少年プリズン

まさみ

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九十一話

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 目と鼻の先で瀕死のゴキブリがもがいている。
 まるで今の僕のようだ、三人がかりで押さえ込まれて手も足も出せない状態の。
 「どうする?」
 「俺はどっちもでいいぜ」
 金髪の少年が下卑た声で笑い仲間たちも追従する。目にするもの耳にするもの、あらゆるものから急速に現実感が薄れてゆく。
 僕に見えているのは目の前のゴキブリだけ。
 耳に聞こえるのはカサカサと羽が触れ合う音だけ。
 これを食べろと言うのか?
 僕の目の前で裏返って茶褐色の腹を見せているのはゴキブリ、正確にはクロゴキブリ、学名Periplaneta fuliginosa ゴキブリ科。分布:全国 体長:30~35mm 特徴:本州では最も代表的な家屋性害虫種。ただし、南方ではコワモンゴキブリやトビイロゴキブリ等の方が優勢らしい。若齢幼体時は黒い体色で、中胸部全体や触覚の先端が白く、腹部にも一対の白い斑紋がある。成長とともに赤褐色になり、白い部分は目立たなくなる。成虫は全身黒褐色。いうまでもなく雑食性で……
 ちがう、そんなことは今関係ない。ゴキブリが雑食性かどうかなんて今この場に関係ない、大事なのはそう、ゴキブリは雑食性でも僕は違う、僕は人間だ、虫を食す習慣なんてない現代の日本人だ。アボリジニーは虫を食う、インドでは殻の中のひよこを煮殺して食べる料理がある。食は文化だ、だから虫を食べる種族がいてもゴキブリを食べる種族がいてもかまわない、それは彼らの習慣で文化だから。
 でも、僕はちがう。
 いなごの佃煮を例に挙げよう、いなごの佃煮とはバッタの仲間であるイナゴを利用した佃煮である。山形県の内陸部、群馬県、長野県など、海産物が少ない山間部を中心に多く食用とされた。いなご3匹分で鶏卵1個分の栄養があると伝えられ信じられている。他にもハチや蜂の子やざざむし、ゲンゴロウなどを佃煮として食べる地方がある。
 でも、僕の家があった世田谷にはそんな習慣はなかった。僕の家では虫の姿煮などという悪趣味な料理は食卓にのぼらなかった、もしそんな物が食卓にのぼったら母は卒倒して父は家政婦を解雇するだろう。
 どうする?
 ゴキブリを食べなければ選ぶ道はひとつしかない、考えるのもいやな、おぞましい提案だが、残る選択肢を選ぶしかない。ここに居る全員にリョウを含めていいのか疑問は残るが、とりあえず今ここにいるのは僕を除いて5人。奉仕の意味がわからないほど世間知らずじゃない、何を意味するかはちゃんとわかる。
 レイジやヨンイルがやったのと同じことだ。
 遅かれ早かれこういう事態に直面するだろうと予期していた、ある程度覚悟もあった。しかしいざ直面してみると動揺は大きい、いや、大きいどころではない。こうして後頭部を押さえ込まれている今も心臓が爆発しそうなほど鼓動が高鳴っている。以前、東京プリズンに来た初日に凱に強姦されかけたことがあった。あの時はサムライの介入で難を免れたがそう都合のいい偶然が続くはずもない、遅かれ早かれ挿入されるかくわえさせられる羽目になるだろうとは思っていたが……
 「はやく決めろよ」
 苛立たしげな声が思考に水をさす。顔を上げる。腕組みして僕を見下ろした少年が無造作に右腕を蹴りとばす。
 「!!!!!!」
 悶絶。
 思考が閃光に呑まれ、絶叫に近い悲鳴が喉から迸る。痛覚の存在を呪いたくなるような激痛が右腕に牙を立てる。芋虫のように身を捩って苦鳴をもらす僕からぎょっとしたように身を引き、金髪の少年があきれる。
 「コイツの痛がりよう大袈裟すぎやしねえか?」
 「腰抜けなんだろ」
 「ちょっと蹴られたくらいでよ」
 「派手に痛がって同情引こうって魂胆か」
 「けっ、日本人はヤルコトあざといな」
 悲鳴に驚いた仲間が口々に賛同の声をあげる。中でひとり、リョウだけが妙な顔をしていた。金髪の少年を押しのけて僕の傍らに回りこみ、おもむろに袖をめくり上げる。
 低いどよめき。
 「うわ痛そう」
 「でけえ痣」
 「何されたらこんな痣ができるんだ?」
 「シャベルか何かじゃねえか」
 押さえ込まれた位置からでは見えないが、外気に触れた右腕が寒々しく、全身に鳥肌が立った。はやく飽きてほしい一刻も早く終わってくれ、こんな馬鹿げた真似は―
 「!!っあ、あぐ、あ」
 脊髄反射で体が反り返る。
 不自由な体勢から首を捻れば目にとびこんできたのはおぞましい光景。
 リョウが嬉嬉とした様子で僕の右腕を踏みにじっていた。痣の上から。
 「痛い?」
 無邪気に聞く。頷いたつもりはないが、悲鳴を噛み殺すために唇を噛み締めたせいで自然に顎が上下する。それを都合よく受け取ったのだろう、リョウがさらに調子に乗り、足に体重をかけて踏みこむ。
 「もっと痛い?」
 皮膚がねじれ、歪み、ひきつれ、僕が生まれてからこれまで体験したこともないような激痛を生み出してくる。痛痛痛激痛苦痛摩擦熱骨軋音捻、絶叫。
 スッと足が離れ、右腕から重しが取り除かれる。
 叫びすぎて喉が枯れた。指を動かす気力も尽きた。右腕は焼き鏝を押し付けられたようにズキズキ疼いている。骨に異常はないだろうか?肩で息をしながら突っ伏した僕の目の前にリョウの顔が出現する。
 「やっぱり。苦痛に歪むきみの顔、すごく色っぽい」
 リョウは笑っていた。
 その笑顔を見た瞬間、理解した。リョウは他人の苦痛に欲情する種類の人間なのだ。 
 「あ、意外と睫毛長いんだ。普段はメガネに隠れててわかんなかった」と呑気に呟いてるリョウの背後に金髪の少年が歩み寄る。彼もまた人が悶え苦しむ姿に性的興奮をおぼえるタチらしくズボンの股間が勃起しているのが目に入った。
 ………見たくなかった。
 「決まったか?」
 答えられない。
 「まだか?」
 一気に不機嫌になる。顔を上げられない。顔を上げる気力もない。髪の毛をぐいと掴まれ、無理矢理顔を起こされる。
 「メガネくんはゴキブリを食べたいそうだよ?」
 「じゃあ手伝ってやる」
 そんなことは一言も言ってない。
 反駁する間も与えられずに後頭部に圧力が加えられる。抗おうとした。無駄。無力。背骨を突っ張り、顎を水平に保とうと努力したが、後頭部全体を掴まれて一気に押し下げられる。
 目の前でカサカサうごめいているのは茶褐色のゴキブリ。
 節くれだった脚、まるくふくらんだ腹部、一対の触覚――――――――繊毛の生えた脚がはっきりと肉眼で識別できる距離にせま、
 
