ブリアール公爵家の第二夫人

大城いぬこ

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トマークタスの城

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 はじめて足を踏み入れた王族の私的空間は私の想像よりも控えめだった。広さは十分にあり、飾ってある絵画や置いてある調度品をちらと見る。 

 先触れなしで訪れたにしては、使用人も近衛も驚いていない。 

「疲れてないか?」 

「ふふ、着いたばかりです」 

「最近歩いてなかったろ。休む間もなく動いている。疲れたら言え」 

「…はい」 

 言ってしまったら抱き上げられてしまうわ。今のディオルド様なら場所を考えずにやりそうで、けれどその事に少し嬉しいと思ってしまう。 

「体力をつけたいです」 

「そうか。訓練か…ふん…」 

 訓練…?なにをするのかしら? 

 ディオルド様と話しながら、案内の使用人のあとをついていた時、前方に見える扉の前に知っている人がいた。 

「クランバー…マトリスは放ってきたようだな」 

 クランバー隊長が首都に戻っていた。

 王太子殿下はフランセーを発ったのかしら?ステイシー様、ジェレマイア様たちは… 襲撃されたのがほんの数日前とは思えない。以前の私ならまだ邸に籠って泣いていたかもしれない。でも今は… 

「ん?」 

 私の視線に気づいて見下ろす小さな臙脂が顔を下げて近づく。 

「どうした?疲れたか?無駄に大きな城だよな。主は一人なのにな。抱くか?」 

「ディオルド様に掴まっていますから…平気です」 

 あの男から私を助け、奪われないよう離れず、放たれた矢を剣で落とし、私を抱えて暗闇を歩く公爵がいるかしら? 

 私は触れているたくましい腕に少し身を寄せる。 あの夜を思い出す度、ありがとうと言いたくなる。

 恐怖に震えず歩けているのは、私を守ろうと必死なディオルド様の顔が見えるから。 貴方が私に向ける想いは信じられる。たとえ再び恐怖を前にしても怯まずにいられる。そんな想像ができる。けれど貴方のその想いが一時のものかもしれない不安は少しある。 

「ブリアール公爵閣下、ロシェル夫人」 

 クランバー隊長の声に身を引き締める。 

「隊長…早い戻りだな」 

「フランセーでお会いできてよかったと、内心感謝しておりました」 

 クランバー隊長は私たちに会うためだけに王太子殿下と共にいたのね。 

「話していないで扉を開けろ、ボー」 

 扉の向こうから陛下の声が聞こえた。

 ずいぶん懐かしい声に体が強ばる。一緒に過ごしたあの日々が甦る。大切な人と過ごせる残された時間、死に近づく愛しい人から離れられなかった日々。私と共に最期まで見届けた人。 

 ゆっくりと開いていく扉を見つめる。髭の生えた人が、記憶より窶れて痛々しい隈を作った人が立っていた。 

「ロシェル、来てくれたか」 

 駆け寄りたいのを堪えている。 

 ディオルド様が進み出て、私も部屋へ入る。扉の閉まる音がして、私は陛下に近づく。 

「…陛下」 

「ロシェル、心配したぞ」 

 世間に噂が流れているのだから陛下は知っているわね。 

「ディオルド様が助けてくれました。怖かったけれど…もう怖くありません」 

 私は陛下の手を握り、額まで上げ目蓋を下ろす。痩せてしまった手に胸が締め付けられた。 

「…毎日…花を手向けました…声をかけました…ジェイデン様はあの日のまま…」 

 白い花に包まれるように眠るジェイデン様が頭に浮かび瞳が熱くなる。 

「そうか…ジェイ…無事に埋葬できたな…」 

「はい」 

 襲撃されたのが帰りでよかった。そんなことが頭を過った。 

「陛下…眠れていないと」 

 ディオルド様の手が私の肩に触れる。 

「ロシェル、座るか」 

 掠れた低い声に顔を上げて陛下の手を離す。 

「はい」 

 部屋には使用人がいなかった。クランバー隊長がいるだけだった。 

「先触れもなしで来たからなぁ…もてなせんぞ…ディオルド」 

 陛下はソファに座りながら話した。 

「クランバーが伝えたでしょう…陛下…お元気そうですが」 

「ディオルド様、陛下は痩せましたわ」 


 ソファに座れと促すディオルド様に伝える。 

「隈もできています」 

「…ロシェル…陛下はタヌキだ…覚えろ」 

 タヌキ…? 

