ブリアール公爵家の第二夫人

大城いぬこ

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安堵と落胆

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 今着ている服は平民から買ったもので、肌に触れる生地はジェイデン様の用意してくれたものより硬く、着心地はよくないけれどデザインはシンプルで嫌いではない。日傘を差せないからと、マントを被り馬に乗っている。 

「暑くないか?」 

 顔を傾け臙脂を見つめて頷くとお腹に回された腕に力が入り、ディオルド様の胸が背中に触れた。 

「速すぎるか?怖くないか?」 

 風の感触が頬を打ち付けるほど馬を駆けさせている。 

 私は速くない、怖くないと伝えるため綱を持つ大きな手の甲を二回叩く。 

「次の町で休憩だ」 

 わかりましたと伝えるため、一回叩く。 

 私たちの前方にはエコーとガガ様が走り、後ろにはスモークと呼ばれていたブリアールの騎士がいた。 

 昨夜、全身に切り傷を負い、血を滲ませていたエコーは今朝にはもう止まったと言った。それを聞いた私はエコーが強がっているのかわからず確かめたくて、でもどうしたらいいのか考えていたら、ディオルド様がエコーのシャツをまくり上げて見せてくれた。確かに血は止まっていてとても安心した。

  ジャーマン子爵領地を抜ける際、私たちは検問所を避けるため大きく迂回した。山の中は馬で駆けれず、徒歩で越えると言うディオルド様は私を一度も地に下ろしていない。 

『足が痛む。赤くなっていた。悪化させたくない』 

 宿を出る前、私の足に軟膏を塗って包帯を巻くディオルド様は言い聞かせるように何度も言っていた。悪態のようにエコーに駆け寄ったことを責める言葉を口にしながら、男に掴まれた腕と肩にもひんやりとするものを塗って包帯を巻いてくれた。 

「ティンモント子爵領地でも宿に泊まる」 

「…心配しているのでは?」 

 ジャーマン子爵もジェレマイア様もディオルド様を案じているはず。特にジャーマン子爵は自領で起きたことだから気が気じゃないわ。 

「不測の事態にどう動くか、ゼノには話してある。俺が戻らなければ騎士の編成を建て直し先に進む。ティンモント子爵領地の宿にはダートが来るだろう。フランセーまで不便で過ごしにくいが我慢してくれ」 

「不便は気にしませんが…ダート…?」 

「ああ。スモークとガガと一緒に王国騎士団から引き抜いた奴だ。腕が確かでな」 

「団長…と呼ばれていましたのね」 

 スモーク様がディオルド様に声をかけるときそう言っていた。 

「ロシェル」 

「はい」 

「なんだかあごがこそばゆい…かいてくれ」 

 ディオルド様は私を抱いていて両手が使えないから私がするしかないわね。 

「ここです?」 

 たくましい顎にはチクチクとする髭が生えている。そこを撫でるとディオルド様は口の端を小さく上げた。 

「そこだ」 

「閣下、ティンモント領地に入りますよ。戯れもそこまで」 

 ガガ様の声に手を引く。戯れていたつもりがなくて、でも人からは戯れていると見えてしまうと思うと落ち着かない。 

「…ふん…見張りはどうだ?」 

「ジャーマン子爵が頭の回る男ならすぐさま検問所に人を送り、ここらの見回りの指示を出すでしょうが…いませんね」 

「賊の遺体の数に腰を抜かしているかもな」 

 あれを片付けるのはかなりの手間だ、とディオルド様が言う。 

 アプソとダフネの無事を聞いて心底ほっとしたけれど、ブリアールの騎士が亡くなっている。そのことに胸が痛くなる。私を守れ、と叫ぶ彼らの声が恐怖のなか聞こえていた。人を斬る音、怒号に悲鳴、血の匂いが甦り、ディオルド様のシャツを掴んでしまう。 

「ロシェル、眠かったら寝ていい。昨夜は遅く、今朝は早くに起こした。眠いだろ?」 

 確かにいつもより睡眠時間は短かったけれど眠けはない。私は昨夜起きなかった。それを聞いて複雑な思いが湧いた。迷惑をかけずにすんだと思いながら、少しずつジェイデン様の存在が私のなかで小さくなるようで、なぜか後ろめたかった。 

