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百八十四話
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鍵屋崎はどこだ?
遠く会場の歓声が潮騒のように満ち引きをくり返す。
会場の盛り上がりは最高潮に達してる。対戦カードはサムライ対凱の子分で、今現在どっちが優勢かはこの目で見なきゃ断言できないが、木刀を失ったサムライがやすやす勝てるほどヤンもロンチウも生易しい相手じゃないのは確か。右手が使えなくても何とか勝てた今までの連中とはワケがちがう、相手はあの凱の子分、東棟最大勢力を誇る中国系派閥で実力でのしあがった二人だ。
木刀を握りゃ無敵のサムライも、木刀がなけりゃ普通よりちょっと強いだけの男だ。
一刻も早く鍵屋崎を見つけ出して木刀を取り返さなくてはサムライが負けてしまう。レイジの馬鹿は馬鹿でサムライが窮地に陥っても指一本動かさないだろうし、鍵屋崎は凱にとっつかまって身動きできねえ状態みたいだし、大袈裟に言やサムライが勝つも負けるも俺ひとりの肩に乗っかってる。
ペア戦100人抜きなるか否かの命運は全部俺に賭かってるんだ。
畜生、なんで俺ばかりこんな目に。
俺はいつも損な目ばかり見てる、だれかの尻拭いばかりしてる。根がお節介だからしなくていい苦労をしょいこむんだとよく人から言われるし自分でもわかっちゃいるが、考えるより先に体が動いちまう性分はどうしようもねえ。凱もレイジもサムライも鍵屋崎も全員に腹が立つ、東京プリズン入所当初から凱はしつこく俺に絡んでくるしレイジは本に夢中で相棒手助けしねえしサムライは頑固だし、鍵屋崎に至ってはひょいひょい尻軽に拉致されすぎだ。以前監視塔でも二人そろって手錠につながれたことあったけど、あのバカ天才は自称天才なくせに学習能力がさっぱりない。猿でもできる反省ができないなんて猿以下だ。
やつを見つけ出したら「次からもうちょっと警戒心もてよ」と襟首掴んで説教してやりたい。
よし、そうしよう。
くそ、走りっぱなしで胸が苦しい。全身の血がたぎって心臓が爆発しそうだ。凱が頼んでもねえのに恩着せがましく教えてくれたヒントとやらじゃ、鍵屋崎はこの地下停留場の「どこか」にいるらしい。
「どこか」?どこだよそりゃ。
そんな漠然としたヒントあてになるかってんだ。地下停留場はだだっ広い。試合会場の地下空間はもとより、地下停留場に繋がる通路だって何本あるんだか正確にはわからない。東西南北各棟から下りのエレベーターが到着する通路に蜘蛛の巣張った行き止まりの通路にそれからそれから……駄目だ、頭がこんがらがってきた。東京プリズンのひどく地理は込み入っていてムショ暮らしが長い囚人でもたまに迷子になるのに、入所一年半の俺がひとり歩きなんて無謀な試みするもんじゃない。
とりあえず片っ端から通路という通路を行ったり来たりしてみたが、鍵屋崎はおろか人っ子ひとりいやしない。囚人はみんな試合会場に集結して、こんな薄暗い通路をうろうろしてる物好きは俺以外にいない。
「鍵屋崎、どこにいんだよ!?」
廊下に叫び声がこだまする。
コンクリートの壁と天井にこだました声が殷殷と鼓膜に染みてゆく。
返事がない、ここもハズレか?待て、もっとよく探してみよう。俺はそそっかしいから何か見落としてるかもしれない。ついこないだタジマが五十嵐を脅してた階段の踊り場に駆け上がろうとし、疲労で足が縺れて段から滑りそうになる。
危ね!ぐらりと体が傾いたその瞬間、反射的に手摺にしがみつく。
辛くも転落は免れた。そのまましばらく手摺に凭れ掛かり、全力疾走で乱れに乱れまくった呼吸を整える。肺が破けそうだ、苦しくて死にそうだ。後生だから休ませてほしい、と弱音を吐きたくなるのをぐっと堪えて奥歯に力をこめる。弱気になったら負けだ、愚痴をこぼしてる暇あるなら足を動かせ。走れ、走れ、とにかく走れ。そして鍵屋崎を見つけだせ、このだだっ広い、通路一本一本を含めりゃ気が遠くなるほど込み入った地下空間のどこかに必ずいる鍵屋崎を見つけだせ。
「……にしても、だいぶ鈍ってるな」
ちょっと本気出して走っただけで喘息のような息切れ、額には大粒の汗。東京プリズンに来てからすっかり体が鈍っちまった。外じゃチーム同士の抗争ではでに暴れて毎日警官に追われたけおかげで逃げ足が鍛えられたし、毎日生傷絶えずに喧嘩してたから並以上の体力と運動神経はあるんだが……反射神経と瞬発力には自信があるが持久力がないのが最大の難点か。イエローワークを抜けてから日が経つし、酷暑の砂漠で一日何百回もシャベルを上げ下げしてた頃と比べても体力が落ちてると認めざるをえない。
俺も男だから鉄みたいな腹筋に憧れるが、もともと筋肉のつきにくい体質なのかいつまでたっても腹筋が六つに割れてこない。レイジに言ったら馬鹿にされるから口にはださないがちょっと劣等感も抱いてる。
レイジの場合、過不足なく引き締まった理想的な体つきをしてる。豹のように精悍な体つきは筋骨の逞しさよりセクシーな柔軟性を感じさせ、その一挙手一投足が申し分ないしなやかさと美しさを兼ね備えてる。
レイジならきっと、100メートル全力疾走したところで息切れひとつしないだろう。
