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歓談室
しおりを挟む夜の風が冷たく感じるのは大きな体のあの人が隣にいないから。
「居心地が悪いのですって」
本邸から離邸に戻る途中の外、美しい庭が遠くに見える場所を歩きながら呟く。
「アリステリア様は子供です」
「もう学園に通っているわ」
「はい」
「彼女は傷つくことなく、なんでも思い通りに生きてきたのね」
公爵令嬢にしてはあまりに子ども染みた発言は彼女が幸せに生きてきたということ。教師もいるのに分別のある女性になれていない。
「他家では物心つく前から第二夫人の存在があります。ビアデット公爵は特に女性を求める方ではないのですが、医師家門の繋がりを強め、そして第二夫人という当たり前の存在を子息らに認識させる意図もあり娶っています」
「ふふ、ディオルド様は面倒臭くて嫌がったのかしら?」
そんな姿が想像できるわ。
「はい。ずいぶん前に大旦那様が提案したことがありましたが…」
アリステリア様は高位家に嫁ぐのだから、問題が起きるような行動をしないよう教育が必要だったはずだわ。 見て学ぶ、成長しながら共に学ぶ、そうして貴族家を理解し大人になる。
「…エコーは神がいると思う?」
私の靴音が静かな道に響く。
「神の存在を感じたことがありません」
「私も」
「ですが、教国の信徒は災害を神の怒りと解釈し、偶然を神の御業と考えます。出来事に説明をつけることで生きやすくなる。神を理由に事を成す者は…それ以外の名分が浮かばなかったのでしょう」
「神を言い訳に?」
「はい。客観的に見て非道と思われる行為も神のせいにすれば正当に思えたのでしょう」
陛下はそういうことを恐れていたのね。先を考える能力がある…国王足る国王…もう…
「ふふ…陛下に会いたくなったわ」
「教主が首都を離れれば会いに行けます」
「ええ…」
「パルース様」
側近の男が心配そうにパルースの前へ移動し、床に膝をついて見上げた。
「んふ…いいお酒を飲みすぎてしまったようだわ…ジュード」
男はいぶかしげな視線を俺に向けた。
「確かに強いものだが…勧めて悪かったな」
「いいえ…公爵…連日の疲れが出たようですわ」
完全に言葉遣いがおかしいぞ。こっちが素か。
「スタン、氷を持ってこい」
スタンが消え、歓談室には俺とパルース、側近の男だけになった。
「長旅ははじめてなの」
「…そうか」
「パルース様」
男は膝をついた体勢のままパルースを見つめ、顔を振った。
「いいの…ジュード…公爵は気にしないわ…私の言葉なんて」
「ああ」
誰がどんな言葉を使おうが気にはしない。
「トマークタス・ベルザイオ陛下には牧師の派遣を断られましたわ」
先に陛下に話をしたか。
「だろうな。教会は民を支配できる」
「その通り…我が国の貴族の力はベルザイオよりも弱いわ…罪の黙殺はなし…神騎士は買収などされない…公爵でも不当な暴力は奮えない…罪は罪…それに不満を抱く者が…狙っているのよ」
「血筋か」
「そう…さっき話した薄い血の人たちが道を見つけたの…いいえ…ずいぶん前から計画していたのかも…機が熟した…」
パルースは未だ目の前で膝をつき心配そうに見守る男の頭を一撫でし、ソファに身をもたせ青緑の瞳を俺に向けた。
「集団の力は恐ろしい…それはよく理解しているわ」
「…アリステリアを手に入れても…しのげるのは短くないか?」
アリステリアを奪われてしまうか、教主の妻の座に不満を抱いたアリステリアに逃げられるかしたら元も子もない。国は緊張状態が続くだろう。
「ふふ…心配してくれるなんて」
パルースは俺に触れようと手を伸ばしたがかわす。
「…つれない…」
「どんな策を練ってる?」
「…アリステリア様の性格を考えて…次の教主を気に入るはず」
「顔がいいのか」
俺の言葉にパルースは妖艶に微笑んだ。
「話術…駆け引き…肉体…全て揃っている者を育てました…もちろん、信心深く神の僕として役目を果たせる…美青年」
そんな奴を育てるほど前から、この場を迎えることを想定していたか。
「ベルザイオ国王からはあなたに任せると言われましたわ」
「世襲制ではないと言ったな?」
「はい」
「アリステリアの子は」
「ええ…厄介な種となり得ますが、子供のうちから信心を植え付けます。貴族らの誘惑をはね除ける強い心を育てますわ」
こいつは根が真っ当なんだろうな。そんな不確かな未来を誰が信じられる?アリステリアの子供が男なら、将来種を撒き散らして不穏の芽が増えるだけだ。俺ならアリステリアの体を壊す。臭い娘のように石女にしてしまったほうが手っ取り早い。
「…その子の子……謀反の種は無限の可能性を持つぞ…永遠に」
パルースは顔を歪めたが、その顔にすら醜さはなかった。女というものはこういう顔を好むのか。
