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第四話「右大臣の傷」
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第四話「右大臣の傷」
「じいじ、これ、なんかへんだよ」
孫娘が、緋色の段を指差した。
「どれだ」
老眼鏡をかけ直して覗き込む。
右大臣の頬に、細い線が走っている。
光の加減で、銀色に浮かび上がる。
「傷、ついてる」
小さな指が触れようとするのを、慌てて止める。
「だめだ、触るな」
声が思ったより強く出た。
孫が目を丸くする。
「ご、ごめん」
「……いや、じいじが悪い」
手に取る。
陶器の顔は冷たい。
指先に、ひびの縁がざらりと当たる。
「いつからだろうな」
「なおせる?」
「修理に出せばな」
孫はほっとした顔で笑う。
「きれいになる?」
「なるさ」
そう言いながら、胸の奥が重い。
昔はな……。
口が、勝手に動く。
「昔はな……女は前に出るもんじゃなかった」
孫がきょとんとする。
「なにそれ」
「いや、なんでもない」
娘――孫の母が、台所から顔を出す。
「またそんなこと言ってるの?」
「言ってない」
「聞こえたよ」
娘の声は、やわらかいが、どこか硬い。
「お父さん、今は違うから」
「わかっとる」
わかっている。
頭では。
だが、口は、時々、昔のままの言葉を吐く。
右大臣を包む。
薄い和紙が、かさりと鳴る。
樟脳の匂いが立ち上る。
「じいじ、だいじにしてね」
「当たり前だ」
箱を抱える。
思ったより重い。
修理屋へ持っていく道すがら、
冷たい風が頬を打つ。
傷。
細い、目立たない線。
だが、確かにある。
夜。
雛壇は、右大臣の席だけが空いている。
ぽっかりとした空白。
「寂しいな」
思わず声に出る。
誰もいない居間。
金屏風が、薄暗がりに鈍く光る。
修理屋から電話があった。
「うまく直りますよ。跡もほとんど残りません」
「そうか」
受話器を置く。
安心したはずなのに、胸がざわつく。
傷が消える。
それでいいのか。
右大臣は、長い白髭をたくわえ、弓を持つ。
威厳のある顔。
だが、その頬にあった細い線は、
どこか人間らしかった。
「昔はな……」
また口が動く。
あの頃。
娘が大学に行きたいと言った日。
「女が遠くへ出る必要はない」
そう言った。
「地元で十分だ」
娘は黙った。
その沈黙が、今も耳に残る。
「お父さん、それ、本気で言ってるの?」
妻が小さく言った。
「当たり前だ」
声は強かった。
だが、娘は泣かなかった。
ただ、黙っていた。
右大臣の席を見つめる。
「すまなかったな」
誰に向けた言葉か、わからない。
陶器の冷たい頬を思い出す。
あのざらりとした感触。
娘は結局、遠くの大学へ行った。
奨学金を借りて。
「勝手にしろ」
そう言ったのは、自分だ。
だが、内心では、誇らしかった。
それを、口には出さなかった。
右大臣が戻ってくる日。
箱を開ける。
和紙をそっと剥がす。
「おお……」
傷は、ほとんど見えない。
なめらかな白。
「じいじ、なおった?」
孫が駆け寄る。
「ああ、きれいだ」
孫が笑う。
「よかったね」
段に戻す。
緋色の毛氈が、指先にざらりと触れる。
右大臣は、何事もなかった顔で座る。
だが、わしには見える。
光の角度で、うっすらと残る線。
完全には消えていない。
「それでいい」
小さくつぶやく。
娘が隣に立つ。
「お父さん」
「なんだ」
「ありがとう」
「なにが」
「修理してくれて」
「当たり前だ」
少し間があって、娘が言う。
「昔のこと、気にしてないよ」
胸が、きゅっと縮む。
「わしは、気にしとる」
娘が驚いた顔をする。
「すまんかった」
娘は、しばらく黙る。
それから、ふっと笑う。
「右大臣みたいな顔してるよ」
「どういう意味だ」
「頑固そうってこと」
ふたりで笑う。
右大臣は、静かに弓を握っている。
傷は、完全には消えない。
けれど、抱えたまま、そこにいる。
緋色の段の上で。
わしは、そっと右大臣の頬を撫でる。
今度は、ざらつかない。
それでも、指先は覚えている。
傷は、消すものではない。
見つめるものだ。
「これからはな」
孫に向かって言う。
「前に出たいなら、出ればいい」
孫が笑う。
「うん!」
