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第六話「仕丁の箒」
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第六話「仕丁の箒」
「死後三週間、ですね」
管理会社の男が、鼻を押さえながら言った。
「ご近所の通報で……」
「はい」
わたしはマスクを深くつけ直す。
ドアを開けた瞬間、空気が重く流れ出る。
甘く、湿った匂い。
時間が腐ったような匂い。
「お願いします」
管理会社の男は足早に去っていった。
静まり返った部屋。
カーテンは閉め切られ、光は薄い。
「失礼します」
誰もいないのに、声をかける。
遺品整理業者になって五年。
孤独死は珍しくない。
だが。
居間に足を踏み入れた瞬間、
わたしは立ち止まった。
七段飾り。
緋色の毛氈が、部屋の中央に鮮やかに広がっている。
豪奢な金屏風。
三人官女、五人囃子、右大臣、左大臣。
仕丁は箒を持ち、少しだけ口をへの字に曲げている。
「……三月か」
桃の造花が、まだ鮮やかだ。
ほこり一つない。
「誰のために出してたんだろう」
思わずつぶやく。
記録には、独居。
子どもはいないと書いてあった。
「自分のため、か」
畳に座る。
緋色の段を見上げる。
この部屋は、ほかの場所と違う。
台所には洗っていない皿。
風呂場には空の洗剤。
寝室には、冷え切った布団。
だが、この壇だけが整っている。
「毎年、出してたんだな」
指先で毛氈を撫でる。
ざらりとした感触。
樟脳のほのかな匂い。
仕丁の顔を覗き込む。
箒を持ち、少し怒ったような顔。
「掃ききれなかったな」
思わず言葉が漏れる。
部屋の隅には、未開封の手紙。
誰宛かはわからない。
写真立てが一つ。
若いころの女性。
笑っている。
「この人か」
写真と雛壇を見比べる。
豪華な七段飾り。
高価だ。
誰かが、娘のために用意したのかもしれない。
「娘、いなかったのか」
書類には、その記録はない。
それでも。
雛人形は、丁寧に手入れされている。
「毎年、出してたんだよな」
声が、部屋に吸い込まれる。
仕事だ。
解体する。
一体ずつ、箱に戻す。
「すみませんね」
自然と口に出る。
親王を包む。
和紙が、かさりと鳴る。
官女を外す。
五人囃子を順に。
太鼓、小鼓、大鼓、笛、謡い。
右大臣、左大臣。
最後に、仕丁。
箒を持ったままの顔。
「……あんたは、最後まで残るんだな」
小さく笑う。
この人形たちは、本来、厄を引き受ける存在だ。
身代わり。
災いを、引き受ける。
だが。
この家の最期を、
代わりに引き受けることはできなかった。
孤独。
静かな終わり。
「守れなかったな」
声が震える。
違う。
守れなかったのは、誰だ。
社会か。
家族か。
それとも。
わたしか。
涙が、突然こぼれる。
「あ……」
慌てて拭う。
こんなことで泣くな。
仕事だ。
だが、止まらない。
「誇り、だったんだな」
雛壇は、彼女の誇りだった。
誰かに見せるためでなく。
誰かのためでなく。
自分が、自分であるための場所。
緋色の段は、
この部屋で唯一、色を持っていた。
「きれいでしたよ」
写真立てに向かって言う。
「ちゃんと、手入れされてました」
箱を閉じる。
ぱたん、と音がする。
部屋が、一気に色を失う。
緋色が消え、
灰色の空間だけが残る。
仕丁の箒を最後にしまう。
「掃除、終わりました」
誰もいない部屋に、報告する。
外へ出る。
夕方の空気が、冷たい。
マスクを外す。
新鮮な空気が、肺に入る。
「誰のために出してたんだろう」
もう一度、つぶやく。
答えは、いらない。
あの七段は、
最後まで崩れなかった。
身代わりにはなれなかった。
けれど。
彼女の誇りは、守っていた。
わたしは、車のドアを開ける。
手が、まだ少し震えている。
次の現場へ向かう。
だが、緋色の段が、
まぶたの裏に残っている。
仕丁は、黙ったまま、