そう考えたらむかついてきた。レイジへの怒りに突き動かされ、二段飛ばしで階段を駆け上がる。
「鍵屋崎、隠れてねえで出てこいっ」
一気に踊り場まで駆け上がり、薄暗がりをさまよいつつ鍵屋崎の名を呼ぶ。
返事なし。
舌打ちとともに踵を返した瞬間、顔面に粘着質の網が覆い被さってくる。
「!?うわっ、」
蜘蛛の巣だ。
顔面に貼り付いた蜘蛛の巣を払いのけ、粘ついた感触が残る顔をごしごし擦る。くそ、蜘蛛の巣ごときにびびって情けねえ。こんなとこでもたついてる場合じゃねえってのに。自分の間抜けさに腹を立て、後ろも振りかえらずに階段を駆け下りる。
これまで見て回った場所は全部はずれだ。
まだ見て回ってない通路は半分以上……指折り数えただけで眩暈に襲われる。片っ端から通路を行ったり来たりして鍵屋崎さがして声張り上げてみたが捜索範囲が広すぎて効果がない。鍵屋崎がいる通路だけでも絞りこめないものだろうか?地下停留場も駆けずりまわってみたが鍵屋崎はいなかった。凱が鍵屋崎を拉致って試合終了まで隠しておくとしたら、試合中は人けのない通路のどれかに決まってる。
鍵屋崎の居場所に見当つけようと頭を働かせ、俺に頭脳労働は向いてないと悟る。慣れないことはするもんじゃない、ますますこんがらがっちまったじゃねえか。普段使い慣れない頭を働かせたせいで動悸息切れに頭痛までしてきた。
こうなりゃヤケだ。考えてる暇があったら走れ、がむしゃらに走れ。
隅から隅まで走ってりゃいつかはきっと鍵屋崎が見つかるはずだ。問題はそのいつかがいつになるかで、サムライの試合中に間に合わなけりゃすべてがパァだ。
よし。
大きく深呼吸し、肺に酸素をとりこむ。出走。加速。破れ鐘のような心臓の鼓動が耳裏に響き、目に流れこんだ汗で視界が滲む。通路から通路へ、階段から階段へ、隅から隅へ。駆けあがり駆け下り突っ走り引き返しまた戻り、延々それを繰り返してるうちに方向感覚と距離感が狂って自分の現在位置さえ混乱してわからなくなる。
「鍵屋崎、いるなら返事しろ!」
通路を行きつ戻りつ、大声で叫ぶ。反応なし。ふと視界の端を掠めたのは白いドア。
もしかしたら。
期待と不安とを抱いてドアを開け放ち、中へとびこむ。光沢あるタイル張りの床をスニーカーのゴム底で踏み鳴らし、周囲を見まわす。だれもいない。いや、まだ決め付けるのは早い。手近のドアを開け放ち、中を覗きこむ。いない。次のドア。ここにもいない。次の次、そのまた次へとドアを乱暴に開け放って中を改めてみたがどれも無人。それでも諦めきれず、タイルの床に片膝ついて便器の中を覗きこむ。
「……俺は馬鹿か、こんなとこにいるわきゃねえっつの」
だいたいどうやって便器の中に隠れんだよ、え?
トイレの個室を片っ端から改めて、便器の中まで確認したのにさっぱり手応えも手がかりもなくて、俺はもうヤケになって片足に体重をかけてペダルを踏みこんだ。勢い良い水流の便器に背を向け、憤懣叩きつけるように扉を閉じる。
トイレもはずれ、階段もはずれ。
あと残ってるのは……どこだ?
そうだ。あそこだ。
なんで今まで気付かなかったんだ?いや、気付かないふりをしてたのか。確かにあそこにはいい思い出がないしできることなら近付きたくなかった、でも今は緊急事態だ、えり好みしてられない。
全力疾走でトイレを飛び出し、ただ前だけ見て廊下をひた走る。
あそこへの道順は覚えてる、以前ホセをトイレに案内した道順を逆に辿ればいい。この角を右に、左に、この道をまっすぐ……もうすぐだ。
「よう半半、頑張ってるか」
三番目の角を曲がろうとして、突然声をかけられた。
反射的にそちらを向けば、下劣なツラに吐き気がするほど見覚えあるガキが三人、にやにや笑いながら通路の壁に凭れ掛かっていた。群れて吠えるしか能がない凱の子分どもだ。
待ち伏せされた?先回りされた?
「……てことは、この道が正解か。迷路の出口教えてくれて謝謝」
どうやら俺の勘は正しかったらしい。この先に鍵屋崎がいるのは間違いない、じゃなきゃ前もって俺の通過点を予測して待ち伏せするような卑劣な真似できるわけない。
「泣かせるねえ、お友達のためにそんなに息切れするまで頑張ってよ」
「どうせ負けちまうのにな、サムライは」
「今サムライとヤってんのは悪名高い残虐兄弟だ」
「血のつながった実の兄弟で、娑婆じゃふたりで組んで何十人って女犯してきた婦女暴行魔のコンビだ。チームワーク抜群のユエマオにサムライ風情が勝てるわけねえよ」
「刀がねえんじゃなおさらだ」
「言いたいことはそれだけか」
こいつらの相手をしてる暇はない。
でかい図体で通路に広がって俺を通せんぼした連中をきっと睨み付ける。
「とっととそこをどけ。今俺は無茶苦茶機嫌が悪い、どかないと叩きのめすぞ」
脅しではなく本心だった。
もう少しで鍵屋崎に辿り着けるのに、木刀を取り戻せるのに、性懲りもなく凱の子分に絡まれて時間食ってサムライの試合に間に合わなくなったら俺は絶対に自分が許せない。体の奥底でちりちりと闘争心が燻り始める。長らく忘れていた指先に静電気が走るような感覚、こめかみの血管が熱く疼いて視界が赤く染まる憤怒。この感じ、この高揚感こそ俺がさんざん娑婆で慣れ親しみ、体の細胞の隅々まで馴染んだ感覚。