その声が、居間に弾む。
右大臣は、何も言わない。
だが、その沈黙は、もう重くない。
「じいじ、これ、なんかへんだよ」
孫娘が、緋色の段を指差した。
「どれだ」
老眼鏡をかけ直して覗き込む。
右大臣の頬に、細い線が走っている。
光の加減で、銀色に浮かび上がる。
「傷、ついてる」
小さな指が触れようとするのを、慌てて止める。
「だめだ、触るな」
声が思ったより強く出た。
孫が目を丸くする。
「ご、ごめん」
「……いや、じいじが悪い」
手に取る。
陶器の顔は冷たい。
指先に、ひびの縁がざらりと当たる。
「いつからだろうな」
「なおせる?」
「修理に出せばな」
孫はほっとした顔で笑う。
「きれいになる?」
「なるさ」
そう言いながら、胸の奥が重い。
昔はな……。
口が、勝手に動く。
「昔はな……女は前に出るもんじゃなかった」
孫がきょとんとする。
「なにそれ」
「いや、なんでもない」
娘――孫の母が、台所から顔を出す。
「またそんなこと言ってるの?」
「言ってない」
「聞こえたよ」
娘の声は、やわらかいが、どこか硬い。
「お父さん、今は違うから」
「わかっとる」
わかっている。
頭では。
だが、口は、時々、昔のままの言葉を吐く。
右大臣を包む。
薄い和紙が、かさりと鳴る。
樟脳の匂いが立ち上る。
「じいじ、だいじにしてね」
「当たり前だ」
箱を抱える。
思ったより重い。
修理屋へ持っていく道すがら、
冷たい風が頬を打つ。
傷。
細い、目立たない線。
だが、確かにある。
夜。
雛壇は、右大臣の席だけが空いている。
ぽっかりとした空白。
「寂しいな」
思わず声に出る。
誰もいない居間。
金屏風が、薄暗がりに鈍く光る。
修理屋から電話があった。
「うまく直りますよ。跡もほとんど残りません」
「そうか」
受話器を置く。
安心したはずなのに、胸がざわつく。
傷が消える。
それでいいのか。
右大臣は、長い白髭をたくわえ、弓を持つ。
威厳のある顔。
だが、その頬にあった細い線は、
どこか人間らしかった。
「昔はな……」
また口が動く。
あの頃。
娘が大学に行きたいと言った日。
「女が遠くへ出る必要はない」
そう言った。
「地元で十分だ」
娘は黙った。
その沈黙が、今も耳に残る。
「お父さん、それ、本気で言ってるの?」
妻が小さく言った。
「当たり前だ」
声は強かった。
だが、娘は泣かなかった。
ただ、黙っていた。
右大臣の席を見つめる。
「すまなかったな」
誰に向けた言葉か、わからない。
陶器の冷たい頬を思い出す。
あのざらりとした感触。
娘は結局、遠くの大学へ行った。
奨学金を借りて。
「勝手にしろ」
そう言ったのは、自分だ。
だが、内心では、誇らしかった。
それを、口には出さなかった。
右大臣が戻ってくる日。
箱を開ける。
和紙をそっと剥がす。
「おお……」
傷は、ほとんど見えない。
なめらかな白。
「じいじ、なおった?」
孫が駆け寄る。
「ああ、きれいだ」
孫が笑う。
「よかったね」
段に戻す。
緋色の毛氈が、指先にざらりと触れる。
右大臣は、何事もなかった顔で座る。
だが、わしには見える。
光の角度で、うっすらと残る線。
完全には消えていない。
「それでいい」
小さくつぶやく。
娘が隣に立つ。
「お父さん」
「なんだ」
「ありがとう」
「なにが」
「修理してくれて」
「当たり前だ」
少し間があって、娘が言う。
「昔のこと、気にしてないよ」
胸が、きゅっと縮む。
「わしは、気にしとる」
娘が驚いた顔をする。
「すまんかった」
娘は、しばらく黙る。
それから、ふっと笑う。
「右大臣みたいな顔してるよ」
「どういう意味だ」
「頑固そうってこと」
ふたりで笑う。
右大臣は、静かに弓を握っている。
傷は、完全には消えない。
けれど、抱えたまま、そこにいる。
緋色の段の上で。
わしは、そっと右大臣の頬を撫でる。
今度は、ざらつかない。
それでも、指先は覚えている。
傷は、消すものではない。
見つめるものだ。
「これからはな」
孫に向かって言う。
「前に出たいなら、出ればいい」
孫が笑う。
「うん!」
その声が、居間に弾む。
右大臣は、何も言わない。
だが、その沈黙は、もう重くない。
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