『110号室の秒針 —父と僕の4年間—』

かおるこ

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第9話:終の棲家の定義

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 第9話:終の棲家の定義

「授業を終えるとき、教師は鐘を鳴らさない。鳴らすのは、生徒だ。健一、お前が鳴らす鐘の音は、私にどう響くだろうか。」

——110号室・出席簿

---

夜。

110号室は、やけに静かだった。

加湿器の低い音が、かすかに震えている。

正蔵はベッドに横たわっている。

呼吸が、浅い。

健一は椅子に座り、両手を握っている。

「親父」

返事はない。

だが、胸は上下している。

ゆっくり。

かすかに。

「聞こえてるか」

指先が、シーツの上で震える。

消毒液の匂い。

点滴の透明な滴が、規則的に落ちる。

ポタ、ポタ。

時間が、目に見える。

 

医師が言った。

「今夜が山かもしれません」

その言葉は、平坦だった。

正しい。

だが、温度はない。

健一は、父の顔を見る。

皺が深い。

唇が乾いている。

「終の棲家って、ここなのかよ」

小さく呟く。

「家ってさ、帰る場所だろ」

返事はない。

だが、呼吸はある。

 

ポケットの中に、何かが当たる。

銀色の懐中時計。

正蔵が、ずっと握っていたもの。

健一はそれを取り出す。

冷たい。

指先に、重さが乗る。

「これ、どうすればいいんだよ」

竜頭を、そっと回す。

カリ。

その音が、部屋に広がる。

正蔵のまぶたが、わずかに動く。

「……親父?」

息が、少し深くなる。

健一は、もう一度回す。

カリ、カリ。

その音は、小さい。

だが、確かだ。

 

「先生」

美月が、静かに入ってくる。

「ご家族の方が、ずっと」

「俺がいる」

健一は即答する。

声が震えている。

「俺が、鳴らすのか」

誰に向けた言葉か、わからない。

 

正蔵の目が、ゆっくり開く。

かすかな光。

焦点が合わない。

だが、確かに開いた。

「……健一」

掠れた声。

健一の喉が詰まる。

「いるよ」

「鐘は……」

言葉が途切れる。

「何?」

「教師は……鳴らさぬ」

呼吸が乱れる。

「鳴らすのは……」

健一の涙が落ちる。

「俺か」

正蔵の口元が、わずかに動く。

それは笑みか、痛みか、わからない。

 

モニターはない。

派手な音もない。

ただ、呼吸。

ただ、静寂。

「親父」

健一は顔を近づける。

「俺、まだ準備できてない」

声が割れる。

「でも」

時計を握る。

「でも、逃げない」

カリ。

もう一度、巻く。

その音が、鐘のように響く。

 

正蔵の呼吸が、ふっと浅くなる。

そして、長く吐かれる。

それが最後だった。

音は、ない。

だが、確かに何かが止まる。

健一は動けない。

時間が、止まる。

いや、

自分の中だけが、止まる。

 

廊下の向こうで、ワゴンの音がする。

日常は、続く。

「……終わったのか」

自分に問いかける。

「終わりって、何だよ」

終の棲家。

ここは、終わりの場所だったのか。

それとも、

続くための場所だったのか。

 

美月が、そっと肩に触れる。

「お疲れさまでした」

その言葉が、胸を刺す。

「疲れてない」

健一は言う。

「まだ、鳴らしたばかりだ」

 

時計を、もう一度巻く。

カリ。

その音が、今は自分の中で響く。

「親父」

涙が止まらない。

「どう聞こえた?」

答えはない。

だが、不思議と静かだ。

恐怖は、ない。

あるのは、重さ。

受け取った重さ。

 

窓の外、朝が近づいている。

空が、少し白む。

終の棲家とは、

死ぬ場所ではない。

時間を渡す場所だ。

 

健一は立ち上がる。

父の額に手を当てる。

冷たい。

だが、嫌ではない。

「授業、終わったな」

小さく言う。

「でもな」

時計を胸にしまう。

「次の時間は、俺がやる」

廊下を歩く。

足音が響く。

規則正しい。

カリ。

胸の奥で、音が続いている。

鐘は鳴った。

だが、沈黙は、

終わりではない。

それは、

次の授業の、

はじまりだ。


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