 嫌だ。

 食べたくないこんな物食べたくない冗談じゃない喉を通るわけがない噛み砕けるわけがない口にいれられるわけがない!!

 何かが切れた。
 「………る、から」
 プツリと音をたてて。
 「なんだって?よく聞こえねえなあ」
 耳に手をあてた金髪の少年がわざとらしく繰り返す。 
 生きてるゴキブリを食べるくらいなら、
 「なんだ?」
 「ちゃんと言えよ」
 「声に出して言えよ」
 「口きけるんだろ」
 「ちゃんと声に出せよ」
 生きてるゴキブリを咀嚼して飲み下すくらいなら。
 「しゃぶるから…………」
 貴様ら低脳どもの粗末な持ち物をしゃぶったほうがマシだ。
 金髪の少年が溜飲をさげたような顔をする。僕を押さえこんだ少年たちが興奮に上気した顔を見合わせる。
 僕の選択はまちがってない。
 ゴキブリを食べるよりフェラチオのほうがマシだ。レイジとヨンイルにできたことが僕にできないはずはない、目を閉じて口を動かしてればすぐ終わる。そうだ、きっとそうだ、ゴキブリを食べるより百倍マシではないか。
 「じゃあさっそく」
 金髪の少年が何か言いたげに顎をしゃくる。何?何をさせたいんだ?
 「脱がせろよ」
 「………………………………………………は?」
 まさか、下着をおろす段から僕にやらせる気か?この低脳は。   
 「何か不満でもあんのか」
 「ゴキブリ食いたいのか?」
 野次がとぶ。震える手をズボンにかけ、躊躇する。唾を呑む。心臓の鼓動が高鳴る。すぐに終わる、目を閉じてればすぐに終わる。こんなことはなんでもない、たいしたことじゃない、東京プリズンじゃたいしたことじゃない。レイジもヨンイルもやったんだ、彼ら凡人にできたことが天才の僕にできないはずはない。
 震える手を裾にもぐらせ、ズボンを下げおろす。下着も同時に。
 「はやくしろよ」
 準備は整った。あとはくわえるだけだ。しかし、決心がつかない。
 口を開いては閉じ、開いてはまた閉じる。そのくりかえし。全身の肌が粟立っている。嫌な汗。不整脈?違う、動悸だ。耳の裏側で響く心臓の鼓動、頭蓋の裏側で響くのは間延びした呼吸音。
 赤黒く勃起した性器の醜悪さに体が拒絶反応を起こし脳裏に言葉が氾濫する。今からどうしてもこんな物を口に含まなければいけないのか?こんな不潔で醜悪で巨大な物を口に含まなければいけないのか?
 お断りだ。
 「洗ってこい」
 「は?」
 踝まで引きずりおろしたズボンに手をかけたままうずくまっている僕を見下ろし、少年が首を傾げる。
 「洗ってこいと言ったんだ」
 僕は冷静だった。
 激痛が薄れ、恐怖が去り、頭の片隅で休眠していた理性が活動を再開する。コンクリ床に膝をついた僕はきょとんとしてる少年を挑むように見上げる。
 「聞こえなかったのか?その不潔で醜悪な性器を水で洗浄してこいと言ったんだ、今すぐにただちに。性器を口に含むのはいい、目を閉じてればすぐに終わるだろう。同性相手に口腔性交の経験はないが十代の少年が射精にかかる時間は統計学的に見て平均5分らしい。きみたちは5人だから計25分、僕の顎は疲れるがそれだけだ、あとでよくうがいすれば済む話だ。だけど垢と汗と老廃物にまみれた不潔な性器を順番に口に含むのは我慢できない、最低三十回以上洗ってこい、そこに水も流れている」
 僕は至極当たり前のことを言っただけで、何故彼らが怒るのか理解できない。
 「このクソメガネ…………」
 金髪の少年に後頭部を掴まれる。頭蓋骨が砕けそうな握力に顔をしかめる。
 「何が不満なんだ?」
 この低脳は。
 「全部だ」
 短く答えた少年が頭を押し込む。鼻先に迫るゴキブリ。
 「!」
 反射的な動作で身悶えし、肘でゴキブリを突き飛ばす。突き飛ばされたゴキブリは目の前の水路に落ち瞬く間に流されていた。安堵に胸撫で下ろしたのも束の間、後頭部におかれた手の向きが変更。水路の方へと顔を導かれ―
 
