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第七話「桃の枝」
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第七話「桃の枝」
「女の子の節句って言葉、苦手で」
休憩室で、同僚が雛あられの袋を差し出してきたとき、思わずそう言ってしまった。
「え、なんで?」
「なんとなく」
甘い砂糖の匂いが鼻に届く。
指先に粉がつく。
植物園の温室は、春の湿気で満ちている。
土の匂い。
水を含んだ葉の匂い。
ほのかに青い、まだ若い芽の匂い。
「今日、桃、咲いたよ」
同僚が言う。
「え、早くない?」
「狂い咲き」
わたしは立ち上がる。
温室の奥。
ガラス越しに光が差し込み、桃の枝が淡い桃色をひらいている。
「……きれい」
息が白く曇るほどの外気とは違う、
あたたかい空気。
花弁は薄く、透けるようだ。
「女の子の節句、だからちょうどいいね」
同僚が笑う。
「ねえ」
わたしは言う。
「花、性別で咲いてるわけじゃないよね」
「は?」
「ただ、咲いてるだけでしょ」
同僚は首をかしげる。
「まあ、そうだけど」
「それでいいじゃん」
手袋越しに枝を支える。
ざらりとした樹皮の感触。
子どもの頃、雛壇の前に正座させられた。
緋色の段。
金屏風。
三人官女。
「あなたはこっちよ」
母が言った。
「女の子だから」
鏡の前に立つ。
違和感。
「なんで?」
「なんでって、そういうものでしょ」
そういうもの。
その言葉が、胸に沈んだ。
今、温室で桃を見る。
「咲くのに、性別はいらない」
小さくつぶやく。
夜、自宅のアパート。
机の上に、小さな内裏雛がある。
祖母の形見。
緋色の台はない。
二体だけ。
「ごめんね」
男雛に向かって言う。
「わたし、どっちでもないんだ」
女雛を見つめる。
重たい十二単。
白粉の顔。
「あなたの役、できなかった」
鏡に映る自分。
肩幅。
喉仏。
低い声。
「でもさ」
小さく笑う。
「咲いてるよ」
スマホが鳴る。
母からだ。
「ひな祭り、来ないの?」
「仕事」
「そう」
間。
「あなたも、女の子なんだから」
その言葉に、胸がひやりとする。
「母さん」
「なに」
「わたし、もう“女の子”じゃないよ」
沈黙。
電話の向こうで、息が止まる。
「どういう意味」
「前に言ったでしょ」
声が震える。
「わたし、自分のこと、息子だと思ってる」
長い沈黙。
遠くでテレビの音。
「……わからないわ」
母の声が小さい。
「いいよ」
喉の奥が痛む。
「わからなくても」
桃の花を思い出す。
ただ、咲いている。
「咲いてるだけで、いいんだよ」
自分に言う。
翌日、植物園のイベントで、
小さな雛壇が飾られた。
緋色の段がまぶしい。
子どもが指をさす。
「女の子のお祭りだよ!」
その声に、胸が少しざわつく。
隣の父親が言う。
「みんなのお祭りだよ」
その一言に、救われる。
わたしは桃の枝を差し出す。
「よかったらどうぞ」
母親が笑う。
「きれいね」
「ただ、咲いてるだけです」
自分でも驚くほど、穏やかな声。
緋色は鮮やかだ。
でも、わたしの世界は、もっと曖昧だ。
白でも黒でもない。
男でも女でもない。
淡い桃色。
グラデーション。
「咲くのに、性別はいらない」
温室の湿った空気の中で、
花弁がふるりと揺れる。
雛壇は、静かに並んでいる。
だが、桃は自由だ。
箱に入らない。
段に座らない。
ただ、枝の先で、
光を受けて、
自分の色で咲いている。
わたしも、そうでありたい。
誰かの段ではなく、
自分の枝で。
桃の花びらが、一枚、床に落ちる。