池袋のチームにいた頃はいつもこうだった。
いつだれに背後から鉄パイプで襲撃されるかわからない敵味方入り乱れた修羅場で、殴って蹴って頭突いて足払いかけて転ばせて、目に砂利が入ろうが全身泥だらけになろうが体のあちこちが擦りむけようが、自分の身がどうなろうが構わずに、目の前に立ち塞がる敵にがむしゃらにつっかかっていった記憶がよみがえり、好戦的な衝動に血が騒ぐ。
「どかないと叩きのめす?お前、だれにむかって口きいてんだ」
案の定、俺に宣戦布告されたガキが不快感をあらわにする。血の汚れた半半よか中国人の自分のが各段に偉いんだぞ、と奢り高ぶった傲慢な面構えだった。
「凱さんにやられっぱなしでびくついてたガキが、本人いないとこじゃよく吠えるもんだな」
「レイジに贔屓されて調子のってんじゃねえか?」
「はは、言えてら。教えてくれよ半半、どうやって王様たらしこんだんだ?アレでもくわえてやったのか、ケツでも貸してやったのか」
悪意渦巻く揶揄と嘲笑に晒され、恥辱で頬が熱くなる。拳を握り締めて通路に立ち尽くす俺を等間隔に取り囲んだガキどもがねちねちと絡んでくる。
「ケツ貸す相手間違えたんだよ、おまえは」
「最初から凱さんにケツ貸してりゃ良かったんだ。100人抜きなんて大きく出ても達成できなきゃ意味ねえだろうが、レイジがいくら化け物じみて強くたって二対百なんて無茶すぎだ」
「今からでも遅くねえ、俺たち全員のモノしゃぶってから凱さんのモノしゃぶれば仲間にいれてやっても……、」
くどいと評判の鍵屋崎の言いまわしを真似てみよう。
右側のガキが馴れ馴れしく肩に手を置いたその瞬間に、俺は「虫唾が走る」の定義を身をもって味わうことになった。
「お断りだ」
「!!?ひっででてっ、」
ガキの手に手を重ね握手で親愛の表現、と見せかけておもいきり手首をひねりあげる。容赦はしなかった、容赦したら負けるのが喧嘩の鉄則だ。痛い痛いと訴えるガキの手首を雑巾絞りの要領でひねりあげ、皮膚が赤く変色すると同時に解放する。
「こいつ…………、」
雑巾絞りされた手首に吐息を吹きかけ、激痛に潤んだ目でこっちを睨むガキ。包囲の輪が威圧的に狭まり、嵐の暴威の如く険悪な雰囲気が吹き付けてくる。蛍光灯が点滅する薄暗い廊下、俺たち四人以外には人けがなく、通行人もいない。ここで俺が殺されても試合終了まで気付かれもしないと断言できる。凱の子分どもは俺を殺す気満々らしく、憤怒に目をぎらつかせ、興奮に鼻息荒くして歩を詰める。
蛍光灯が消えるか、何かほんのちょっとしたきっかけで均衡が崩れりゃ途端に俺にとびかかってくるだろう。
上等だ。そんなにヤりたきゃヤってやる。
「そんなにしゃぶってほしけりゃ仲間同士で股間舐め合ってろよ。凱の犬なら犬らしくお互いのケツの匂いでも嗅いでろ」
きっかけは俺の挑発だった。
「半半のくせに舐めた口ききやがって!!」
殴り合いの喧嘩はずいぶんと久しぶりだが、チームの抗争で何度となく修羅場をくぐりぬけた日々の習性はまだ抜けてないらしく、顔面めがけて迫り来たこぶしにもとっさに対応できた。スッ、と首を傾げてこぶしをかわし、その場に屈みこんで足払いをかける。
面食らったのは俺をつかまえようと背後で両手を広げた別のガキで、眼前でいきなり俺が消失した次の瞬間には、足払いですっ転んだガキが頭から突っ込んでって廊下に尻餅ついた。
こいつら動きが鈍い。
三人とも図体がでかいから腕力じゃかなわないが、反射神経とすばしっこさじゃ俺が勝ってる。体格差で有利なガキ三人相手に勝つにはスピードで翻弄して体力を消耗させ、ばててきたところで急所に一発。これがいちばんラクで賢いやり方だ。
俺はまえに喧嘩が好きじゃないと言ったが、それでもやっぱり血が騒ぐ。これまでさんざん凱の子分どもにいたぶられてきた不満と鬱憤を爆発させ、お返しとばかりに暴れ回りおもいきり体を動かすのは滅茶苦茶気持ちがいい。全身の血が燃え滾る高揚感もだれかをぶん殴る爽快感もここしばらく忘れていた。
「―!っが、」
……て、言ってるそばから腹に蹴りをもらった。
激痛に目が眩んだ。スニーカーのつま先で鳩尾を抉られちゃたまらない。片腕で腹を押さえ、額に脂汗を滲ませ一歩二歩あとじさる。引くな、引いたら負けだ、隙を見せるんじゃない。脳裏の警鐘に促され、鳩尾の痛みを堪えて腕をどけ、砕けそうな膝を叱咤して足腰を踏ん張る。
腹筋が痛くて、深呼吸で痛みを散らすこともできない。
弱みを見せるな、喧嘩じゃ弱みを見せたほうが負けだ。瞼を閉じ、今一度涙腺を締めなおす。目を開けて見下ろせば囚人服の腹にはくっきりと靴跡がついていた。
ひりひり疼く鳩尾から顔を上げた途端、
「よそ見すんなよ!」
と奇声を発して突っ込んできたガキがひとり、ふたり、さんにん……三人?
『所有的人!?』
全員かよ!?
こいつらの辞書には正々堂々って載ってないのかよ、三人がかりなんて卑怯すぎていっそ笑えてくる。一人で三人を相手どるのはやっぱ無茶だったか、あのサムライだって一人で実質二人を相手どって苦戦してるのに、そこそこ喧嘩が強いだけが取り柄の俺が勝てるわけ―……
壁際に追い詰められた俺の頭上で寿命間近らしい蛍光灯が不規則に瞬く。長い間手入れされてないらしく、蛍光灯の笠には埃が積もって蜘蛛の巣が張っていた。
蜘蛛の巣?
