孤独な大賢

橘伊鞠(ろさ)

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――レオンは、この状況をどうするべきかと、三つほどの選択肢を考えていた。

まず一つ目、「叱る」。最も簡単な方法だが、それでは逆効果になる恐れがある。このぐらいの歳の頃の子供というのは、なまじ知恵がついてきただけに、反抗する言葉選びにも長けているのだ。
次に、二つ目、「諭す」。この方法は、最も優しく害の無い方法とも言えるが、対象との温度差により、その場しのぎの言い訳をされかねない危険性がある。
では、三つ目。しかし、これは最後の手段とも言える。あまりに暴力的で権力を大いに活用した効果的な手段だ。気の大人しいタイプの者であるならば、少々使用を躊躇うだろう。

さて、そんな小難しいことを考えているこのレオンだが、彼の目の前には、楽しそうに笑う子供たちがいた。金の髪が愛らしい、ディグ家の兄妹だ。大人が三人かけても余裕があるソファの上で、くすぐりあったり、本の取り合いをしたりと騒いでいる。
それはいい。子供が楽しく遊ぶことは、とてもいいことだ。しかし、時と場合による。
レオンは、先程考えていた三つ目の手段を選択すると、笑顔を以て、行動に移した。

「いい加減にしマショーかライザー君!  マイアちゃん!」

ソファに座っている二人の頭をぐしゃぐしゃに撫でさする。マイアだけぬいぐるみ越しに撫でさすったが、それでも髪は鳥の巣へと変化した。マイアは足をばたつかせて頭を抱え、レオンに向かって怒った。

「なんてことするのレオンぐんし!  たいばつなんて、軍隊のやることよ!」

「分かった風な口聞くんじゃないデスよちびっこが。今は何の時間デスか?」

「……うっ」

見下ろされ、マイアはスカートの端をぎゅっと摘まみ黙り込んだ。そして、横に座る兄ライザーの影に隠れながら、小声で答えた。

「おべんきょう……」

「そうデスよ。そして、君の先生は俺じゃあない。分かりマスね?」

「だあって……」

マイアの顔がぐしゃぐしゃに歪み、大きな瞳が涙で歪む。それに気付いたライザーは、兄らしく勇ましい声で、レオンに食ってかかった。

「マイアをいじめるなバカぐんし!  ばーか!」

「誰に、馬鹿って、言いマシた……?」

レオンの手の本が、変形した。薄いとはいえ、本を丸めて握り潰して凄むレオンに、二人は怯え顔で固まってしまう。しかし、レオンはそれに気付かず、自分の感情のままに怒ろうとしていた。

「やれやれ……」

先程までの冷静な頭はどこへ行ったのかと溜め息を吐くのは、ノルテ・ヴァッサミューレ。壁際で、レオンの授業の様子を見守っていたのだが、ついに顔を手で覆ってしまった。

   *   *   *

「――苦戦してらっしゃるみたいですね」

ミリアの、優雅な所作で運ばれてきたポットが、コーヒーをカップに注いでいく。薔薇模様のカップが僅かに可愛らしい音を立てて、レオンの前に差し出された。
程好いクレマが浮かぶコーヒーは薫り高く、引き寄せられる。レオンは少々息を吹き掛けた後、口に流し込んだ。

「でも、ライザー様もマイア様も可愛らしいでしょう?」

「どこが。甘やかされて育ったのが丸見えですよ」

「愛されて育った、というんですよ」

ミリアの言い方が気に入らなかったレオンは、返事をしなかった。
それではまるで、自分が愛を知らない子供のようだと言われたみたいだったからだ。
ミリアは勿論、そんなことを思ってはいない。しかし彼は、きっとそうだと思い込み、苦い顔をする。
そんなレオンの表情に気付きつつも、ミリアはそ知らぬ顔で自分の分のコーヒーを入れた。そして。レオンと向かい合う形で席に着いた。