 わかった。彼が何をするつもりなのか。

 水音。
 喉に逆流してくる水、肺から押し出された酸素がおびただしい泡となり水面で弾け目の前が暗く翳る。息ができない、苦しい、脳に酸素が届かず頭が働かない。苦しい、恵、めぐみ―――――――
 後頭部の頭髪を掴まれ、顔を持ち上げられる。
 はげしく咳をして気管に流れ込んだ水を吐き出す。喉が焼けるようだ。上体を突っ伏して咳き込む僕をにやにやしながら覗きこんでいる少年たち、その中にはリョウも混ざっている。
 リョウの笑顔を見た途端、この上なく正当な抗議をしたくなった。
 「メガネくらい外させろ」
 リョウと少年らが顔を見合わせる。
 「どうやら懲りてないみたい」
 「しぶてえな」
 「しばらくやりゃ折れるだろ」
 「メガネの気も変わるだろ」
 「次は何分?三分、五分?」
 「五分だな」
 金髪の少年が顎をしゃくる。ふたたび僕の背中に跨った仲間が後頭部を掴み水の中へと突っこむ。視界からリョウの顔が消え、金髪の顔が消え、仲間の顔が消え――――暗闇。無数の泡。ごぼごぼと空気の漏れる不明瞭な音だけが耳の奥にこだまする。
 肺が焼ける。喉が焼ける。頭の芯が朦朧とし、意識が急速に薄れてゆく。
 酸素が漏れるのを防ごうと唇を噛み締めたが無駄だった。肺から汲み上げられた二酸化炭素が透明な泡となって口から漏れてゆく。
 溺死。
 僕はこんな寒いところで死ぬのか、こんな寒くて薄暗いところで死ぬのか。
 恵に謝ることもできず、サムライに謝ることもできず――――
 そうだサムライ。
 サムライは僕の本当の名前も知らない、僕は何もサムライに伝えてない。
 嫌だ。ここで死ぬのはいやだ。
 僕はまだ何も伝えてない、伝えたいことを伝えてない。サムライを知ろうとすることばかりに夢中になって自分が知らせたいことを忘れていた、僕にも知らせたいことがあるという単純な事実から目を逸らし続けてきた。
 このまま死ぬのはいやだ。
 僕はサムライの本名を呼んだこともない、サムライに下の名前を呼ばれたこともない。 
 今わかった。僕はずっと『なえ』が羨ましかったんだ。
 顔も知らない、どんなひとかもわからない。だが、『なえ』はサムライに名前を呼ばれた。『なえ』はサムライの本当の名前を知っていた。
 
 僕も名前で呼んで欲しかった。
 スグルでもおにいちゃんでもない、僕の名前で…………

 「!!がほっ、げほがほっ」
 拘束が解けた。
 溺れる寸前、全身の力を振り絞り、顔を引き抜く。背中が軽い、さっきまで僕の背中を押さえ込んでいた少年が放心したようにあらぬ方向を見ている。否、よく見れば僕以外の全員が同じ方向を凝視している。
 咳き込みながら同じ方向を見る。
 下水道の奥。
 ちょうど僕がおりてきたマンホールの下にひとりの男が立っている。
 頭上から射しこんだランプの光が燃え盛る業火の中を歩んでいるかの如く男の姿を照らし出す。
 真紅のランプに半身を染め抜かれ、衣擦れの音も殆どなく、潰れたスニーカーを履きこなして僕らの前に現れたのは――
 
 木刀を腰にさしたサムライだった。
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