笑い方を忘れる。
“あんた、何も知らないくせに”
心の奥で、言葉が膨らむ。
あんたは守られてきた。
怒られない。
責められない。
可愛いで済む。
私は違う。
私はいつも、“ちゃんとする側”。
今も。
「お姉ちゃんさ、ちょっと怖いよ」
由奈が、急に言う。
「え?」
「なんかさ、最近ずっと張りつめてる感じ。大丈夫?」
その無邪気な心配が、刃になる。
怖い?
私が?
「由奈はさ」
自分でも驚くくらい、声が低い。
「ほんとに、何も考えてないよね」
沈黙。
「……え?」
「お義兄さん優しいって言って、ベタベタして。既婚者だよ」
「ベタベタなんかしてないよ!」
由奈の頬が赤くなる。
「してる」
「してない!」
「してる」
私は立ち上がる。
椅子が床を擦る音が、耳に刺さる。
「真帆、やめろよ」
圭吾が言う。
「やめろって何?」
「由奈ちゃん悪くないだろ」
悪くない。
そう。
悪くない。
だから、余計に腹が立つ。
「……そうだよね」
私は笑う。
変な笑い。
「悪くないよね。由奈はいつも悪くない」
涙は出ない。
代わりに、喉の奥がひりつく。
「お姉ちゃん、なんでそんな言い方するの」
由奈の声が、少し震える。
「だって本当でしょ? あんた、何も知らないくせに」
言ってしまった。
止められなかった。
「何を?」
「……」
言えない。
1:12。
あのメッセージ。
言ったら、全部壊れる。
私は視線を逸らす。
「帰る」
由奈が立ち上がる。
「お姉ちゃん、意味わかんない」
ドアが閉まる音。
部屋に、沈黙。
圭吾がため息をつく。
「真帆、あれはないだろ」
「……何が?」
「嫉妬?」
その言葉が、胸を刺す。
「違う」
「じゃあ何?」
何。
何だろう。
嫉妬。
そうかもしれない。
私は椅子に座る。
手が震えている。
自分の指を見る。
爪の形。
少し荒れた肌。
若くない。
由奈の指は、もっと柔らかい。
「私、醜いね」
ぽつりと言う。
「は?」
「さっきの顔、ひどかったと思う」
圭吾は黙る。
否定しない。
それが答え。
私は目を閉じる。
妹に嫉妬する姉。
情けない。
滑稽。
でも、止まらない。
由奈の無邪気さが、羨ましい。
圭吾が、あの目で見る存在であることが、羨ましい。
私は初めて、妹を羨んだ。
それがこんなにも、苦いとは思わなかった。
部屋にはまだ、由奈の香水の匂いが残っている。
甘くて、軽くて、若い匂い。
私は深く息を吸い込む。
胸が痛む。
それでも。
これは、私の醜さだ。
誰のせいにもできない。
ただ、ここにある。
日曜の午後。
窓を開けると、まだ冷たい風がレースのカーテンを膨らませた。
薄い洗剤の匂いと、由奈が持ってきた甘いフローラルの香水が混ざって、部屋の空気が少しだけ軽くなる。
「お邪魔しまーす!」
玄関から弾む声。
私はキッチンで包丁を握ったまま、「どうぞ」と返す。
トマトを切る刃先が、思ったより深く入りすぎて、赤い果汁がまな板に広がった。
「お義兄さんいるー?」
「いるよ」
背後で圭吾が答える声。
低くて、柔らかい。
私は振り返らない。
由奈は白いニットに、春色のスカート。
膝が見える丈。
まだ寒いのに。
「えー、寒くないの?」
思わず言う。
「若いから平気~」
笑う。
その笑い方が、昔と同じで、無防備で、無邪気で、何も考えていない顔。
「お義兄さん、これ食べてみて? 新しくできたお店のクッキーなんだよ」
由奈が圭吾の隣に座る。
距離が近い。
近い。
太ももが、触れていない?
触れている?
