好きだと言わずにいられない。

古城乃鸚哥

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始まりの音

きっかけ

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「その曲」
 奏一が部室で自分の世界に入り込んでいると、ふいに声をかけられて手を止めた。振り返るまでもなく、声をかけてきた相手は誰だかわかっていた。人の声を――とりわけ特徴的なその人の声を――聴き紛うはずもない。落ち着いたテノールが揺れる水面を思わせる、澄んだ声。幼少から耳を鍛えてきた自負のある奏一は、人の声を聞き分けるのが得意だ。
 予想通り、そこにいたのは貴史たかしだった。チェロを楽器ケースから取り出し、弦に松脂まつやにを塗りながら奏一に向かって微笑む。
「よく練習しているね。何かあるの?」
 言われて奏一は苦笑した。弾いていたのは、マックス・レーガー作曲の『ロマンス ト長調』。確かに、自分はオケ部に入る前からずっとこの曲を弾き続けている。だが練習しているのではない、ただ弾いているのだ。月に一、二度、できるだけ目立たないように他の音に紛れていたつもりだったのに、それを指摘されるとは。
 貴史は奏一の一学年上の三回生だ。先月無事に終了した定期演奏会で四回生が引退したので、現役最年長生である。おっとりした優腰の青年で、後輩の面倒見もいい彼は皆から慕われている。対する奏一の方は、所謂音楽の虫で、時間があれば部室にこもり楽器に触れている。人当たりを悪くしているつもりはないが、誰かの世話をするよりも、自分の技を磨くことのほうに熱心だった。
「メロディが、とても綺麗で。好きなんです、この曲」
 奏一が簡潔に答えると、貴史は頷く。
「確かに、いいメロディだね。甘いのにどこか切なくて、いいね。僕も、好きだ」
 好きだ、と言われて、奏一は心がほっと温かくなったのを感じた。彼のそういう「相手を受け容れる人柄」が羨ましいと奏一は思う。彼の奏でる音は、その内面を表すように柔らかで温かい音色だ。低弦仲間の真織まおりはもっと渋好みで、時折「インパクトがねぇな」とか「クールじゃねぇな」などと愚痴をこぼしている。そういう彼の音は、人一倍音量があって図太く、存在感があってロックだ。コントラバスの限界に挑むような音は確かに痺れるが、奏一は、楽器を丁寧に響かせている貴史の音の方が好みだった。
「自分が好きなものを、好きだと言ってもらえるのは、とても嬉しいですね。俺はあなたの音が好きだから、気が向いたら、あなたの音で『ロマンス』を聴かせてほしい」
 素直に思っていたことを口にすると、貴史は快く頷いてくれる。
「僕の音が好きだっていってくれるのも、嬉しいよ。弾けるようになったら、是非聴いてもらいたいな」
「楽しみにしていますね」
 そう、笑顔と言葉を交わす。そんな、他愛もないやりとりだった。ことの始まりは。
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