その手があったか、と脳裏で必勝法が閃く。絶体絶命、壁を背にした俺めがけ、三人団子状になったガキがこぶしを振り上げ意味不明の雄叫びを撒き散らして突進。
先頭のガキが嬉々と顔を輝かせ、快哉を叫ぶ。
「とどめだ!!」
「どうだかな!」
素早く後ろを向き、力一杯壁を蹴りつける。壁の震動が天井に伝わり、不規則に瞬いていた蛍光灯の明かりがふっつり消え、狭苦しい通路がすっぽりと闇に覆われる。
「ぶわっ!」
「な、なんだこれ気持ちわりい、顔がねばねばするっ」
俺の予感は的中した。
寿命間近の蛍光灯に衝撃を与えてとどめをさし、視界を暗くする。通路が突然暗くなって、俺の場所がわからなくなったガキどもは動揺する。その上に舞い落ちたのは蛍光灯にかかってた蜘蛛の巣だが、暗闇でその正体がわからない連中はますます混乱する。顔にへばりついた蜘蛛の巣をとろうと躍起になってる連中は、右も左もわからない暗闇で同じ地点から身動きとれない。一方俺は暗闇に響く声から敵の位置が把握できる、奴らが騒げば騒ぐほど俺にとっちゃ好都合だ。
今だ。
勢い良く床を蹴り跳躍、一気に距離を稼ぎ暗闇で敵に肉薄。接近を勘付かれるまえに相手の鳩尾に蹴りを入れ、その隣のガキをぶん殴る。
暗闇に目が慣れてきたらしく、最後の一人がこっちに気付いた。
「あ、」
なにか言いかけたその鼻っ柱に渾身のこぶしを叩きこむ。たしかな手応えとともにぬるりとした液体がこぶしをぬらしたのは、いい具合に顔面にこぶしが入ってガキが鼻血を噴いたからだ。鼻骨は折れてないと思うが暗闇じゃ確証は持てない。まあ死んでないだけマシだ。床にうつ伏せた三人を身軽に飛び越え、通路の先をめざして走りながら苦汁を飲みこむ。
こんな勝ち方は本意じゃない。正々堂々殴り合って勝てるものならそうしたかったが、今は時間がない。やむをえない状況とはいえ、停電の暗闇で動けなくなった敵に勝っても素直に喜べない。
後味の悪さを吹っ切れずに通路を走り、遂に目指す場所に辿り着いた。
ペア戦開幕日に俺がタジマに連れ込まれたボイラー室だ。
鍵屋崎の居場所と聞いてまず真っ先にボイラー室を連想しなかった自分の馬鹿さ加減がいやになる。鍵屋崎を閉じ込めておくならこれほどふさわしい場所もない。ボイラー室に用がある囚人なんているわきゃないし、このあたりには必然人けがない。人に知られたくないいかがわしいことするにはぴったりの場所だ。
無意識にボイラー室を避けてたのは言うまでもなくこないだの一件が原因で、タジマに関係する場所には今もできるだけ近付きたくないのが本音だがいざ仕方ない。タジマの気配が残っていようがいやな思い出しかなかろうが、鍵屋崎がいるなら助けてやらなければ。
そう決意してボイラー室へと歩み寄り、ドアのそばの人影に目を細める。
「五十嵐?」
びっくりして声を上げてしまった。それもかなり大きな声を。
俺に気付いた五十嵐がゆっくりとこっちを向く。気のせいか疲れた顔をしていた。
「なんでこんなとこにいるんだよ」
「……ちょっと、地下停留場の人ごみで気分が悪くなってな。頭冷やしにきてたんだ。ここならほかに人目ねえしゲロ吐いてもばれねえだろ」
「汚ねえこと言うなよ」
でも、待てよ。五十嵐がここにいるということは、俺の推理は外れか?
俺はてっきりボイラー室に鍵屋崎がいるものと思いこんでたけど、もし仮に五十嵐がずっとボイラー室前にいたんなら中の異変に気付かないはずがない。
「なあ、ちょっと聞きたいんだけど。いつからここにいた?」
「かなり前から」
「かなり前って」
慎重に問い詰めれば、腕時計に目をやった五十嵐が曖昧に答える。
「そうだな、三十分くらい」
「そのあいだなんか変わったことなかったか」
「……いや、なんにも。どうしてそんなこと聞くんだよ」
「たいしたことじゃねーよ」
いや、たいしたことあるけどさ。
「ボイラー室に用か?念の為教えとくが、ボイラー室にゃ勝手に出入りできないよう鍵かかってるぞ」
「え?だってこのまえは……」
「このまえ?」
やばい。慌てて口を噤む。五十嵐の不審の眼差しに顔を俯け、口の中だけでタジマを罵倒する。タジマのくそったれが、立ち入り禁止のボイラー室の鍵わざわざ持ち出してまで俺連れこんだのか。でも待てよ、ボイラー室の鍵を持ち出せるのが看守だけなら囚人の凱はボイラー室に入れない、鍵屋崎をボイラー室に入れることもできない。五十嵐も「自分がここにいたあいだ何も変わったことは起きなかった」って証言したし、実際中から聞こえてくるのは低いモーター音だけだし……
「……またはずれか」
がっくりした。
一気に疲労感が募った。ボイラー室に鍵屋崎がいないなら他にどこを捜せばいいかさっぱりわからないし、捜索は完全に行き詰まった。三人殴り倒して体力浪費して馬鹿みたいだ。棒のような足を引きずり、今来た通路をとぼとぼ引き返そうとして……
「ん?」
足元の床一面に水溜りができていた。
「どうした?」
背後の五十嵐が声をかけてくる。返事を返そうとして、ある疑惑が芽生えて口を閉ざす。コンクリート剥き出しの天井にも壁にも水漏れの痕跡はない。この水はどこから流れてきたんだろう、と不審に思いながら目で辿ればボイラー室のドアにぶちあたった。
ボイラー室のドアの下から、じわじわと水が滲み出してくる。
おかしい。
怪訝そうな五十嵐と床の水溜りとを見比べ、いやな胸騒ぎをおぼえる。
『そうだな、三十分くらい』
『そのあいだなんか変わったことなかったか』
『……いや、なんにも。どうしてそんなこと聞くんだよ』
あの不自然な間はなんだ?
五十嵐はこの床一面の水溜りに気付かなかったのか?床一面の水溜りに靴を浸して突っ立っていながらなにもおかしなことはなかったと、全然異変に気付かなかったとそう証言したのか?
変だ。
まさか、五十嵐が嘘をついてる?
その可能性に思い当たると同時に、俺はボイラー室のドアを力一杯拳で殴り付けていた。
「鍵屋崎、いるのか!」
「おい、どうしたんだよ!?」
狼狽した五十嵐が俺の肩を掴んでドアからひっぺがそうとするのを無視、狂ったようにドアを叩く。ドアの下からはどんどん水が溢れてきて今や廊下の広範囲が水浸しの状態だ。一面の水溜りにスニーカーを浸し、こぶしが痛くなるまでドアの表面を乱打しながら、不吉な予感が次第に現実味を帯びてゆく沈黙に耐える。
おかしい。鍵屋崎が中にいるならなんで返事をしない?
鍵屋崎の身に何か起きてるのか?
