10 / 12
第9話:終の棲家の定義
しおりを挟む
第9話:終の棲家の定義
「授業を終えるとき、教師は鐘を鳴らさない。鳴らすのは、生徒だ。健一、お前が鳴らす鐘の音は、私にどう響くだろうか。」
——110号室・出席簿
---
夜。
110号室は、やけに静かだった。
加湿器の低い音が、かすかに震えている。
正蔵はベッドに横たわっている。
呼吸が、浅い。
健一は椅子に座り、両手を握っている。
「親父」
返事はない。
だが、胸は上下している。
ゆっくり。
かすかに。
「聞こえてるか」
指先が、シーツの上で震える。
消毒液の匂い。
点滴の透明な滴が、規則的に落ちる。
ポタ、ポタ。
時間が、目に見える。
医師が言った。
「今夜が山かもしれません」
その言葉は、平坦だった。
正しい。
だが、温度はない。
健一は、父の顔を見る。
皺が深い。
唇が乾いている。
「終の棲家って、ここなのかよ」
小さく呟く。
「家ってさ、帰る場所だろ」
返事はない。
だが、呼吸はある。
ポケットの中に、何かが当たる。
銀色の懐中時計。
正蔵が、ずっと握っていたもの。
健一はそれを取り出す。
冷たい。
指先に、重さが乗る。
「これ、どうすればいいんだよ」
竜頭を、そっと回す。
カリ。
その音が、部屋に広がる。
正蔵のまぶたが、わずかに動く。
「……親父?」
息が、少し深くなる。
健一は、もう一度回す。
カリ、カリ。
その音は、小さい。
だが、確かだ。
「先生」
美月が、静かに入ってくる。
「ご家族の方が、ずっと」
「俺がいる」
健一は即答する。
声が震えている。
「俺が、鳴らすのか」
誰に向けた言葉か、わからない。
正蔵の目が、ゆっくり開く。
かすかな光。
焦点が合わない。
だが、確かに開いた。
「……健一」
掠れた声。
健一の喉が詰まる。
「いるよ」
「鐘は……」
言葉が途切れる。
「何?」
「教師は……鳴らさぬ」
呼吸が乱れる。
「鳴らすのは……」
健一の涙が落ちる。
「俺か」
正蔵の口元が、わずかに動く。
それは笑みか、痛みか、わからない。
モニターはない。
派手な音もない。
ただ、呼吸。
ただ、静寂。
「親父」
健一は顔を近づける。
「俺、まだ準備できてない」
声が割れる。
「でも」
時計を握る。
「でも、逃げない」
カリ。
もう一度、巻く。
その音が、鐘のように響く。
正蔵の呼吸が、ふっと浅くなる。
そして、長く吐かれる。
それが最後だった。
音は、ない。
だが、確かに何かが止まる。
健一は動けない。
時間が、止まる。
いや、
自分の中だけが、止まる。
廊下の向こうで、ワゴンの音がする。
日常は、続く。
「……終わったのか」
自分に問いかける。
「終わりって、何だよ」
終の棲家。
ここは、終わりの場所だったのか。
それとも、
続くための場所だったのか。
美月が、そっと肩に触れる。
「お疲れさまでした」
その言葉が、胸を刺す。
「疲れてない」
健一は言う。
「まだ、鳴らしたばかりだ」
時計を、もう一度巻く。
カリ。
その音が、今は自分の中で響く。
「親父」
涙が止まらない。
「どう聞こえた?」
答えはない。
だが、不思議と静かだ。
恐怖は、ない。
あるのは、重さ。
受け取った重さ。
窓の外、朝が近づいている。
空が、少し白む。
終の棲家とは、
死ぬ場所ではない。
時間を渡す場所だ。
健一は立ち上がる。
父の額に手を当てる。
冷たい。
だが、嫌ではない。
「授業、終わったな」
小さく言う。
「でもな」
時計を胸にしまう。
「次の時間は、俺がやる」
廊下を歩く。
足音が響く。
規則正しい。
カリ。
胸の奥で、音が続いている。
鐘は鳴った。
だが、沈黙は、
終わりではない。
それは、
次の授業の、
はじまりだ。