「ありがとう。由奈ちゃん、ほんと気が利くなあ」
圭吾が笑う。
その声のトーンが、私に向けるときと、微妙に違う。
「真帆はさ、こういうのあんまり買わないもんな」
「必要ないと思ってるだけ」
私の声は、少し硬い。
由奈が、きょとんとする。
「え? お姉ちゃん、怒ってる?」
「怒ってない」
怒ってない。
怒ってない。
怒ってない。
私は皿をテーブルに置く。
ガチャン、と音が少し強くなる。
「お義兄さんって、ほんと優しいよね~」
由奈が、圭吾の肩をぽん、と叩く。
「この前もさ、駅まで送ってくれたでしょ? めっちゃ助かった!」
「たまたまだよ」
圭吾が照れたように笑う。
「でもさ、お姉ちゃん羨ましいなあ。こんな旦那さんで」
由奈の指が、圭吾の腕に軽く触れる。
軽い。
悪気のない触れ方。
私は、フォークを握る手に力を入れる。
金属の冷たさが、指に食い込む。
「……由奈」
「なに?」
「距離、近くない?」
空気が一瞬止まる。
「え?」
「座る位置」
「えー? 普通じゃない?」
由奈は本当に分からない顔をする。
分からない。
何も分からない。
それが腹立たしい。
「真帆、気にしすぎだよ」
圭吾が、困ったように言う。
その言い方。
私が面倒くさいみたいな。
「そうだよー。お姉ちゃん昔から神経質なんだから」
昔から。
昔から。
お姉ちゃんなんだから。
お姉ちゃんなんだから。
胸の奥が、ざわつく。
私は水を飲む。
冷たい。
喉を通る感覚が、やけに生々しい。
「私、そんなに神経質?」
「うん」
由奈が笑う。
「だってさ、子どもの頃も、私が転んだらすぐ怒るんだもん。『走らないの!』って」
「あれは心配して」
「でもさ、怒ってる顔だったよ?」
由奈は笑う。
圭吾も笑う。
二人の笑い声が重なる。
私は、自分の笑い方を忘れる。
“あんた、何も知らないくせに”
心の奥で、言葉が膨らむ。
あんたは守られてきた。
怒られない。
責められない。
可愛いで済む。
私は違う。
私はいつも、“ちゃんとする側”。
今も。
「お姉ちゃんさ、ちょっと怖いよ」
由奈が、急に言う。
「え?」
「なんかさ、最近ずっと張りつめてる感じ。大丈夫?」
その無邪気な心配が、刃になる。
怖い?
私が?
「由奈はさ」
自分でも驚くくらい、声が低い。
「ほんとに、何も考えてないよね」
沈黙。
「……え?」
「お義兄さん優しいって言って、ベタベタして。既婚者だよ」
「ベタベタなんかしてないよ!」
由奈の頬が赤くなる。
「してる」
「してない!」
「してる」
私は立ち上がる。
椅子が床を擦る音が、耳に刺さる。
「真帆、やめろよ」
圭吾が言う。
「やめろって何?」
「由奈ちゃん悪くないだろ」
悪くない。
そう。
悪くない。
だから、余計に腹が立つ。
「……そうだよね」
私は笑う。
変な笑い。
「悪くないよね。由奈はいつも悪くない」
涙は出ない。
代わりに、喉の奥がひりつく。
「お姉ちゃん、なんでそんな言い方するの」
由奈の声が、少し震える。
「だって本当でしょ? あんた、何も知らないくせに」
言ってしまった。
止められなかった。
「何を?」
「……」
言えない。
1:12。
あのメッセージ。
言ったら、全部壊れる。
私は視線を逸らす。
「帰る」
由奈が立ち上がる。
「お姉ちゃん、意味わかんない」
ドアが閉まる音。
部屋に、沈黙。
圭吾がため息をつく。
「真帆、あれはないだろ」
「……何が?」
「嫉妬?」
その言葉が、胸を刺す。
「違う」
「じゃあ何?」
何。
何だろう。
嫉妬。
そうかもしれない。
私は椅子に座る。
手が震えている。
自分の指を見る。
爪の形。
少し荒れた肌。
若くない。
由奈の指は、もっと柔らかい。
「私、醜いね」
ぽつりと言う。
「は?」
「さっきの顔、ひどかったと思う」
圭吾は黙る。
否定しない。
それが答え。
私は目を閉じる。
妹に嫉妬する姉。
情けない。
滑稽。
でも、止まらない。
由奈の無邪気さが、羨ましい。
圭吾が、あの目で見る存在であることが、羨ましい。
私は初めて、妹を羨んだ。
それがこんなにも、苦いとは思わなかった。
部屋にはまだ、由奈の香水の匂いが残っている。
甘くて、軽くて、若い匂い。
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