「…私よりディオルド様もガガ様もスモーク様も寝ていません」 

 私を起こしたディオルド様はすでに身支度を終えていたもの。 

「ロシェル、ガガにもスモークにも敬称はつけるな。二人とも奴隷上がりだぞ」 

 奴隷だった過去はあまり関係がないわ。 

「…男性を呼び捨てることが苦手です」 

「アラントにも男の使用人はいたろ」 

「…私と関わる人は執事のフォアマンしかいませんでした…邸の外にはいましたけど」 

「いつからだ」 

 ディオルド様の問いに顔を上げると近くに臙脂の瞳があった。 

「…私の古い記憶では…すでに」 

 お父様の執務室には従者がいたけれど、私とは関わりがなかった。今考えればアラント邸には女性の使用人が多かったわ。 

「下人の中にはいました…話したことはありませんけど」 

 私がファミナとチュリナから逃げていった場所は洗濯場だった。そこにはだいたい女性ばかりで、他にいるのは彼女らの子供くらいだった。男の子は数に入れていいのかわからないわ。 

「そうか」 

 ディオルド様は視線を向かう先に戻した。 

「ここからティンモント~」 

 ガガ様の陽気な声のあと、開けた場所に着いたのか、傾き始めた眩しい陽射しが降り注いだ。 

 眼下に町が見えた。家がひしめき合うように置かれ、所々に広場もあってティンモント領地を一望できた。 

「絵画のようです」 

 美しい一望にため息が出る。緑に囲まれた町を上から見ることができるなんて想像もしていなかった。なにもかも忘れる瞬間があるとはじめて知った。 

「暗くなる前に到着するぞ。傾斜が緩やかになったら騎乗」 

 ディオルド様の言葉にガガ様とスモーク様が頷いた。 

 緩やかな斜面を馬に乗って下ることは少しだけ怖かったけれどディオルド様は片手で器用に操っていた。 

「あー、今夜は寝台で寝たいっす」 

 ガガ様の言葉にディオルド様を見上げる。 

「ティンモントの宿はジャーマンより若干大きい。部屋が空いていれば取っていいぞ」 

「わーい」 

 ガガ様の無邪気な声に頬が緩む。 

「お風呂~お風呂」 

「ティンモントで宝飾品を売れ。傷はついてもいい、分解しろ」 

 私たちは着の身着のまま、ブリアール公爵列から離脱した。私はもちろんディオルド様もお金を持っていない。でもエコーは金貨と銀貨を持っていた。そのおかげで馬を買えた。頼りになるエコーに視線を向けたとき、下腹が鈍く痛んだ。知っている痛みに体が震える。 

「ロシェル?どうした?」 

 ディオルド様は揺れる馬上でも私の変化に気づき馬を止めた。 

「ロシェル?」 

「あ…の…」 

 ディオルド様には話しづらいわ。私は無意識にエコーに視線を向ける。 

「ロシェル様」 

「エコー…」 

 私はエコーに向かって手を伸ばす。 

「ロシェル…痛むか?」 

 ディオルド様の言葉に見上げると臙脂の瞳が険しく見ていた。 

「あ…」 

「町で必要なものを買う」 

 私はなにも伝えていないのにディオルド様は察したようにガガ様たちに指示を送った。 

 私の腰に回された腕が動き、手のひらが下腹に触れた。大きな手のひらから伝わる熱が下腹の痛みを和らげたような気がして、それは確かに月の物と言える痛みで私は安堵を感じ、その後落胆も感じて目蓋をきつく閉じる。 


「ロシェル様」 

「エコー」 

 ディオルド様は馬を駆けさせ、寄り道をせず宿へ向かってくれた。 

「月の物が…きたわ」 

 今は宿の浴室にエコーと共にいる。 

「はい。いつもと違う痛みはございませんか?」 

「…同じ痛みよ…同じ…」 

 私は浴室に置かれた椅子に腰かける。 

「ジェイデン様の子供がいるかもしれないと…」 

「はい」 

「欲しいと思ったのに…本当は怖くもあったの…私は…母を知らないから…だから…今は安堵もしているし…でも…ジェイデン様との繋がりを失くした思いも」 

「ロシェル様」 

 エコーは床に膝をついて私を見上げた。 

「大旦那様との繋がりは失くなりません。耳を澄ませば大旦那様の声が聞こえるように」

 『愛しているよ、ロシェル』

「ええ…エコー…聞こえるわ」 

 ジェイデン様と閨をした翌日の朝は喜びを感じ、その後の告白に悲しみ、涙した。あの日に感じた気持ちが甦り涙が溢れる。 

「ロシェル様」 

 エコーの優しい指先が私の頬から涙を払った。 

「ハンカチがなくて…申し訳ありません…触れてしまいました」 

「いいえ…エコー…ありがとう」 

 エコーに手を伸ばし、髪を一つに纏める。 

「紐も…頼めばよかった」 

 エコーは髪を縛っているほうが似合うわ。




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