妻の味噌汁

芙月みひろ

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 その翌朝、いつもより早い時間に目が覚めた。鼻先に、懐かしいような、五感を刺激するような、いい匂いを感じたのだ。それは寝室にしている部屋の隣、台所から漂って来た。トントントン、と包丁で何かを刻んでいるような音もする。

 これは味噌汁か――。

 匂いにつられるようにもそもそと起き出し、私はそっと台所に続くふすまを開けた。途端に、どきりとした。ガスコンロの前に立つ後ろ姿は、見覚えのあるエプロンをしていた。
 妻の名を口にしそうになり、すぐに思いとどまる。そうだ、妻はもういないのだ。それならあの後ろ姿は妻のエプロンをした娘かと、自分の目の錯覚に苦笑する。

「おはよう」

 その背中に声をかけると、娘は驚いたような顔で振り向いた。

「わ、びっくりした。早いね。ご飯できたら起こそうと思ってたんだけど」
「いや、なんだか懐かしいような匂いがしたからね。味噌汁、作ってくれたのか」
「うん。なんか急に作りたくなってさ。お父さん、起きたんなら、顔洗って来なよ。もうすぐできるから、朝ご飯食べよう」
「おう、そうか。じゃあ、顔洗ってくるか」

 相変わらず食欲はあまりないが、せっかく娘が用意してくれているのだ。それに、誰かと一緒に朝餉を頂くのはずいぶんと久しぶりだ。
 洗顔を終えて居間に行くと、テーブルの上にはおかずが何品かと、温かな湯気のあがる飯、そして味噌汁が並んでいた。

「たいしたものはできなかったんだけどね」

 苦笑いを浮かべている娘に、私は首を横に振り礼を言った。

「いいや、十分だよ。どれ、早速いただくとしようか」

 まずは味噌汁に手を伸ばして一口すすった。久方ぶりに嗅いだ味噌汁の匂いとその味に、胸が詰まった。毎日妻が作ってくれた味噌汁とは別物だが、その汁を一口一口味わうごとに、少しずつではあるが、ずっと塞いでいた心が解けていくような気がした。最後の一口までを胃に入れて、私は深くて長い深呼吸をした。
 百箇日という区切りに、妻に似ているとよく言われていた娘が作ってくれた味噌汁。それを通して、妻から何かしらのメッセージが送られてきたような気がした。

 いつまでも悲しんでいないで、とでも言われているのかもしれないな――。

「お父さん、お代わりあるよ」

 娘が声をかけてよこす。

「自分でやるよ」

 鍋から味噌汁を椀に盛り付けながら、私は娘に言った。

「次に帰ってきた時には、父さんが味噌汁作ってやるな」

 初め娘は驚いたように目を見開いていたが、私の変化に気がついたらしく、安心したように表情を緩めて頷いた。

「楽しみにしてる」

 忘れられるはずのない、妻が作ってくれた味噌汁。それと同じ風味にはできないまでも、いくらかでも近づけられたらいい。
 そんな些細な目標を見つけた私は、ようやく無気力の沼から這い出すきっかけを得たのだった。


(了)
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