箒を持っていた。
掃ききれないものがあっても、
立ち続ける顔で。
「死後三週間、ですね」
管理会社の男が、鼻を押さえながら言った。
「ご近所の通報で……」
「はい」
わたしはマスクを深くつけ直す。
ドアを開けた瞬間、空気が重く流れ出る。
甘く、湿った匂い。
時間が腐ったような匂い。
「お願いします」
管理会社の男は足早に去っていった。
静まり返った部屋。
カーテンは閉め切られ、光は薄い。
「失礼します」
誰もいないのに、声をかける。
遺品整理業者になって五年。
孤独死は珍しくない。
だが。
居間に足を踏み入れた瞬間、
わたしは立ち止まった。
七段飾り。
緋色の毛氈が、部屋の中央に鮮やかに広がっている。
豪奢な金屏風。
三人官女、五人囃子、右大臣、左大臣。
仕丁は箒を持ち、少しだけ口をへの字に曲げている。
「……三月か」
桃の造花が、まだ鮮やかだ。
ほこり一つない。
「誰のために出してたんだろう」
思わずつぶやく。
記録には、独居。
子どもはいないと書いてあった。
「自分のため、か」
畳に座る。
緋色の段を見上げる。
この部屋は、ほかの場所と違う。
台所には洗っていない皿。
風呂場には空の洗剤。
寝室には、冷え切った布団。
だが、この壇だけが整っている。
「毎年、出してたんだな」
指先で毛氈を撫でる。
ざらりとした感触。
樟脳のほのかな匂い。
仕丁の顔を覗き込む。
箒を持ち、少し怒ったような顔。
「掃ききれなかったな」
思わず言葉が漏れる。
部屋の隅には、未開封の手紙。
誰宛かはわからない。
写真立てが一つ。
若いころの女性。
笑っている。
「この人か」
写真と雛壇を見比べる。
豪華な七段飾り。
高価だ。
誰かが、娘のために用意したのかもしれない。
「娘、いなかったのか」
書類には、その記録はない。
それでも。
雛人形は、丁寧に手入れされている。
「毎年、出してたんだよな」
声が、部屋に吸い込まれる。
仕事だ。
解体する。
一体ずつ、箱に戻す。
「すみませんね」
自然と口に出る。
親王を包む。
和紙が、かさりと鳴る。
官女を外す。
五人囃子を順に。
太鼓、小鼓、大鼓、笛、謡い。
右大臣、左大臣。
最後に、仕丁。
箒を持ったままの顔。
「……あんたは、最後まで残るんだな」
小さく笑う。
この人形たちは、本来、厄を引き受ける存在だ。
身代わり。
災いを、引き受ける。
だが。
この家の最期を、
代わりに引き受けることはできなかった。
孤独。
静かな終わり。
「守れなかったな」
声が震える。
違う。
守れなかったのは、誰だ。
社会か。
家族か。
それとも。
わたしか。
涙が、突然こぼれる。
「あ……」
慌てて拭う。
こんなことで泣くな。
仕事だ。
だが、止まらない。
「誇り、だったんだな」
雛壇は、彼女の誇りだった。
誰かに見せるためでなく。
誰かのためでなく。
自分が、自分であるための場所。
緋色の段は、
この部屋で唯一、色を持っていた。
「きれいでしたよ」
写真立てに向かって言う。
「ちゃんと、手入れされてました」
箱を閉じる。
ぱたん、と音がする。
部屋が、一気に色を失う。
緋色が消え、
灰色の空間だけが残る。
仕丁の箒を最後にしまう。
「掃除、終わりました」
誰もいない部屋に、報告する。
外へ出る。
夕方の空気が、冷たい。
マスクを外す。
新鮮な空気が、肺に入る。
「誰のために出してたんだろう」
もう一度、つぶやく。
答えは、いらない。
あの七段は、
最後まで崩れなかった。
身代わりにはなれなかった。
けれど。
彼女の誇りは、守っていた。
わたしは、車のドアを開ける。
手が、まだ少し震えている。
次の現場へ向かう。
だが、緋色の段が、
まぶたの裏に残っている。
仕丁は、黙ったまま、
箒を持っていた。
掃ききれないものがあっても、
立ち続ける顔で。
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