「授業を終えるとき、教師は鐘を鳴らさない。鳴らすのは、生徒だ。健一、お前が鳴らす鐘の音は、私にどう響くだろうか。」
——110号室・出席簿
---
夜。
110号室は、やけに静かだった。
加湿器の低い音が、かすかに震えている。
正蔵はベッドに横たわっている。
呼吸が、浅い。
健一は椅子に座り、両手を握っている。
「親父」
返事はない。
だが、胸は上下している。
ゆっくり。
かすかに。
「聞こえてるか」
指先が、シーツの上で震える。
消毒液の匂い。
点滴の透明な滴が、規則的に落ちる。
ポタ、ポタ。
時間が、目に見える。
医師が言った。
「今夜が山かもしれません」
その言葉は、平坦だった。
正しい。
だが、温度はない。
健一は、父の顔を見る。
皺が深い。
唇が乾いている。
「終の棲家って、ここなのかよ」
小さく呟く。
「家ってさ、帰る場所だろ」
返事はない。
だが、呼吸はある。
ポケットの中に、何かが当たる。
銀色の懐中時計。
正蔵が、ずっと握っていたもの。
健一はそれを取り出す。
冷たい。
指先に、重さが乗る。
「これ、どうすればいいんだよ」
竜頭を、そっと回す。
カリ。
その音が、部屋に広がる。
正蔵のまぶたが、わずかに動く。
「……親父?」
息が、少し深くなる。
健一は、もう一度回す。
カリ、カリ。
その音は、小さい。
だが、確かだ。
「先生」
美月が、静かに入ってくる。
「ご家族の方が、ずっと」
「俺がいる」
健一は即答する。
声が震えている。
「俺が、鳴らすのか」
誰に向けた言葉か、わからない。
正蔵の目が、ゆっくり開く。
かすかな光。
焦点が合わない。
だが、確かに開いた。
「……健一」
掠れた声。
健一の喉が詰まる。
「いるよ」
「鐘は……」
言葉が途切れる。
「何?」
「教師は……鳴らさぬ」
呼吸が乱れる。
「鳴らすのは……」
健一の涙が落ちる。
「俺か」
正蔵の口元が、わずかに動く。
それは笑みか、痛みか、わからない。
モニターはない。
派手な音もない。
ただ、呼吸。
ただ、静寂。
「親父」
健一は顔を近づける。
「俺、まだ準備できてない」
声が割れる。
「でも」
時計を握る。
「でも、逃げない」
カリ。
もう一度、巻く。
その音が、鐘のように響く。
正蔵の呼吸が、ふっと浅くなる。
そして、長く吐かれる。
それが最後だった。
音は、ない。
だが、確かに何かが止まる。
健一は動けない。
時間が、止まる。
いや、
自分の中だけが、止まる。
廊下の向こうで、ワゴンの音がする。
日常は、続く。
「……終わったのか」
自分に問いかける。
「終わりって、何だよ」
終の棲家。
ここは、終わりの場所だったのか。
それとも、
続くための場所だったのか。
美月が、そっと肩に触れる。
「お疲れさまでした」
その言葉が、胸を刺す。
「疲れてない」
健一は言う。
「まだ、鳴らしたばかりだ」
時計を、もう一度巻く。
カリ。
その音が、今は自分の中で響く。
「親父」
涙が止まらない。
「どう聞こえた?」
答えはない。
だが、不思議と静かだ。
恐怖は、ない。
あるのは、重さ。
受け取った重さ。
窓の外、朝が近づいている。
空が、少し白む。
終の棲家とは、
死ぬ場所ではない。
時間を渡す場所だ。
健一は立ち上がる。
父の額に手を当てる。
冷たい。
だが、嫌ではない。
「授業、終わったな」
小さく言う。
「でもな」
時計を胸にしまう。
「次の時間は、俺がやる」
廊下を歩く。
足音が響く。
規則正しい。
カリ。
胸の奥で、音が続いている。
鐘は鳴った。
だが、沈黙は、
終わりではない。
それは、
次の授業の、
はじまりだ。
0
あなたにおすすめの小説
友人の結婚式で友人兄嫁がスピーチしてくれたのだけど修羅場だった
海林檎
恋愛
え·····こんな時代錯誤の家まだあったんだ····?