「鍵屋崎、返事をしろ!!」
遠く会場の歓声が潮騒のように満ち引きをくり返す。
会場の盛り上がりは最高潮に達してる。対戦カードはサムライ対凱の子分で、今現在どっちが優勢かはこの目で見なきゃ断言できないが、木刀を失ったサムライがやすやす勝てるほどヤンもロンチウも生易しい相手じゃないのは確か。右手が使えなくても何とか勝てた今までの連中とはワケがちがう、相手はあの凱の子分、東棟最大勢力を誇る中国系派閥で実力でのしあがった二人だ。
木刀を握りゃ無敵のサムライも、木刀がなけりゃ普通よりちょっと強いだけの男だ。
一刻も早く鍵屋崎を見つけ出して木刀を取り返さなくてはサムライが負けてしまう。レイジの馬鹿は馬鹿でサムライが窮地に陥っても指一本動かさないだろうし、鍵屋崎は凱にとっつかまって身動きできねえ状態みたいだし、大袈裟に言やサムライが勝つも負けるも俺ひとりの肩に乗っかってる。
ペア戦100人抜きなるか否かの命運は全部俺に賭かってるんだ。
畜生、なんで俺ばかりこんな目に。
俺はいつも損な目ばかり見てる、だれかの尻拭いばかりしてる。根がお節介だからしなくていい苦労をしょいこむんだとよく人から言われるし自分でもわかっちゃいるが、考えるより先に体が動いちまう性分はどうしようもねえ。凱もレイジもサムライも鍵屋崎も全員に腹が立つ、東京プリズン入所当初から凱はしつこく俺に絡んでくるしレイジは本に夢中で相棒手助けしねえしサムライは頑固だし、鍵屋崎に至ってはひょいひょい尻軽に拉致されすぎだ。以前監視塔でも二人そろって手錠につながれたことあったけど、あのバカ天才は自称天才なくせに学習能力がさっぱりない。猿でもできる反省ができないなんて猿以下だ。
やつを見つけ出したら「次からもうちょっと警戒心もてよ」と襟首掴んで説教してやりたい。
よし、そうしよう。
くそ、走りっぱなしで胸が苦しい。全身の血がたぎって心臓が爆発しそうだ。凱が頼んでもねえのに恩着せがましく教えてくれたヒントとやらじゃ、鍵屋崎はこの地下停留場の「どこか」にいるらしい。
「どこか」?どこだよそりゃ。
そんな漠然としたヒントあてになるかってんだ。地下停留場はだだっ広い。試合会場の地下空間はもとより、地下停留場に繋がる通路だって何本あるんだか正確にはわからない。東西南北各棟から下りのエレベーターが到着する通路に蜘蛛の巣張った行き止まりの通路にそれからそれから……駄目だ、頭がこんがらがってきた。東京プリズンのひどく地理は込み入っていてムショ暮らしが長い囚人でもたまに迷子になるのに、入所一年半の俺がひとり歩きなんて無謀な試みするもんじゃない。
とりあえず片っ端から通路という通路を行ったり来たりしてみたが、鍵屋崎はおろか人っ子ひとりいやしない。囚人はみんな試合会場に集結して、こんな薄暗い通路をうろうろしてる物好きは俺以外にいない。
「鍵屋崎、どこにいんだよ!?」
廊下に叫び声がこだまする。
コンクリートの壁と天井にこだました声が殷殷と鼓膜に染みてゆく。
返事がない、ここもハズレか?待て、もっとよく探してみよう。俺はそそっかしいから何か見落としてるかもしれない。ついこないだタジマが五十嵐を脅してた階段の踊り場に駆け上がろうとし、疲労で足が縺れて段から滑りそうになる。
危ね!ぐらりと体が傾いたその瞬間、反射的に手摺にしがみつく。
辛くも転落は免れた。そのまましばらく手摺に凭れ掛かり、全力疾走で乱れに乱れまくった呼吸を整える。肺が破けそうだ、苦しくて死にそうだ。後生だから休ませてほしい、と弱音を吐きたくなるのをぐっと堪えて奥歯に力をこめる。弱気になったら負けだ、愚痴をこぼしてる暇あるなら足を動かせ。走れ、走れ、とにかく走れ。そして鍵屋崎を見つけだせ、このだだっ広い、通路一本一本を含めりゃ気が遠くなるほど込み入った地下空間のどこかに必ずいる鍵屋崎を見つけだせ。
「……にしても、だいぶ鈍ってるな」
ちょっと本気出して走っただけで喘息のような息切れ、額には大粒の汗。東京プリズンに来てからすっかり体が鈍っちまった。外じゃチーム同士の抗争ではでに暴れて毎日警官に追われたけおかげで逃げ足が鍛えられたし、毎日生傷絶えずに喧嘩してたから並以上の体力と運動神経はあるんだが……反射神経と瞬発力には自信があるが持久力がないのが最大の難点か。イエローワークを抜けてから日が経つし、酷暑の砂漠で一日何百回もシャベルを上げ下げしてた頃と比べても体力が落ちてると認めざるをえない。
俺も男だから鉄みたいな腹筋に憧れるが、もともと筋肉のつきにくい体質なのかいつまでたっても腹筋が六つに割れてこない。レイジに言ったら馬鹿にされるから口にはださないがちょっと劣等感も抱いてる。
レイジの場合、過不足なく引き締まった理想的な体つきをしてる。豹のように精悍な体つきは筋骨の逞しさよりセクシーな柔軟性を感じさせ、その一挙手一投足が申し分ないしなやかさと美しさを兼ね備えてる。
レイジならきっと、100メートル全力疾走したところで息切れひとつしないだろう。
そう考えたらむかついてきた。レイジへの怒りに突き動かされ、二段飛ばしで階段を駆け上がる。
「鍵屋崎、隠れてねえで出てこいっ」