「あれ、ミリアさん。紅茶にしないんですか?」

「はい」

いつもは、紅茶をたしなむ彼女が珍しいことをしているとレオンは感じた。
お菓子もよく食べる方なので、甘党だと思っていたのだが。
ミリアはコーヒーの薫りを楽しんだ後、カップに口をつけた。

「……砂糖を入れないと、相当苦いですよ」

が、レオンの忠告も聞かず、ミリアはコーヒーを飲み込んだ。
落ち着いた表情の瞳が、僅かに細められる。
ああ、だから、と言いかけたレオンに、ミリアは笑顔を向けた。

「苦いですね、とても」

「だから言ったのに」

「こんなに苦いのに、どうして軍師は、お砂糖を入れないんですか?」

「甘いと飲んだ気にならないからですよ」

「……苦いものでなければ、受け付けない癖が?」

「えっ」

「だから私も、たまには苦いものを一緒にと思ったんです。貴方はいつも、こんなものを飲んで休憩していたんですね……」

「……、まあ、そうですけど」

「甘さも時には必要ですよ、軍師」

ディグ家、ラオフェンの屋敷の客間は広い。白い清潔な布が被せられたテーブルには、いつでも薔薇の花。その真上には、淡い光を放つシャンデリア。その水晶の輝きを追い視線をずらすと、壁の四方に装飾された蔦状の金細工が目に入る。
それらは、中央のシャンデリアを引き立たせる為のみの飾りだが、磨き抜かれて輝いていた。
誰があんな高い位置を磨くのだろうかと考えつつ、レオンはコーヒーを飲み干した。

だが本当は、そんなものを見ていたわけではない。
ミリアの優しい笑顔を、真正面から見ることが出来ず、逃げただけだった。

ミリアとの、半刻ほどの休憩を終えたレオンは、再び彼らの部屋へと向かった。
足取りが重い。床を蹴ることすら面倒だ。
小脇に抱えた教科書の束には、付箋がいくつも挟まれている。どこから教えればいいかなどは頭に入っているので、なんてことはない、気休めに過ぎないのだが。
レオンはその付箋の一枚を辿り、人差し指と中指を使い器用に広げた。幼児向けの教科書にしては少々味気のない文字の羅列が姿を現した時、レオンはミリアの言葉を思い出した。

「砂糖、か……」

部屋に着くと、案の定と言うかなんというか、対象の人物は怯えきった顔でそこに座っていた。
金縁のチェアに、ちょこんと座り、机の上の文具は綺麗に整理整頓されている。勉強の準備は万端だ。
妹の姿は見当たらない。どうやら、ちゃんと自分の方の勉強をやる気になってくれたらしい。
……いや、怖がって逃げた、か。
レオンが無表情のままそんなことを考えていたので、ライザーは何も言われずとも、ほろほろと泣き出してしまった。

「え、ど、どうしたんですか?」

泣き出した彼に驚いたレオンは、傍に歩み寄り、ライザーを見下ろす。
しかし、それがまた彼には怖かったらしく、波打つようにして口を震わせ、涙を溢し始めた。
レオンには、彼が泣いている意味が全く分からなかった。
怖がられているのは分かっているのだが、今はまだ何もしていない。そこまで泣かれると、逆に腹が立ってくる。
しかし、幼いライザーの流す涙は、レオンに必死に何かを訴え続けていた。灰色の瞳が、涙で潤み銀に光る。

――そういえば、この子供の瞳は、どうして灰色なのだろう。

ふと、それに気付いたレオンは、自分の目の縁を触った。
ディグ家の人々は、確かほとんどが翡翠だった筈だ。あまりはっきりと覚えてはないが、ラオフェンのみならず、奥方も。ジオリオ陛下もそうであるし、ここで灰色の瞳というのは、あまり見かけない色だ。