やわらかい音。
それでも、木は立っている。
花は、また咲く。
ただ、咲く。
「女の子の節句って言葉、苦手で」
休憩室で、同僚が雛あられの袋を差し出してきたとき、思わずそう言ってしまった。
「え、なんで?」
「なんとなく」
甘い砂糖の匂いが鼻に届く。
指先に粉がつく。
植物園の温室は、春の湿気で満ちている。
土の匂い。
水を含んだ葉の匂い。
ほのかに青い、まだ若い芽の匂い。
「今日、桃、咲いたよ」
同僚が言う。
「え、早くない?」
「狂い咲き」
わたしは立ち上がる。
温室の奥。
ガラス越しに光が差し込み、桃の枝が淡い桃色をひらいている。
「……きれい」
息が白く曇るほどの外気とは違う、
あたたかい空気。
花弁は薄く、透けるようだ。
「女の子の節句、だからちょうどいいね」
同僚が笑う。
「ねえ」
わたしは言う。
「花、性別で咲いてるわけじゃないよね」
「は?」
「ただ、咲いてるだけでしょ」
同僚は首をかしげる。
「まあ、そうだけど」
「それでいいじゃん」
手袋越しに枝を支える。
ざらりとした樹皮の感触。
子どもの頃、雛壇の前に正座させられた。
緋色の段。
金屏風。
三人官女。
「あなたはこっちよ」
母が言った。
「女の子だから」
鏡の前に立つ。
違和感。
「なんで?」
「なんでって、そういうものでしょ」
そういうもの。
その言葉が、胸に沈んだ。
今、温室で桃を見る。
「咲くのに、性別はいらない」
小さくつぶやく。
夜、自宅のアパート。
机の上に、小さな内裏雛がある。
祖母の形見。
緋色の台はない。
二体だけ。
「ごめんね」
男雛に向かって言う。
「わたし、どっちでもないんだ」
女雛を見つめる。
重たい十二単。
白粉の顔。
「あなたの役、できなかった」
鏡に映る自分。
肩幅。
喉仏。
低い声。
「でもさ」
小さく笑う。
「咲いてるよ」
スマホが鳴る。
母からだ。
「ひな祭り、来ないの?」
「仕事」
「そう」
間。
「あなたも、女の子なんだから」
その言葉に、胸がひやりとする。
「母さん」
「なに」
「わたし、もう“女の子”じゃないよ」
沈黙。
電話の向こうで、息が止まる。
「どういう意味」
「前に言ったでしょ」
声が震える。
「わたし、自分のこと、息子だと思ってる」
長い沈黙。
遠くでテレビの音。
「……わからないわ」
母の声が小さい。
「いいよ」
喉の奥が痛む。
「わからなくても」
桃の花を思い出す。
ただ、咲いている。
「咲いてるだけで、いいんだよ」
自分に言う。
翌日、植物園のイベントで、
小さな雛壇が飾られた。
緋色の段がまぶしい。
子どもが指をさす。
「女の子のお祭りだよ!」
その声に、胸が少しざわつく。
隣の父親が言う。
「みんなのお祭りだよ」
その一言に、救われる。
わたしは桃の枝を差し出す。
「よかったらどうぞ」
母親が笑う。
「きれいね」
「ただ、咲いてるだけです」
自分でも驚くほど、穏やかな声。
緋色は鮮やかだ。
でも、わたしの世界は、もっと曖昧だ。
白でも黒でもない。
男でも女でもない。
淡い桃色。
グラデーション。
「咲くのに、性別はいらない」
温室の湿った空気の中で、
花弁がふるりと揺れる。
雛壇は、静かに並んでいる。
だが、桃は自由だ。
箱に入らない。
段に座らない。
ただ、枝の先で、
光を受けて、
自分の色で咲いている。
わたしも、そうでありたい。
誰かの段ではなく、
自分の枝で。
桃の花びらが、一枚、床に落ちる。
やわらかい音。
それでも、木は立っている。
花は、また咲く。
ただ、咲く。
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