一気に踊り場まで駆け上がり、薄暗がりをさまよいつつ鍵屋崎の名を呼ぶ。
返事なし。
舌打ちとともに踵を返した瞬間、顔面に粘着質の網が覆い被さってくる。
「!?うわっ、」
蜘蛛の巣だ。
顔面に貼り付いた蜘蛛の巣を払いのけ、粘ついた感触が残る顔をごしごし擦る。くそ、蜘蛛の巣ごときにびびって情けねえ。こんなとこでもたついてる場合じゃねえってのに。自分の間抜けさに腹を立て、後ろも振りかえらずに階段を駆け下りる。
これまで見て回った場所は全部はずれだ。
まだ見て回ってない通路は半分以上……指折り数えただけで眩暈に襲われる。片っ端から通路を行ったり来たりして鍵屋崎さがして声張り上げてみたが捜索範囲が広すぎて効果がない。鍵屋崎がいる通路だけでも絞りこめないものだろうか?地下停留場も駆けずりまわってみたが鍵屋崎はいなかった。凱が鍵屋崎を拉致って試合終了まで隠しておくとしたら、試合中は人けのない通路のどれかに決まってる。
鍵屋崎の居場所に見当つけようと頭を働かせ、俺に頭脳労働は向いてないと悟る。慣れないことはするもんじゃない、ますますこんがらがっちまったじゃねえか。普段使い慣れない頭を働かせたせいで動悸息切れに頭痛までしてきた。
こうなりゃヤケだ。考えてる暇があったら走れ、がむしゃらに走れ。
隅から隅まで走ってりゃいつかはきっと鍵屋崎が見つかるはずだ。問題はそのいつかがいつになるかで、サムライの試合中に間に合わなけりゃすべてがパァだ。
よし。
大きく深呼吸し、肺に酸素をとりこむ。出走。加速。破れ鐘のような心臓の鼓動が耳裏に響き、目に流れこんだ汗で視界が滲む。通路から通路へ、階段から階段へ、隅から隅へ。駆けあがり駆け下り突っ走り引き返しまた戻り、延々それを繰り返してるうちに方向感覚と距離感が狂って自分の現在位置さえ混乱してわからなくなる。
「鍵屋崎、いるなら返事しろ!」
通路を行きつ戻りつ、大声で叫ぶ。反応なし。ふと視界の端を掠めたのは白いドア。
もしかしたら。
期待と不安とを抱いてドアを開け放ち、中へとびこむ。光沢あるタイル張りの床をスニーカーのゴム底で踏み鳴らし、周囲を見まわす。だれもいない。いや、まだ決め付けるのは早い。手近のドアを開け放ち、中を覗きこむ。いない。次のドア。ここにもいない。次の次、そのまた次へとドアを乱暴に開け放って中を改めてみたがどれも無人。それでも諦めきれず、タイルの床に片膝ついて便器の中を覗きこむ。
「……俺は馬鹿か、こんなとこにいるわきゃねえっつの」
だいたいどうやって便器の中に隠れんだよ、え?
トイレの個室を片っ端から改めて、便器の中まで確認したのにさっぱり手応えも手がかりもなくて、俺はもうヤケになって片足に体重をかけてペダルを踏みこんだ。勢い良い水流の便器に背を向け、憤懣叩きつけるように扉を閉じる。
トイレもはずれ、階段もはずれ。
あと残ってるのは……どこだ?
そうだ。あそこだ。
なんで今まで気付かなかったんだ?いや、気付かないふりをしてたのか。確かにあそこにはいい思い出がないしできることなら近付きたくなかった、でも今は緊急事態だ、えり好みしてられない。
全力疾走でトイレを飛び出し、ただ前だけ見て廊下をひた走る。
あそこへの道順は覚えてる、以前ホセをトイレに案内した道順を逆に辿ればいい。この角を右に、左に、この道をまっすぐ……もうすぐだ。
「よう半半、頑張ってるか」
三番目の角を曲がろうとして、突然声をかけられた。
反射的にそちらを向けば、下劣なツラに吐き気がするほど見覚えあるガキが三人、にやにや笑いながら通路の壁に凭れ掛かっていた。群れて吠えるしか能がない凱の子分どもだ。
待ち伏せされた?先回りされた?
「……てことは、この道が正解か。迷路の出口教えてくれて謝謝」
どうやら俺の勘は正しかったらしい。この先に鍵屋崎がいるのは間違いない、じゃなきゃ前もって俺の通過点を予測して待ち伏せするような卑劣な真似できるわけない。
「泣かせるねえ、お友達のためにそんなに息切れするまで頑張ってよ」
「どうせ負けちまうのにな、サムライは」
「今サムライとヤってんのは悪名高い残虐兄弟だ」
「血のつながった実の兄弟で、娑婆じゃふたりで組んで何十人って女犯してきた婦女暴行魔のコンビだ。チームワーク抜群のユエマオにサムライ風情が勝てるわけねえよ」
「刀がねえんじゃなおさらだ」
「言いたいことはそれだけか」
こいつらの相手をしてる暇はない。
でかい図体で通路に広がって俺を通せんぼした連中をきっと睨み付ける。
「とっととそこをどけ。今俺は無茶苦茶機嫌が悪い、どかないと叩きのめすぞ」
脅しではなく本心だった。
もう少しで鍵屋崎に辿り着けるのに、木刀を取り戻せるのに、性懲りもなく凱の子分に絡まれて時間食ってサムライの試合に間に合わなくなったら俺は絶対に自分が許せない。体の奥底でちりちりと闘争心が燻り始める。長らく忘れていた指先に静電気が走るような感覚、こめかみの血管が熱く疼いて視界が赤く染まる憤怒。この感じ、この高揚感こそ俺がさんざん娑婆で慣れ親しみ、体の細胞の隅々まで馴染んだ感覚。
池袋のチームにいた頃はいつもこうだった。
