紅葉-くれは-

菊池まりな

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第135話 名前を持たない朝

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 夜が明けきらないうちに、森は静けさを取り戻していた。
 あれほど濃密だった気配は嘘のように消え、鳥の声だけが、ぎこちなく朝を告げている。
 だが、その静けさは「終わり」を意味してはいなかった。
 春香は、抱きしめていた腕をゆっくりと緩めた。
 少女──紅葉だった“存在”は、もう震えてはいない。
 だが、その瞳には、どこか焦点の合わない空白が残っていた。
「……寒くない?」
 春香が問いかけると、少女は少し考えるように間を置いてから、首を横に振った。
「……わからない」
 その答えに、胸が締めつけられる。
 名前だけではない。
 感覚の一部が、森に置き去りにされたままだ。


 美奈は一歩下がった場所で、少女を見つめていた。
 ──紅葉。
 親友だったはずの存在。
 けれど今、目の前にいるのは「紅葉を知っている何か」でしかない。
「……ねえ」
 美奈は、恐る恐る声をかけた。
「私……わかる?」
 少女は、美奈の顔を見た。
 じっと、じっと、観察するように。
「……知ってる……気がする……」
 それは、肯定とも否定とも取れない言葉だった。
 美奈は、思わず視線を伏せる。
 ──それでいい。
 思い出せなくていい。
 無理に、戻らなくていい。
 けれど、胸の奥に残る痛みは、どうしても誤魔化せなかった。
 一方、祐真は森の奥を見つめたまま、動かなかった。
 鈴は壊れた。
 札も役目を終えた。
 それでも──
「……終わってないな」
 低く呟く。
 春香が顔を上げる。
「……どういう意味?」
 祐真は、地面に残った“掘り返された跡”を指した。
「……あれは……
 “呼ぶ器”の一つに過ぎない……」
 美奈が息を呑む。
「……一つ……?」
「……村の中に……
 まだ、ある……」
 その言葉に、春香の顔色が変わった。
「……じゃあ……
 紅葉が消えたのは……
 偶然じゃない……?」
 祐真は、はっきりと頷いた。
「……20年前も……
 同じだ……」
 春香は、唇を噛みしめた。
 美桜。
 そして紅葉。
 選ばれたのではない。
 “置かれた”のだ。
 村の中に、誰かが。
 あるいは、村そのものが。


 少女が、不意に口を開いた。
「……ここ……
 帰れない……?」
 その声は、かすれていた。
 春香は、即座に首を振る。
「……帰れる……
 大丈夫……」
 祐真が続ける。
「……森には……
 もう、戻さない……」
 その言葉には、警察官としてではなく、
 かつて“呼ばれかけた子ども”だった男の決意が滲んでいた。


 朝日が、木々の隙間から差し込む。
 その光は、森を照らしているはずなのに──
 地面の奥に沈んだ影までは、決して届かない。
 春香は、少女の手を握った。
 確かに、温かい。
 それでも、背後で何かが静かに息を潜めている気がしてならなかった。
 森は沈黙したまま、
 まだ、何も語っていない。
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