月が導く異世界道中

あずみ 圭

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3巻

3-3

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 宴の音も聞こえない、ひとのない夜の森の一角。

「んー、いいね」

 さて、それでは。
 柔軟を行ったあと、森の空気を深く吸い込む。
 用意した弓を手に、お手製の的を見据みすえる。距離は大体百五十メートルくらい。わざと木々を挟んで見えにくいところに的を置いているから、いつもより距離は短めにした。
 野外で弓を射るときは、いつもこうして障害物を用意してしまう。
 着座しまして、と。
 ああ、良いね。この瞬間。
 心を無にしていく。てる。ただそれだけを思って集中し、次に意識を拡散させていく。
 自分という存在が、的までの直線上にある全てのものと同化していく。自分も、弓も、的も、障害となる木々の枝葉さえも――。
 全部、意識の中に取り込まれていく。
 静かに立ち上がり、弓を構え、矢をつがえる。これは僕にとって完成されたしょだ。何万回と繰り返してきた。

「ふぅぅ……」

 込めた気合が口からぶきとなって出る。
 ――一射目。
 矢は吸い込まれるように的の中央に刺さった。
 何度も、何度も。続けて的に矢を放つ。
 久しくなかった機会だからか、調子に乗って何十と矢を射ち込んでしまったけど、その割にさして疲労を感じない。超人仕様の肉体ゆえか大好きな弓道だからなのか。
 健康になるため、強くなるため、上手くなるため。目的こそ次第に変じてきたけれど。
 僕はそれこそ、人生の何割かを弓に懸けてきたと言っても過言じゃない。姉さんも妹も格闘技を習っている。だけどその割合は明らかに僕よりも少ない。僕は姉弟の中でダントツにひ弱で、体を鍛えるために人よりもたくさん練習したのも関係してるだろうがそれだけじゃない。
 ただ、弓に魅力があったからだ。家族に熱中ぶりを懸念されたこともあったけど、弓を射るのはまったく苦痛じゃなかった。
 初めて亜空で弓を射たとき、力を加減してなかったために的ごと消し飛ばしてしまったけど、今回はその辺もきちんと想定していた。
 集中し終えた意識の中で見える結末。のうに浮かんだ、的に突き刺さった矢のイメージは間違いなく実現する。

「的も割れず、と。……うん、上出来だ」

 ただ、疲労をあまりにも感じないのが気になる。
 いつもならもっと疲れて、体中の筋肉が張って、動くのが少し辛いくらいになるはずなのに。
 頬を伝う汗をぬぐい、不安を振り払うように空を見上げる。
 雲一つない暗闇に、星々がまたたいている。
 空と星があるなら宇宙も存在するんだろうか。でも、亜空は巴の能力によって誕生した単なる空間くうかんのはず。宇宙なんて大層なモノまで作り出せるとは考えにくい。だとすれば、この星空の向こうに広がっているであろう宇宙は、異世界の宇宙なのか、それとも――。

「若」

 びく。
 なんで僕はこう、弓を構えると無防備になるのでしょうか!?
 この声は――。

「巴。それに澪もか」

 僕の後ろに二人が立っていた。距離にして数メートルも離れていない。こんなに近くにいたのに、存在を全く感知できなかった。
 心なしか二人の体に緊張がうかがえる。緊急事態か?

「今のが、若が行っている弓の修練ですかな」

 巴は真剣な顔つきだ。澪は今にも泣きそうな表情をしている。二人とも僕の傍に近寄ってきたけど、表情は変わらない。

「……あー。うん、そうだけど。どうしたんだ? 態度が固いぞ?」
「若は、今のような修練をこれまでずっと積んできた、と」

 巴のひたいから、一筋の汗が頬を伝う。
 何だ? いったい何が起こってるんだ? 澪はいよいよウルウルしてきてるよ?
 ってかおい! どうしていきなり抱きついてくるんだ澪さん!

「うおっ!? いったい何事だよ!」
「若様~っ、生きてる! 生きておいでですね!?」

 抱きつかれたまま全身をすりすりされ、無事を確かめられる。
 安否の確認とか……まさか、敵襲!?

「おい巴! まさか、敵襲か!?」
「いいえ。……ただ、失礼ながら若の修練を見せていただきました。途中からではありますが」
「は? それで?」

 状況がさっぱりわからないんだが。

「若が矢を射る前の集中、と言って良いのかわかりませんが、座しておられるときのことなのですが……」
「ああ」
「若の意識が急に薄らぎ、周囲に溶け込んだようになりました」
「ああ」

 だから何?

「ああ、ではございません! それは、それはつまり、若の意識が死んだ、ということですぞ!」

 肯定の相槌あいづちに対し、異様な迫力で巴が怒鳴り散らす。
 十年以上、僕が日常的にしてきた当たり前の練習だ。なのに死ぬとか何とか言われても意味がわからない。

「へ? 何でそれで死ぬの?」
「人が己の意識を周囲に拡散させるなど、死んだとき以外ありません!」
「そ、そうなの?」

 んなこと言われても、我流だけど僕が弓を射る際に必ず行う所作だしな。

「若様は、若様は宴の最中に急に居なくなられて……他の者たちに騒がれぬよう私たちが密かに捜索していましたところ、いきなり気配が希薄になり……そして、溶けるかのように消失されたのですっ!!」

 えつと共に、澪の瞳から盛大に涙が零れ落ちる。
 おおう。澪、泣いちゃったよ。
 僕は、なんぞやばいことをした、らしい?

「あ~その、宴をちゅうしたのは悪かったけど、昔からしてる弓の修練というか心を落ち着かせるためにというか……単に矢を射っていただけだから気にしなくても――」
「若、若は今、心を落ち着かせるためと言いました。つまり、何ですかな? 若は意識を拡散させることを心を落ち着かせるとおっしゃるので?」

 イライラしている様子の巴が、額に手を当てながら質問してきた。こめかみがピクピクと動き、血管が浮き出ている。
 いやいや、心配はかけたかもしれないけど、そこまでキレることか? 僕はこの通りピンピンしているんだし、問題ないでしょ。

「ああ、一度心を落ち着けて空っぽにしてから、的まで意識を伸ばして、的と自分の間にあるすべての存在と同化する感じで意識を――」
「若!」
「話してる途中ですが!?」
「若はあんなところまで意識を散らして、それを再構成したと言うのですか!?」
「ああ、そうだよ! そう言おうとしたのにさえぎるんじゃないよ!」

 僕の言葉を聞いたあと、巴はしばし呆然としていたが、やがてため息と共に口を開いた。

「……は~。若、ここのところの謎がいくつか解けました」

 唐突に話を変えたな。

「今度は何だ?」
「全ては若の弓の修練が原因です。キュウドウでしたか、それが原因だったのです」
「どういう意味?」

 ん? いきなり名探偵タイムか?

「まずは若の魔力の増大。こんな現象、本来ありえません。なぜなら魔力は、本来上限が定まりしもの。余程の修練を積んでも、普通は生来せいらいの倍にもなりません」

 うつむき、額に手を当てていた巴が僕の方をカッと見る。ペ○ソナ4のカットインみたい。

「ですが、澪との契約時点で、若の魔力量は儂と契約したときの比ではない程に増大していた。それからも馬鹿げたペースで魔力量は増大しております」
「増大!?」
「ええ、信じがたいことですが、若はその独自の集中とやらでご自身の魔力量を増大させているのです」

 衝撃的な巴の発言に、言葉を失う。

「若、そしてですな」
「何だ?」
「先程、亜空が拡大しました」
「はあぁぁ!?」

 また相当な発言をしてくれた! ソレは僕がお前に調査を命じている、まだ未解決な事案ではなかったですかね!?

「若のなさっていたことは私たちの目には自殺しようとしている風にしか映りませんでした。しかし、集中のあと、普通に弓を射ておられたので我らも様子を見ておりましたが……話を聞いて確信いたしました」

 巴の様子からはふざけている感じは受けないし、今の話も本当なのだろう。
 巴が続ける。

「若の意識の拡散と収束、それに合わせて亜空世界が一気に拡大しました。いまこのときだけで、五度ほど。ここ最近一度も起こらなかったことが、若の修練直後に起こったのです」
「また川とか山ができたってのか!?」
「いえ、広くなっただけでございます。おそらく、新たな地形は若が新しい従者を得たときに成るのではないかと。これについてはあくまで推測ですが」
「……おいおい、本気で? じゃあおちおち弓を射ることもできないのかい」
「深く集中されなければ大丈夫なのでは? 原因は弓を射ることではなく、集中することなのですし」
「ってことは、こうして落ち着いてやるのが問題なのか。それも参ったなあ」
「それはいずれ対策を考えます……。より深刻なのは魔力量の方でございます」
「え?」

 亜空の拡大よりもまずいことなんてあるのか? 魔力量?

「現状の若の魔力ですと、我々クラスの存在と契約するのに一山いくらでできます。儂と契約したときにはご自身の魔力量の半分近くが必要だったのに、です」

 エ。

「いいですか? よく聞いてくだされ。若が現状有している魔力量は――」

 エエエエエ。

「――おそらく女神クラスです。いや下手をするとそれさえも超えている可能性があります」

 エエエエエエエエエエ!?
 女神クラスの魔力って何それ。神様にタメはれるくらいの魔力を持ってるわけ? 僕。
 せっかくある程度魔力を抑えられるようになったのに、これじゃあ隠すのマジきついってことになるじゃん! また負担増えるじゃん!
 やびゃあ! 仮面がどうとか言ってる次元を超えだした! そろそろ取ろうかなとか思ってたときに別の問題が持ち上がるとかどうすりゃいいの!?

「とにかく魔力は抑え込んでください。若の魔力を吸収しているドラウプニルは毎日交換しておくのが良いかと。ドワーフには防具を優先して作らせますので」

 最悪、吸収効果を最優先にした新作を出させる、と巴は付け加えた。

「いったい、どうしてこんなことに」
「これもおそらく、意識の拡散と収束が問題です。それをする度に若は死を経験し、そして生まれ変わるような状態になっていると想像できます。そのとき、魔力がゼロから一気に膨れ上がっているのではないかと。そのような奇跡的な事態において魔力の最大値が上昇した事象は数件ほど知っております」

 死んで、生き返ったから魔力も二人分ってこと? それを繰り返したから倍増倍増また倍増ってわけ? 何それ美味しくない。

「この亜空も――」

 まだ何かあるんかよ。

「事情が変わってきます。この仮定を信じ、儂がこれまで調査した情報と併せて考えると、若との契約で広くなった亜空を基礎にして、若が無意識に元の世界に似た可能性も」
「世界を、創造!?」
「若がいた元の世界に似た、というのは儂らの知らぬ物、ただし若の世界にある物がここに多く自生するから、という推論ではありますが」
「ややややや、それだけの証拠では何とも……」

 巴が空を見上げ、答える。

「ですな、だがここに浮かぶ星の並びも儂はまったく存ぜぬもの。これがもし若の知る夜空なら、この地は、亜空は、若の創造した世界である可能性が高まります。それならば、若と従者の間の契約によって亜空の姿が変わるのも頷ける。創造主に新たな従僕ができて、世界に法則が加わるということですから」

 夜空。
 うん、いや希望的な観測ではなく僕の知らない空のはずだ。そうだ、さすがに世界の創造なんてぶったまげたことを異世界ライフ数日目でやらかしたなんて信じたくないし。
 うむ、う、む、知らない、空だ。大丈夫だよな。星座とか。
 その辺はうといから北斗七星とかちっちゃいWとか砂時計みたいなのとか……。あと水瓶座と乙女座と双子座。これだけは形覚えてるんだ。

「北斗七星、カシオペア、オリ、オン」

 あ、あ、あ、あった!?
 それぞれの配置は滅茶苦茶だけど、そこかしこに知ってる星座がある! 季節を無視してるのがこれまたリアル!

「どうやら、星の配置にも見覚えがあるご様子で。謎が解けたというのは好ましいことですが、これは参りましたなあ」
「女神が関係してるとか?」
「ええ。あの神の気性からして、この事実を知れば、おそらく若の排除に動くでしょう。新たな世界を創り出せるほどの力を持った者を、自分の世界に置いておくとは考えにくいですし」

 だよな、あの女神ならきっとそうする。勇者さえ使いかねない。でもそんな形で、僕と同じく地球から連れてこられた勇者との出会いは僕の本意じゃない。絶対にない。嫌だ。初対面が僕を殺しに来たとき、倒しに来たときってのは避けたい。

「当面は隠すことにして対策を講じるとしましょう」

 的確な判断だな、この侍名探偵さんめ。
 魔力制御を完全にしてとにかく今は隠さねば。勇者との対立は本気で勘弁だ。
 しばらくは弓道もお休みしよう。そうなると、今日たくさん射ることができたのはせめてもの幸運?
 うん幸運だ。少なくとも今日この事実を知ったおかげでいきなりラスボスが同郷の人を連れて襲い掛かってくる危険が減ったんだし。
 プラス思考プラス思考。
 そうだ、レンブラントさんに薬剤関係の人を紹介してもらったら、すぐに学園都市へとう。
 ついでに学生生活でも送ってこようかな。アハ、アハハ、ハハ、ハ……。


     ◇◆ 巴 ◆◇


 亜空のはずれにある森の中。
 宴を中座したであろう我が主の気配を察知して、澪とこうして居場所を突き止めたものの――。
 これはいったい、どういうことなのじゃろう。
 弓を手に、若が着座しておる。
 意識は希薄で、今にも存在が霧散してしまいそうじゃ。普通に考えれば死の一歩手前のような状態。
 だが、若の様子から死の匂いは感じない。何という矛盾か。
 澪の奴がすぐに若のもとへ駆け寄ろうとするが、儂は腕を掴んで止める。
 澪が振り返り、鋭い目つきで儂を睨む。その瞳には激しい怒りの色が見え、腕にも力がこもっておる。
 ……此奴、本当に若が心配で仕方ないのじゃな。まあ、儂とてその気持ちは同じだが。
 儂が理由もなく引き留めているわけではないことを説明せねばな。

「案ずるな、澪。確かに意識は希薄じゃが、若からは死の匂いがせん。むしろ落ち着いておる」
「……」

 澪は無言のまま儂から目を離さない。が、納得してくれたようじゃ。腕の力も抜けておる。
 ……若の様子。自殺の兆候などはなかった。それどころか、商会のこれからについて精力的に動いておられた。とても死を考えている者の取る行動ではない。
 澪の見つけてきた花の件でも大層お喜びだった。
 若が立ち上がり、弓を構える。
 そんな儂らの目の前でそのトンデモ儀式は行われた。
 見ていて飽きぬ方だとは常日頃から思っていたが、今回という今回はそれどころではなかった。
 調査が進展しなかった問題、亜空の拡大がまさに、拡散していた若の意識が再び若に戻っていく瞬間に起こったのだ! そして目を開き、立ち上がった若が弓を構え、射る。これだけ時期が一致しているのだ、少なくとも直接的な原因の一つであることはまず間違いあるまい。
 同時に若は存在を明らかにしてそこに立ち、番えた矢は遠く離れた的に吸い込まれていった。一連の所作は見惚れるほどの美しさだった。若から矢、そして遠方の的へ流れるように目で追う。
 当たらぬとは露ほども思えなかった。若が静から動へと転じたとき、傍観者である儂でさえその結果を確信していた。尋常ではない。
 そして的から若へ視線を戻し、注意深く若の様子を窺った儂は、開いた口が塞がらなかった。
 これまでも十分に巨大だった若の魔力が、一気に跳ね上がっていた。
 魔力の最大値など、早々上がるものではない。一生をかけて生来の値の倍にきたえたのなら、その者は大魔導と呼ぶに相応しい存在だと思う。
 弓を構えて射る、その一連の中で魔力の最大値をあげたように見える。もちろん、そんな技など見たことも聞いたこともない。
 なるほどのう、こうやって魔力がどんどん増幅していったわけか。
 間近で見ることができて、そう確信できた。
 弓を下ろし、若が再度着座する。
 また、意識が薄らぐ。澪の顔が悲壮になる。
 立ち上がり、矢を射る。若の意識が再び元に戻っていく。
 そして、魔力がまた増えた。
 ――死と再生をこの短時間に繰り返しているとでもいうのか……。亜空は若が矢を放つたびに拡大している。
 亜空は、若の最大魔力に応じて広さが変わるというのか?
 では、儂が作る亜空とこの亜空世界は別物? ……もしやここは、契約によって若が無意識に世界!? 若と契約したあと、初めてここに足を踏み入れたときも本当に儂が作り出した空間かと思ったが……。どうやら、その感覚はあながち間違ってはおらんかったようじゃな。
 しかし、世界の創造など、この世界に存在する何者にもできぬわざじゃぞ?
 そう、何者にも、だ。かの女神ですらできぬ。
 女神はこの地に降り立ち、先住たるいくつかの存在、儂ら上位竜や、その頃いた強大な魔獣どもと話をし、この場に人の住める世界を創り上げた。自らとこの世界の間に契約を交わし、その上で多様な生物を生んだ。
 かく言う儂や他の上位竜種もその先住の一人、ちなみに澪も先住という意味ではそうじゃの。奴の場合は漂流者であり、偶然この地に居ただけであったが。
 そう、女神とて無から有を創り上げてはおらん。アレが最高位の神族でないことはわかるが、世界に降りて管理を行うのだ、それなりの格ではあろう。
 では我が主はいったい……。かの女神よりいくつかランクの高い行為を無意識で行ったというのか?
 独力で? それとも、主がこちらにくるときに力を与えたという神の力が関わっているのだろうか。記憶から確かめたことがあるが、そこらにいるような普通の神に見えたがのう。
 いかなる世界から来ようと元は人族。独力だろうと助力があろうと可能とは思えぬが。
 ……待てよ、もし世界についての推論が真実だったら、頼まれていた問題の調査がもう一つ終わるかもしれん。
 うむ、亜空の気候の不規則さ。儂の読み通りなら、解決方法も一つ、浮かぶ。
 いずれにせよ。
 我が主は何と興味深いことか。このまま意識の拡散と再構成を続ければ、創造神ほどの魔力にさえ届くヒト。何と馬鹿げた。
 尽きぬ。まこと興味の尽きぬ方だ。本当にこの方がたかだか百年くらいで死ぬのだろうか。信じられぬ。
 この短期間に、こと戦闘に関する部分では、異様なほど成長されておる。
 これならば万が一女神とことを構えることになっても心配いらないな。むしろ、有力な存在を幾人か従者としたあとなら勝利さえ叶うのではないか。
 神超え。勝利とはいえ、神殺しという言葉は何かしっくりとこん。
 若は女神を口汚くののしるが、純粋な憎悪と結びつくような殺意までは見えなかった。
 儂がただ、若が憎悪に囚われ殺戮さつりくに染まるお姿を見ていないから思い浮かばぬだけかもしれぬが、我が主が女神の返り血に染まり、その存在を滅びへ追いやる姿は想像できぬ。
 普通なら殺されても文句は言えない扱いをしておるものな。よりによって荒野に捨てるなど正気を疑う。
 よって神超え。神殺しではない行為の名を儂は浮かべた。
 どちらであっても禁断である言葉に思い至ったところで、空を見上げ何やら物思いにふけっている若に声をかけようと歩み寄ったのだった。
 商会の番頭でも亜空の調査役でも。この世界における便利な辞書扱いでも。
 何でもしようではないか。この素晴らしく危うい、果て見えぬ主のためならば。
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