いつだれに背後から鉄パイプで襲撃されるかわからない敵味方入り乱れた修羅場で、殴って蹴って頭突いて足払いかけて転ばせて、目に砂利が入ろうが全身泥だらけになろうが体のあちこちが擦りむけようが、自分の身がどうなろうが構わずに、目の前に立ち塞がる敵にがむしゃらにつっかかっていった記憶がよみがえり、好戦的な衝動に血が騒ぐ。
「どかないと叩きのめす?お前、だれにむかって口きいてんだ」
案の定、俺に宣戦布告されたガキが不快感をあらわにする。血の汚れた半半よか中国人の自分のが各段に偉いんだぞ、と奢り高ぶった傲慢な面構えだった。
「凱さんにやられっぱなしでびくついてたガキが、本人いないとこじゃよく吠えるもんだな」
「レイジに贔屓されて調子のってんじゃねえか?」
「はは、言えてら。教えてくれよ半半、どうやって王様たらしこんだんだ?アレでもくわえてやったのか、ケツでも貸してやったのか」
悪意渦巻く揶揄と嘲笑に晒され、恥辱で頬が熱くなる。拳を握り締めて通路に立ち尽くす俺を等間隔に取り囲んだガキどもがねちねちと絡んでくる。
「ケツ貸す相手間違えたんだよ、おまえは」
「最初から凱さんにケツ貸してりゃ良かったんだ。100人抜きなんて大きく出ても達成できなきゃ意味ねえだろうが、レイジがいくら化け物じみて強くたって二対百なんて無茶すぎだ」
「今からでも遅くねえ、俺たち全員のモノしゃぶってから凱さんのモノしゃぶれば仲間にいれてやっても……、」
くどいと評判の鍵屋崎の言いまわしを真似てみよう。
右側のガキが馴れ馴れしく肩に手を置いたその瞬間に、俺は「虫唾が走る」の定義を身をもって味わうことになった。
「お断りだ」
「!!?ひっででてっ、」
ガキの手に手を重ね握手で親愛の表現、と見せかけておもいきり手首をひねりあげる。容赦はしなかった、容赦したら負けるのが喧嘩の鉄則だ。痛い痛いと訴えるガキの手首を雑巾絞りの要領でひねりあげ、皮膚が赤く変色すると同時に解放する。
「こいつ…………、」
雑巾絞りされた手首に吐息を吹きかけ、激痛に潤んだ目でこっちを睨むガキ。包囲の輪が威圧的に狭まり、嵐の暴威の如く険悪な雰囲気が吹き付けてくる。蛍光灯が点滅する薄暗い廊下、俺たち四人以外には人けがなく、通行人もいない。ここで俺が殺されても試合終了まで気付かれもしないと断言できる。凱の子分どもは俺を殺す気満々らしく、憤怒に目をぎらつかせ、興奮に鼻息荒くして歩を詰める。
蛍光灯が消えるか、何かほんのちょっとしたきっかけで均衡が崩れりゃ途端に俺にとびかかってくるだろう。
上等だ。そんなにヤりたきゃヤってやる。
「そんなにしゃぶってほしけりゃ仲間同士で股間舐め合ってろよ。凱の犬なら犬らしくお互いのケツの匂いでも嗅いでろ」
きっかけは俺の挑発だった。
「半半のくせに舐めた口ききやがって!!」
殴り合いの喧嘩はずいぶんと久しぶりだが、チームの抗争で何度となく修羅場をくぐりぬけた日々の習性はまだ抜けてないらしく、顔面めがけて迫り来たこぶしにもとっさに対応できた。スッ、と首を傾げてこぶしをかわし、その場に屈みこんで足払いをかける。
面食らったのは俺をつかまえようと背後で両手を広げた別のガキで、眼前でいきなり俺が消失した次の瞬間には、足払いですっ転んだガキが頭から突っ込んでって廊下に尻餅ついた。
こいつら動きが鈍い。
三人とも図体がでかいから腕力じゃかなわないが、反射神経とすばしっこさじゃ俺が勝ってる。体格差で有利なガキ三人相手に勝つにはスピードで翻弄して体力を消耗させ、ばててきたところで急所に一発。これがいちばんラクで賢いやり方だ。
俺はまえに喧嘩が好きじゃないと言ったが、それでもやっぱり血が騒ぐ。これまでさんざん凱の子分どもにいたぶられてきた不満と鬱憤を爆発させ、お返しとばかりに暴れ回りおもいきり体を動かすのは滅茶苦茶気持ちがいい。全身の血が燃え滾る高揚感もだれかをぶん殴る爽快感もここしばらく忘れていた。
「―!っが、」
……て、言ってるそばから腹に蹴りをもらった。
激痛に目が眩んだ。スニーカーのつま先で鳩尾を抉られちゃたまらない。片腕で腹を押さえ、額に脂汗を滲ませ一歩二歩あとじさる。引くな、引いたら負けだ、隙を見せるんじゃない。脳裏の警鐘に促され、鳩尾の痛みを堪えて腕をどけ、砕けそうな膝を叱咤して足腰を踏ん張る。
腹筋が痛くて、深呼吸で痛みを散らすこともできない。
弱みを見せるな、喧嘩じゃ弱みを見せたほうが負けだ。瞼を閉じ、今一度涙腺を締めなおす。目を開けて見下ろせば囚人服の腹にはくっきりと靴跡がついていた。
ひりひり疼く鳩尾から顔を上げた途端、
「よそ見すんなよ!」
と奇声を発して突っ込んできたガキがひとり、ふたり、さんにん……三人?
『所有的人!?』
全員かよ!?
こいつらの辞書には正々堂々って載ってないのかよ、三人がかりなんて卑怯すぎていっそ笑えてくる。一人で三人を相手どるのはやっぱ無茶だったか、あのサムライだって一人で実質二人を相手どって苦戦してるのに、そこそこ喧嘩が強いだけが取り柄の俺が勝てるわけ―……
壁際に追い詰められた俺の頭上で寿命間近らしい蛍光灯が不規則に瞬く。長い間手入れされてないらしく、蛍光灯の笠には埃が積もって蜘蛛の巣が張っていた。
蜘蛛の巣?
