『十五人囃子の不在』

かおるこ

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第五話「左大臣の涙」

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第五話「左大臣の涙」

「努力すれば報われるって、誰が言ったんだろう」

参考書を閉じた瞬間、蛍光灯の白い光がやけにまぶしかった。

机の上には赤ペンの跡だらけの問題集。
消しゴムのカスが、雪みたいに積もっている。

「また休んでるの?」

姉の声がドア越しにする。

「休んでない」

「音、止まってたけど」

「集中してただけ」

嘘だ。

ただ、答えが出なかっただけだ。

居間に降りると、雛壇がまだ出たままだった。
緋色の毛氈が、夕方の光を吸い込んでいる。

「まだ片付けてないの?」

「週末にやるって」

母が台所から言う。

五人囃子の下、
右大臣と左大臣が並んでいる。

左大臣は、白い長い髭をたくわえ、少し年を重ねた顔。
雛壇の端に座り、世界を斜めから見ている。

「いちばん賢いんだよな」

ぽつりとつぶやく。

「なにが?」

姉が横に座る。

「左大臣」

「ああ、年長者だからね」

「賢いってさ、どこまで通用するんだろ」

姉は少し黙る。

「模試、ダメだった?」

「まあね」

笑ってみせる。

喉が乾いている。

「浪人って、かっこ悪い?」

「全然」

即答だ。

「自分で決めたんでしょ」

「決めたよ。でもさ」

左大臣の目を見る。

細く描かれた黒い瞳。
光の加減で、やけに潤んで見える。

「頑張れば報われるって、みんな言うじゃん」

「うん」

「でもさ、頑張っても届かないやつって、どうすんの」

姉は、少し考える。

「別の道探すとか」

「簡単に言うなよ」

声が強くなる。

すぐに後悔する。

「ごめん」

「いいよ」

姉は笑う。

「わたしも、報われなかったこと、いっぱいあるし」

「なにそれ」

「内緒」

左大臣は、何も言わない。

だが、その沈黙が、責めていない気がする。

夜。

自室に戻る。

窓の外は冷たい風。

机に向かうが、文字が模様に見える。

「もう無理かも」

小さく言う。

天井を見上げる。

涙は出ない。

泣いたら負けな気がする。

居間に降りる。

誰もいない。

雛壇の前に座る。

「なあ」

左大臣に話しかける。

「賢いって、なんだよ」

もちろん、返事はない。

だが、端に座っているその姿は、
どこか孤独だ。

「いちばん年上で、いちばん知ってるはずなのに」

端。

中央じゃない。

主役でもない。

「努力ってさ、足りなかったのかな」

喉がひりつく。

「それとも、向いてなかったのかな」

緋色の段に手をつく。

ざらりとした感触。

冷たい。

「情けないよな」

そのとき、父の声が後ろからする。

「誰がだ」

「うわ、びっくりした」

「左大臣に相談か」

父が隣に座る。

「いちばん賢いんだろ」

「そうらしいな」

父は人形を見上げる。

「でもな」

「なに」

「賢いからって、全部うまくいくわけじゃない」

「それ、慰め?」

「現実」

父は笑う。

「わしだって、失敗だらけだ」

「見えない」

「見せてないだけだ」

沈黙。

「浪人、やめてもいいぞ」

父が言う。

胸がどくんと鳴る。

「……逃げろってこと?」

「違う」

父はゆっくり言う。

「選べってことだ」

左大臣の目が、やけに光る。

涙は流れていない。

けれど、にじんで見える。

「知恵があっても、選ぶのは自分だ」

父の声は低い。

「報われるかどうかは、あとからついてくる」

「ついてこなかったら?」

「そのとき考えろ」

乱暴だ。

でも、少しだけ救われる。

「お前は、お前の段を登れ」

父が立ち上がる。

「中央じゃなくてもいい」

左大臣は、端にいる。

だが、いちばん長く見てきた顔だ。

「……もう一年、やる」

小さく言う。

誰に言ったのか、わからない。

父は振り向かずに言う。

「好きにしろ」

その言葉が、やけに優しい。

雛壇の端で、
左大臣は静かに座っている。

涙は流れない。

だが、わかる。

知恵にも限界がある。

それでも、
見続けることはできる。

緋色の段の上で、
静かな眼差しが、
わたしを責めずに、ただ見ていた。

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