「…惨いことを考えるのね」
「先を見たんだ」
「私は神の僕…そんな非道なことはできませんわ」
「…アリステリアを嫁がせよう」
俺の言葉にパルースは青緑の瞳と赤い唇を開いて固まった。
「貿易関税は現在の二割に…牧師の派遣はなし…」
「グラン教国の牧師を派遣することに他意はないわ…ただ…神の救いを広めたいだけ」
今、他意はなく見え無害だったとしても過剰な信心を持つ民が現れないとも言いきれない。この先、十年二十年先の未来がグランルーツと同じ歴史を辿らんとも言えん。
パルースは神の僕という不穏の種を他国に撒き、芽吹く未来を待っているように俺には見えた。実際成功したんだ。
「…憂いは消しておく」
俺がアリステリアに薬を飲ませればいいんだろう?お前は神の怒りに触れないよう、手を汚さなくていい。
「いいか…?もうブリアールを巻き込まんと誓え。神に誓え。グラン教国が求めるアスクレピアの血はアリステリアで終わらせろ」
謀反を考える貴族の頭にはジェレマイアの子供も……俺とロシェルの…これから産まれる可能性がある子供を想像し、希望として置かれているはずだ。
俺はロシェルを孕ませんが、それを知るのは極わずかな者たちだけだ。俺の寵愛を受ける第二夫人がいつ懐妊してもおかしくない。周りはそう考えている。
「誓うか?」
「…いいのですか?」
「なんの話だ」
俺にとってアリステリアは血を分けた娘だが、なんの感情も湧かない存在だ。薄情だ冷徹だと思われようが、それが事実なんだ。
「いいか?アリステリアに忍び寄る敵に細心の注意を払えよ?俺の…ブリアール公爵家から離れたあの娘を…俺は守れん…俺に頼るようなことはないと誓え」
パルースは真剣な眼差しを向けながら小さく頷いた。
「神に…誓います…必ずや…ご息女が満足する人生を…送れることを」
「そうしてくれ」
アリステリアは国を離れても、媚び諂われれば満たされ、楽しい人生を送れるだろう。
王族以外、フランシスを除けばジェレマイアとアリステリアが最高位な血筋ゆえに、学園でも茶会でもため息一つで周りの者に気遣われる生活からどれほどの優越を得ていたか。指先一つでなんでも叶う公爵令嬢は想像以上に傲慢な娘に育った。強大な公爵家の後継という重責を担うジェレマイアと嫁ぎ先の心配をするだけのアリステリアの意識の差は大きい。
「あなたは…欲がないのね」
「なにを言っている」
「こんな話をトールボット公爵としたなら…彼は国の利益など考えず…家門に得が出るよう話を進めるわ」
「そうか」
「マトリス殿下がトールボット公爵邸にいたのは私が余計なことをしないか見張らせていたのかしら?アリステリア様の伯父だもの」
確かに、こいつがアリステリアの件を先にトラヴィスに話していたら面倒なことになっていた。婚約によって利益をどれだけ得るか、先のことなど考えず牧師の派遣に問題なしと意気揚々と声を上げたろう。
「トールボットには不幸があった…マトリス…殿下は臣下を思い…食事を共にしたんだろう」
「ふふふ、彼は…説明のつかない異臭がするの…だから…好きじゃないわ…」
異臭…確かにトラヴィスの香水の趣味は悪いな。
「でもあなたは違う。清々しい匂いがするの」
「パルース様」
「ジュード、公爵は人との付き合いが希薄よ。私の話を言いふらす真似はしないわ」
安心なさい、と言うこいつを横目にオルダージの瓶を掴み自らグラスに注ぎ、あおる。
「強いのね」
グラスを一気に空にした俺を見て、パルースが小さく呟いた。
「…賓客が来なければ出さない酒なんだ」
匂いも味も最高級の酒は、我慢が難しくスタンに管理させている。
「旦那様」
スタンが氷の用意を終え、新たなグラスをミント水と共にパルースに差し出した。
「ふふ、氷は高級品だから国では我慢しているの。気分がいいわ…ブリアール公爵、あなたを気に入ったわ…だから教えてあげる」
「…なにを言っている?」
「トールボット公爵が自慢げに聴かせてくれたピアノ…王宮のものと同じ製作者と言うけれど…ふふっ…音が違うわ」
「奴に言ったのか?」
「…驚かないのね…知っていたのね…?なんて人なの…粗野に見えるのに繊細だなんて…素敵だわ」
素敵…なぜだ…ロシェルに言われたときは胸がほわっと浮わついたが今は不快だぞ。
「ふふっ…言ってないわ…私はベルザイオに面倒事を増やすために来たわけではないもの。ああ…長い留守になることを心配していたけど…来てよかった…宵の天使…ふふ…そんな素敵な名なんてない…ただの歌だったけれど…私の祖父がよく歌ってくれたわ…異国で聴くなんて…私が神を感じる瞬間よ」
そう言ってミント水を旨そうに飲むパルースの前に跪いていた側近の男の顔がわずかに傾き唇が動いた。
『犬』
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