その手があったか、と脳裏で必勝法が閃く。絶体絶命、壁を背にした俺めがけ、三人団子状になったガキがこぶしを振り上げ意味不明の雄叫びを撒き散らして突進。
先頭のガキが嬉々と顔を輝かせ、快哉を叫ぶ。
「とどめだ!!」
「どうだかな!」
素早く後ろを向き、力一杯壁を蹴りつける。壁の震動が天井に伝わり、不規則に瞬いていた蛍光灯の明かりがふっつり消え、狭苦しい通路がすっぽりと闇に覆われる。
「ぶわっ!」
「な、なんだこれ気持ちわりい、顔がねばねばするっ」
俺の予感は的中した。
寿命間近の蛍光灯に衝撃を与えてとどめをさし、視界を暗くする。通路が突然暗くなって、俺の場所がわからなくなったガキどもは動揺する。その上に舞い落ちたのは蛍光灯にかかってた蜘蛛の巣だが、暗闇でその正体がわからない連中はますます混乱する。顔にへばりついた蜘蛛の巣をとろうと躍起になってる連中は、右も左もわからない暗闇で同じ地点から身動きとれない。一方俺は暗闇に響く声から敵の位置が把握できる、奴らが騒げば騒ぐほど俺にとっちゃ好都合だ。
今だ。
勢い良く床を蹴り跳躍、一気に距離を稼ぎ暗闇で敵に肉薄。接近を勘付かれるまえに相手の鳩尾に蹴りを入れ、その隣のガキをぶん殴る。
暗闇に目が慣れてきたらしく、最後の一人がこっちに気付いた。
「あ、」
なにか言いかけたその鼻っ柱に渾身のこぶしを叩きこむ。たしかな手応えとともにぬるりとした液体がこぶしをぬらしたのは、いい具合に顔面にこぶしが入ってガキが鼻血を噴いたからだ。鼻骨は折れてないと思うが暗闇じゃ確証は持てない。まあ死んでないだけマシだ。床にうつ伏せた三人を身軽に飛び越え、通路の先をめざして走りながら苦汁を飲みこむ。
こんな勝ち方は本意じゃない。正々堂々殴り合って勝てるものならそうしたかったが、今は時間がない。やむをえない状況とはいえ、停電の暗闇で動けなくなった敵に勝っても素直に喜べない。
後味の悪さを吹っ切れずに通路を走り、遂に目指す場所に辿り着いた。
ペア戦開幕日に俺がタジマに連れ込まれたボイラー室だ。
鍵屋崎の居場所と聞いてまず真っ先にボイラー室を連想しなかった自分の馬鹿さ加減がいやになる。鍵屋崎を閉じ込めておくならこれほどふさわしい場所もない。ボイラー室に用がある囚人なんているわきゃないし、このあたりには必然人けがない。人に知られたくないいかがわしいことするにはぴったりの場所だ。
無意識にボイラー室を避けてたのは言うまでもなくこないだの一件が原因で、タジマに関係する場所には今もできるだけ近付きたくないのが本音だがいざ仕方ない。タジマの気配が残っていようがいやな思い出しかなかろうが、鍵屋崎がいるなら助けてやらなければ。
そう決意してボイラー室へと歩み寄り、ドアのそばの人影に目を細める。
「五十嵐?」
びっくりして声を上げてしまった。それもかなり大きな声を。
俺に気付いた五十嵐がゆっくりとこっちを向く。気のせいか疲れた顔をしていた。
「なんでこんなとこにいるんだよ」
「……ちょっと、地下停留場の人ごみで気分が悪くなってな。頭冷やしにきてたんだ。ここならほかに人目ねえしゲロ吐いてもばれねえだろ」
「汚ねえこと言うなよ」
でも、待てよ。五十嵐がここにいるということは、俺の推理は外れか?
俺はてっきりボイラー室に鍵屋崎がいるものと思いこんでたけど、もし仮に五十嵐がずっとボイラー室前にいたんなら中の異変に気付かないはずがない。
「なあ、ちょっと聞きたいんだけど。いつからここにいた?」
「かなり前から」
「かなり前って」
慎重に問い詰めれば、腕時計に目をやった五十嵐が曖昧に答える。
「そうだな、三十分くらい」
「そのあいだなんか変わったことなかったか」
「……いや、なんにも。どうしてそんなこと聞くんだよ」
「たいしたことじゃねーよ」
いや、たいしたことあるけどさ。
「ボイラー室に用か?念の為教えとくが、ボイラー室にゃ勝手に出入りできないよう鍵かかってるぞ」
「え?だってこのまえは……」
「このまえ?」
やばい。慌てて口を噤む。五十嵐の不審の眼差しに顔を俯け、口の中だけでタジマを罵倒する。タジマのくそったれが、立ち入り禁止のボイラー室の鍵わざわざ持ち出してまで俺連れこんだのか。でも待てよ、ボイラー室の鍵を持ち出せるのが看守だけなら囚人の凱はボイラー室に入れない、鍵屋崎をボイラー室に入れることもできない。五十嵐も「自分がここにいたあいだ何も変わったことは起きなかった」って証言したし、実際中から聞こえてくるのは低いモーター音だけだし……
「……またはずれか」
がっくりした。
一気に疲労感が募った。ボイラー室に鍵屋崎がいないなら他にどこを捜せばいいかさっぱりわからないし、捜索は完全に行き詰まった。三人殴り倒して体力浪費して馬鹿みたいだ。棒のような足を引きずり、今来た通路をとぼとぼ引き返そうとして……
「ん?」
足元の床一面に水溜りができていた。
「どうした?」
背後の五十嵐が声をかけてくる。返事を返そうとして、ある疑惑が芽生えて口を閉ざす。コンクリート剥き出しの天井にも壁にも水漏れの痕跡はない。この水はどこから流れてきたんだろう、と不審に思いながら目で辿ればボイラー室のドアにぶちあたった。
ボイラー室のドアの下から、じわじわと水が滲み出してくる。
おかしい。
怪訝そうな五十嵐と床の水溜りとを見比べ、いやな胸騒ぎをおぼえる。
『そうだな、三十分くらい』
『そのあいだなんか変わったことなかったか』
『……いや、なんにも。どうしてそんなこと聞くんだよ』
あの不自然な間はなんだ?
五十嵐はこの床一面の水溜りに気付かなかったのか?床一面の水溜りに靴を浸して突っ立っていながらなにもおかしなことはなかったと、全然異変に気付かなかったとそう証言したのか?
変だ。
まさか、五十嵐が嘘をついてる?
その可能性に思い当たると同時に、俺はボイラー室のドアを力一杯拳で殴り付けていた。
「鍵屋崎、いるのか!」
「おい、どうしたんだよ!?」
狼狽した五十嵐が俺の肩を掴んでドアからひっぺがそうとするのを無視、狂ったようにドアを叩く。ドアの下からはどんどん水が溢れてきて今や廊下の広範囲が水浸しの状態だ。一面の水溜りにスニーカーを浸し、こぶしが痛くなるまでドアの表面を乱打しながら、不吉な予感が次第に現実味を帯びてゆく沈黙に耐える。
おかしい。鍵屋崎が中にいるならなんで返事をしない?
鍵屋崎の身に何か起きてるのか?
「鍵屋崎、返事をしろ!!」
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