「な、なんだよぅ……」

レオンの視線に気付いたライザーは、涙声で言う。

「いや、君の目の色がね」

レオンがそう答えた瞬間、ライザーは火が着いたように怒声を上げた。

「大きくなったら父様みたいに綺麗な緑色になるんだ!!」

そう言って、ライザーはふいっと横を向いてしまった。鼻水を啜る音が、部屋に響く。抱え込んだ膝に頭を埋めたライザーを見て、レオンは溜め息を吐いた。

「鼻水が袖に付きマスよー、ライザー様~」

レオンはおどけた声で、ライザーの脇を抱えて持ち上げる。小さな体を持ち上げることは容易で、ライザーも抵抗はしなかった。
チェアから降ろし、正面にしゃがみこむ。ポケットからハンカチを取り出したレオンは、彼の鼻をつまむようにしてハンカチを押し当てた。

「ほら、そんなんじゃ勉強になりマセンよー。鼻かんでクダサイ」

いくらか優しい声のレオンだが、それでもライザーはまだ怯えているようだった。レオンをじっと睨むように見つめていたが、やがて、言われた通りに鼻をかんでみせた。
瞬きする灰色の瞳は、自分と同じ色。けれど、愛情を知っている瞳。甘えることを、知っている瞳だ。
ほんの一瞬だけだが、彼はそれを羨望の眼差しで見た。
この子供はきっとこれからも、温かな世界で生きていくのだろう。何の苦労も知らず。苦さも、知らないままで。
レオンはまた、深刻な顔で黙り込んでしまった。
しかしライザーは、どういうわけか泣き止んでいた。流れる涙はとっくに止まっており、今は丸く見開かれた目の縁に僅かに溜まるだけ。
レオンの顔を覗き、その頬を小さな手で包んだ。

「せんせい、ごめん」

「……え?」

「おれいやだったんだ。べんきょうなんて。だって、みんな言うんだ。おれの目を見たらさ。きっと、父様みたいにはなれないだろうねって」

王弟の息子に向かってそんなことを言う馬鹿がいるのか、とレオンは眉を寄せた。いや、王弟の息子以前に、こんな小さい子に向かってふざけたことを言う奴がいたものだ。
意味が分からずとも、悪意だけは十二分に伝わっている。

「誰がそんなことを?」

レオンが聞くも、ライザーは首を横に振った。

「言いたくない。おれ、父様や母様もそう思っているんじゃないかなって思ってこわいんだ。でも、そうじゃないに決まってるんだ。父様も母様も、そんなこと思ったりしないはずなんだ!」

泣くまいとこらえる少年の瞳の銀は、誇り高い王族の色をしていた。
ラオフェン殿下が、多忙であることは知っている。奥方のレヒト・レギ様も、法の管理と執務で、この屋敷に戻ることの方が少ないと聞く。

この少年は、甘やかされて育った少年ではない。

レオンは、自分が如何に一辺倒な見方しか出来ていなかったかを思い知った。熟知せず、見たままだけで物事を判断し、狭い視野で歩き続けていたのでは、何の意味もない。
こんな小さな子供の心さえ掴めない自分が、どうやった軍隊を統率する最高軍師になれるのか。

自分はまだ、何も分かっちゃいなかった。

「そう……デシたか。それを気にしていたんデスか」

やっと返した言葉には、もう刺はなかった。ライザーは目を大雑把に擦り、鼻で息を吐いた。

「だからおまえの目をみたとき、わざとそういうやつを連れてきたのかなって思ったんだ……」

レオンの瞳は、灰色。ライザーと同じ、くすんだ銀色だ。
両親と目の色が違うというだけで、この子供は小さな胸をこんなにも痛めていたのか。
急に胸が熱くなったレオンは、彼の頭を自然と撫でていた。慈しむように、優しく。

「ライザー君、君の目の色はとても綺麗デスよ」

「う、うそつけ!  こんな焼けた暖炉みたいな色、だいっきらいだ!」

「じゃあ俺の目もそうデスか?  この世界に、君と同じような目の色をした人がどれだけいると思っているんデス。それとも、君を産んでくださったレヒト・レギ様が悪いって言うんデスか?」