「私はタヌキを見たことがありません。動物の一種としか」 

「街の本屋に寄りながら帰るか?図鑑を買ってやる。タヌキもキツネも載ってるだろ」 

「私の見舞いに来たにしてはおかしな雰囲気だな、ディオルド」 

 陛下の声に視線を向ける。 

「ボーの言う通りだなぁ…私は信じられんかったがなぁ…ディオルド…お前…顔が変わったな」 

「…陛下がよくおっしゃっていた凶悪な顔面が変わりましたか?二枚目に?」 

「…は?なにを言っている…?私が言っているのはロシェルを見る眼差しが違う、だ。なにがあった?頭でも打ったか?似合わぬことを言うな。気色が悪い」 

「ロシェルと親しくなった…それだけです」 

 親しく…と言えるのよね?なんだか頬が熱い… 

「ロシェル」 

 陛下に呼ばれ視線を向けると少し悲しげな顔を見つけた。 

「…若いな…前に進むか」 

「陛下、ロシェルに立ち止まり泣き続けろと言いたいのか?悲しみ続けろと言いたいのか?一生想い続けろと」 

「そうではない…羨ましいと…な」 

 陛下の言う通り、私は前に進んでいるように思う。ジェイデン様が鼓動を止めた日、世界が真っ黒になった。悲しみが支配して暴れたくもあった。 

「ジェイデン様の声が…聞こえます…今も耳を傾ければ…ロシェル…と」 

 ディオルド様が私の手に触れ、強く握った。 

「思うように生きなさい…ジェイデン様がくれた言葉です。私は…ジェイデン様の死に絶望して…ジェイデン様の言葉に救われました」 

 ディオルド様の指が頬を撫でる。何度も撫でて雫が払われる。 

「今も思い出せば泣いてしまうけれど…」 

 私は大きな体を屈めて、思いやってくれるディオルド様を見つめる。 

「寄り添ってくれます」 

「夫だからだ…当たり前だろ」 

「ステイシーが泣いたら寄り添うのか?しないだろ」 

 陛下の言葉にディオルド様は小さく笑った。陛下は瞳を見開き、ディオルド様を指差してクランバー隊長と顔を見合わせている。 

「あれには取り巻きも画家もいる…涙もよだれも拭いてくれる」 

 よだれ…?まさか…朝… 

「…お前のよだれはまだ見てない…ふ…そんな顔をするな」 

 ディオルド様の言葉につい睨んでしまった。 

「ふ…ふはは!…ディオルド…まさか…お前までロシェルを愛すか…なんと…面白いことか…なんと…」 

 陛下は笑いながら涙を流している。 

「ジェイとて想像してなかったろう…お前はなにかが欠けている…過去のせいだが…そんなお前に託すことはジェイの懸念だった…ジェイはロシェルの未来を案じていたが…杞憂だったなぁ」 

「寂しい思いは続いています…でも…悲しみは少し癒えたような気もします…ジェイデン様の死を受け入れた…と」 

 そう…受け入れなければならない。あの優しい人はもういないと…与えられた立場と言葉を大切にする。そして生きていく。 

「ディオルド、ロシェルを守ってやれ」 

「陛下に言われずとも守っています。馬車は同乗、今まで通り離邸で暮らします」 

「…ディオルド…確かにお前はロシェルに対しては柔軟な態度を見せていたとは思うがなぁ…一体なにがあればここまで人は変わるのだ?」 

「ロシェルが…世話を必要とし…俺はそれに寄り添って…ロシェルの…素晴らしさを知った…ただそれだけだ」 

 ディオルド様を見上げると耳を赤くしていた。私はそれを見て胸が温かくなる。 

「世話とは夢遊病か…」 

「アプソから聞いていますか」 

「あれは私の犬だぞ。まだ治らないのか?」 

「襲われた日から起き上がることはありません。時折、悪夢は見ていますが」 

 そうなのか、と尋ねるように陛下の視線が私に向けられた。私は小さく頷く。 

 もう怖くないと思っても悪夢は見ている。なぜか子供のころの記憶や男に掴まれたときのものと、まぜこぜで断片的な夢に魘されている。 

「俺が起こせば悪夢は終わる。だろ?ロシェル」 

「はい」 

 恐怖のなか、必ず私を呼ぶ声がする。それはディオルド様の掠れた低い声だった。 

「ボー…これは本当にディオルドか?なんだか別人だなぁ…あの隈は化粧かもしれんぞ…偽者のディオルドだ」 

「陛下のおっしゃる通りです」 

 生真面目に応えるクランバー隊長に微笑む。 

「…化粧は陛下では?その隈、早く拭いたほうがいいでしょう」 

「ははは、バレたか。ロシェルは騙されたろ?」 

 ふふ…騙されたわ。 

「でも窶れています。陛下、王太子殿下のおっしゃっていた通り、眠れませんの?」 

「目蓋を閉じるとジェイが見えてな…ロシェル…ピアノを弾いてくれるか?」 

 陛下の視線は部屋の端へ向かった。小さなピアノが置いてある。 

「もちろん」






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