友人の家はまさに嫁は義実家の家政婦と言った風潮の生きた化石でガチで引いた上での修羅場展開になった話を書きます·····(((((´°ω°`*))))))
【完結】新皇帝の後宮に献上された姫は、皇帝の寵愛を望まない
ユユ
恋愛
周辺諸国19国を統べるエテルネル帝国の皇帝が崩御し、若い皇子が即位した2年前から従属国が次々と姫や公女、もしくは美女を献上している。
既に帝国の令嬢数人と従属国から18人が後宮で住んでいる。
未だ献上していなかったプロプル王国では、王女である私が仕方なく献上されることになった。
後宮の余った人気のない部屋に押し込まれ、選択を迫られた。
欲の無い王女と、女達の醜い争いに辟易した新皇帝の噛み合わない新生活が始まった。
* 作り話です
* そんなに長くしない予定です
サレ妻の娘なので、母の敵にざまぁします
二階堂まりい
大衆娯楽
大衆娯楽部門最高記録1位!
※この物語はフィクションです
流行のサレ妻ものを眺めていて、私ならどうする? と思ったので、短編でしたためてみました。
当方未婚なので、妻目線ではなく娘目線で失礼します。
恋愛の醍醐味
凛子
恋愛
最近の恋人の言動に嫌気がさしていた萌々香は、誕生日を忘れられたことで、ついに別れを決断。
あることがきっかけで、完璧な理想の恋人に出会うことが出来た萌々香は、幸せな日々が永遠に続くと思っていたのだが……
【完結】私が愛されるのを見ていなさい
芹澤紗凪
恋愛
虐げられた少女の、最も残酷で最も華麗な復讐劇。(全6話の予定)
公爵家で、天使の仮面を被った義理の妹、ララフィーナに全てを奪われたディディアラ。
絶望の淵で、彼女は一族に伝わる「血縁者の姿と入れ替わる」という特殊能力に目覚める。
ディディアラは、憎き義妹と入れ替わることを決意。
完璧な令嬢として振る舞いながら、自分を陥れた者たちを内側から崩壊させていく。
立場と顔が入れ替わった二人の少女が織りなす、壮絶なダークファンタジー。
嫌われたと思って離れたのに
ラム猫
恋愛
私は、婚約者のカイルに嫌われたと思った。冷たくそっけなく、近づくたびに避けられる日々。
距離を置くことを選び、留学の準備も進めて心を落ち着かせようとするけれど——。
今宵、薔薇の園で
天海月
恋愛
早世した母の代わりに妹たちの世話に励み、婚期を逃しかけていた伯爵家の長女・シャーロットは、これが最後のチャンスだと思い、唐突に持ち込まれた気の進まない婚約話を承諾する。
しかし、一か月も経たないうちに、その話は先方からの一方的な申し出によって破談になってしまう。
彼女は藁にもすがる思いで、幼馴染の公爵アルバート・グレアムに相談を持ち掛けるが、新たな婚約者候補として紹介されたのは彼の弟のキースだった。
キースは長年、シャーロットに思いを寄せていたが、遠慮して距離を縮めることが出来ないでいた。
そんな弟を見かねた兄が一計を図ったのだった。
彼女はキースのことを弟のようにしか思っていなかったが、次第に彼の情熱に絆されていく・・・。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる