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重なる音

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 ある時、いつものように奏一がロマンスのメロディを弾き込んでいると、ふいに気付いた。自分の音に、いやに心地よく、追従する低音がある。優しく手を引くように、そっと支えるベースラインだ。弾きながら音の主を探して振り返ると、向かいで奏一の視線に気づいた貴史と目があった。奏一がヴァイオリンを奏でる手を止めないで微笑むと、貴史もそれに応え、演奏を続けた。
 その瞬間に、奏一は言葉にできない幸福感を得た。「音楽をしている」という実感を、一瞬にして明確に悟った。音で語り合う、音でわかりあう、言葉の要らないこの関係性に、今までにない高揚を感じた。誰かと音を重ねることが、楽しい。今までだって音楽は好きだったし、楽しいと思うからこそ続けてきた。合奏して演奏に夢中になるほどの一体感も経験があった。
 しかし、今この瞬間の感動は、なんだろうか。
 言葉でない交わりが故に、言葉では説明できないのか。奏一は、気持ちよく弾き終えた満足感と興奮の片隅で、どこか冷静な自分が首をかしげるのを感じていた。
 楽器を下ろして改めて貴史に向き直ると、貴史は照れたように笑った。
「いや、急にごめんね。やっぱり、きみがあんまり気持ちよさそうに弾くから。僕も混ざりたくなってしまった」
 奏一は慌てて首を横に振る。
「とんでもない、逆にお礼を言いたくらいです。とても楽しかった。ありがとうございます。すごく、心地良く弾けた」
「よかった。僕も楽しかったよ、ありがとう」
 律儀に礼を返す貴史が、なんだかもどかしかった。絶対に、自分のほうが感謝している割合が大きいのになと、内心奏一は苦笑する。その気配を読んだのかどうか、貴史は弓の先で自分の頭を小突きながら苦笑した。
「実はね、あれからこっそり練習していたんだよ。ロマンスの、メロディ」
 え、と声には出さなかったが、驚きで目と口が丸くなったのが自分でわかった。貴史の苦笑が深くなる。
「でも、なにか、もの足りなった。たしかにいいメロディだよ。自分で弾いても、そう思う。だけど、なにか、もの足りなかったんだ」
 メロディを弾いて物足りないとは、低弦パートの職業病のようなものだろうか、と奏一は思い、だけどチェロはどちらかというとメロディ寄りじゃないか、と思いなおす。あれこれ考えていると、貴史がふいと顔を上げて、まっすぐに奏一を見上げた。
「今日きみがロマンスを弾くのを聴いていてね、あぁ、僕はきみが奏でるロマンスが好きなんだなって思った」
 そう告げる貴史は、溶けそうなほど柔らかい眼差しで笑っていた。きみの音が好きだと言われただけなのに、まるできみのことが好きだとでも言われたような衝撃を受けた。嬉しいとか気恥かしいとかいうささやかな感情を、驚きと照れが動揺となって吹き飛ばしていった。奏一は思わず目をそらす。
「そんな、真っ直ぐに言われると、さすがに照れますね」
「だけど、本当にそう思ったんだよ」
 貴史も、照れ隠し、というように左手を指板上で遊ばせながら呟いた。それからまた手を止め、奏一を見上げる。
「今日、伴奏してみて確信に変わったよ。僕は、きみのロマンスが聴きたい。……そして、できることなら」
 貴史が視線を落として言葉を切った。奏一は吸い寄せられるように貴史に向き直る。彼は言葉を選ぶようにゆっくりと間をおいて、やがて小さく頷いて顔を上げた。
「うん……できることならね、……ときどききみのロマンスを、聴かせてもらいたいな。それから、今日みたいに合わせられたら、僕はすごく幸せだと思う」
 奏一は、すぐには答えられなかった。頭の中が真っ白になる。彼の言葉が本当は嬉しいのに、思考力を奪われて返す言葉が出てこない。それでも貴史は急かすでもなく、微笑を携えて応えを待っていた。奏一はなんとか心を落ち着かせる。
「なんだか……もったいない言葉ばかりで……正直どきどきしています……でも、嬉しいですよ。あなたに、そう言ってもらえるのは。それで、ひとつ、付言しておきたいのですが」
「なにかな」
「あなたに合わせてもらって、心地よくて感動したのは俺の方です。だからむしろ、俺からお願いしたいくらいでした。あなたさえよければ、また、合わせてほしい。……俺も欲を言いうと、この曲を、完成させてみたくなりました。軽く合わせるのも楽しかったけれど、だけど、だからこそ、本気であなたとこの曲に向かい合えたら、それを完成させられたら、どこまでいけるのか。期待してしまって」
 言いながらしゃべりすぎたかなと苦笑する。貴史はしかし、微笑みを崩さずに安堵の息をついた。
「そうか……それなら、よかった。僕でよければ、ぜひきみと一緒に音楽してみたいと思っているよ。やってみようよ」
 真摯にそう言われて、奏一に断る理由などなかった。
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