「母様は悪くない!」

「ハイ。そうデスよ。誰も悪くなんてありマセン。瞳の色が違っても、……種族が違っても……誰かが悪いなんてこと、ないんデスよ」

「……ほんと?  おれのこの目も、悪くない?」

「勿論。今に見ててクダサイ。君と同じ目の色をした人が、マイアちゃん以外にも、きっと現れマスから。……きっと」

最後は、自分に言い聞かせるような言葉だった。
きっと、いつか現れる。
自分の価値を示してくれる人が。

知を尽くすに値する、その人が──。

   *   *   * 

定時を優に越えて授業を行ったレオンは、欠伸をしながら、ラオフェン邸の屋敷の回廊を歩いていた。
授業と言っても、あれからはほとんどがお遊びのようなものだった。
紙飛行機が何故魔導術を使わなくても飛ぶのかとか、魔導元素の濃い空間で花はどんな風に育つのかとか、レオンが思い描いていた授業とは、かけ離れた内容のものばかりだった。
しかし、ノルテ・ヴァッサミューレはやけに嬉しそうにしており、彼女の目元の小皺が深く深く沈むのを見ていたレオンは、とても気恥ずかしかった。

「一人で帰れるかい?  レオン。疲れて馬から落ちるんじゃないよ」

エントランスまで見送りに来たノルテは、からかうように言う。
今日、彼女は此処に泊まるらしい。どうやら、あまり足腰の調子が良くないらしい。若い時代が長いヴァイスの民で、老いを見せる彼女は相当な歳を取っているだろうということは、レオンには分かっていた。
だからといって、年齢を聞くと殺されかねないので、聞く気はないが。

「今日は良かったよ。あの坊やも喜んでいた。どうだい、なかなか楽しいもんだろ。人を育てるってのはさ」

「……まだ、自信はありません。でも、分かったことはあります。ユティリア様が、どうして俺に家庭教師を頼んだかってことは」

ノルテは黙って微笑み、レオンの襟元を正してやった。そして、軽く肩を叩いた。

「私はお前のそういうとこが好きさ。理解した後、すぐに反省する。考える。自分に問いかける。これで良かったのか、ってね」

「……ノルテ様」

「最高軍師におなりレオン。あんたなら、このヴァッサミューレの後を継げる。お前が、本当の最高軍師になれた時、お前に名をあげよう」

「それは……どんな」

「まだ内緒さ」

期待していたレオンは、がっくりと肩を落とした。そして、嫌みったらしい顔をして、口の中で呟いた。

「先に死ぬんじゃ……」

「聞こえてるよレオン!」

「地獄耳ですね」

「馬鹿言うんじゃないよ!私はまだ……、……ッ!」

拳を振り上げるノルテだったが、その瞬間、彼女はよろめいた。何の段差もない、平らな回廊で。
その不自然な動きに、レオンが彼女を支えに入る。しかし、身長はノルテの方が高い。
共倒れしそうになった時、大きな手が二人を支えた。しかし、人の手ではない。靄のように揺らめく、不思議な手だ。巨人のように大きく、幻よりも儚い。
その手のおかげで、ノルテはその場に留まり、レオンもまた、何事も無かったかのように、体勢を立て直すことに成功した。

「大事ないか、軍師殿」

二人を助けた大きな手が消える。立ち上る煙のように、ゆっくりと。
声がした方を見ると、そこには、大きな体躯の男性がいた。
岩のように硬そうな輪郭に、巨木のように太い肩と腕。逆立つ深い金の髪には、負けじと輝く金の飾り。
男の後ろには、女性がいる。つり目がちだが、優しい顔をした女性だ。女性の方は嬉しそうにレオンに近づいてきたが、男の方は、心を読ませまいとしているかのように、仏頂面を決め込んでいた。
間近まで近づかれ、レオンはやっと彼が誰であるかを把握した。
それとほぼ同時に、ノルテが軽く手を上げ、挨拶を交わした。

「ラオフェン、レヒト!  どうしたんだいこんな時間に!」

「急事だ。ノルテよ、すぐにリーリエへ戻れ。……その弟子も、連れてな」

ラオフェンの翡翠の瞳は、鋭く細められた。
急事とは、一体なんなのだろうか……。


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