少年プリズン

まさみ

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二百五十三話

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 ああ。
 こいつ、こんなふうに笑えるんじゃねえか。
 レイジの胸は熱かった。呼吸を整える間、上着越しの心音がひどくうるさかった。レイジの腕の中で俺はうなだれていた。ようやく母親に出会えた迷子のガキの心境、なんて言ったらおかしいだろうか。今の安堵感をどう表現すればいいだろう、どう表現すれば伝わるだろう。背中に回されたレイジの腕のぬくもりに包まれて、俺は嗚咽を堪えるのに必死で喉の奥から変な喘鳴が漏れた。レイジの胸にしがみつき、腕に身を委ね、体と体がひとつに溶け合うような不思議な安らぎにひたる。
 「心配させんじゃねえよ」
 レイジの腕の中で肩を上下させながら恨み言を吐く。
 「顔見せずになにやってんだよ。見舞いくらいこいよ」
 「悪ィ」
 「薄情者、尻軽、無節操、女たらし、お調子者。レイジ、お前なんか大嫌いだ。人の気も知らずいっつもへらへら笑いやがって、とか思えばふらりとどっか行っちまうし、どこまで本気で冗談かわかんなくて振りまわされるこっちの身になってみろよ。怪我人心配させんじゃねえこの人でなし」
 「悪ィ」
 お前がそばにいなくて不安で。
 「胸が痛くて痛くて満足に呼吸もできなかった。肋骨折ったからじゃなくて、お前のことが心配で、ずっと胸の調子がおかしかったんだよ。そのへたっくそな鼻歌聞けなくてろくに眠れなくて、しまいにゃ空耳まで聞こえてきて、俺おかしくなっちまったんじゃねえかってさんざん悩んだんだ。で、久しぶりにツラ見りゃそんなぼろぼろの血だらけでお前どこまで俺に心配かけさせる気だよ?」
 「悪ィ」
 お前がそばにいなくて寂しくて。
 「くそったれ、死ね。お前のツラ見たら唾吐きかけてやろうって心に決めてた。さんざん俺のこと振りまわしたくせに見舞いにもこねえで、一方的に別れ告げておしまいにしてなんだよそりゃ。あんな縁の切り方納得できねえよ、俺の気持ち無視して勝手に話進めやがってよ。そりゃ俺も悪かったよ、お前にひどいこと言ってあんなツラさせて……覚えてるか?お前あん時ひどいツラしたんだ。俺に安全ピンでひっかかれて、怪物みてえに遠ざけられてショックだったろ。殺さないでくれの一言が物凄いショックだったんだろ。じゃあ罵ってくれよ、無理して笑って平気なフリすんじゃねえよ。あんな痛い笑顔見たくなかった、あんな顔されるよか口汚く罵られたほうがずっとマシだった」
 今でも思い出す、夢に見る。俺に拒絶されたレイジの顔、絶望が焼き付いた目。足元から世界が崩壊してゆくような喪失感に自我を呑まれ笑顔が空洞になったレイジ。
 「罵ってくれてよかったんだ、なにすんだこの恩知らず、安全ピン人の手ぶっ刺してとんでもねえヤツだって怒ってくれりゃよかったんだ。むかついたろ?傷付いたろ?なら我慢すんなよ」
 「我慢するよ。俺が本気だしたらお前死ぬ」
 なだめるように俺の肩に手をおいたレイジが苦笑する。
 そんなレイジを見かねて吐き捨てる。
 「お前がそばにいなくなるくらいなら、殺されかけたほうがずっとマシだ」
 レイジがいなくて寂しかった。寂しくて寂しくて気が狂いそうだった。俺は今までずっと独りで生きてきた、他人を信用せず信頼せずひとりで突っ張って生きてきたつもりだった。人に寄りかからず生きてきたことが俺の短い人生のささやかな自慢で、それはここに来てからも変わらなくて、レイジの優しさに甘えることにずっと抵抗を感じてた。  
 でも俺は、ずっとレイジに救われていたのだ。
 生まれて初めてできた俺のダチ。初めて俺に優しくしてくれた他人。俺の頑張りを認めて誉めてくれる人間。レイジがずっとそばにいてくれたから、俺は東京プリズンで生き抜いてこれた。レイジの背中に庇われてばかりでなにもできない無力な自分が情けなくて、いつか絶対レイジを見返してやるってむきになってたのも事実だけど、俺は心のどこかでレイジに依存してた。レイジと一緒にいることに安らぎと喜びを感じ、いつのまにかすっかりレイジのペースにはまってた。
 皺が寄るほど上着の胸を掴み、鼻水を啜り上げる。くそ、情けねえ。俺の涙腺はゆるみっぱなしだ。レイジと会えたってのに泣くことあるかよ。レイジのツラ見た途端に緊張の糸が切れて、足が萎えて、吸いこまれるようにレイジの胸に倒れこんじまった。不覚だ。
 「泣き虫ロンちゃんめ。俺がいなくて寂しかったか」
 揶揄が耳朶をくすぐる。親愛の情が滲んだ甘い囁き声に反感がもたげ、上着の胸でおもいきり洟をかむ。
 「思いあがるな、寂しくなんかねえよ。自信過剰も大概にしやがれ」
 「俺は」
 上着の胸から顔を起こし、緩慢にレイジを見上げる。鼻水がこびりついた胸元にもいやな顔ひとつせず、レイジは俺の肩を抱いていた。愛情が枯渇した人間がだれかを抱きしめることで自分を抱きしめてるような抱擁だった。
 レイジはこうやって、ずっと自分を抱きしめてきたんだろう。
 ひとりが心細いのはだれもおなじだ。誰も抱きしめてくれないなら自分で自分を抱きしめるしかないと人間は本能でわかっている。二の腕を抱きしめ、膝を折り、胎児のように身を縮めて、ガキの頃のレイジは暗い部屋の片隅にじっとうずくまっていた。泣けど喚けどけして開かない鉄扉を空虚な瞳で見据え、糞尿垂れ流しの暗闇でひとり膝を抱えていた。
 俺もおなじだ。
 暗い部屋の片隅で膝を抱えお袋の情事が終わるのをひたすら待っていたのは俺もおなじなのだ。擦りむいた肘を舐め、寝台が軋む音もはしたない嬌声も日常の雑音として聞き流し、諦念を宿した卑屈な目つきで闇を見据える俺。
 レイジと俺は、どこも違わない。
 それをようやく思い出した。
 暗闇でひとり膝を抱えたガキの気持ちが、俺には痛いほどよくわかる。
 「寂しかったよ。お前がいなくて死ぬほど寂しかった。寂しくて寂しくて気が狂っちまいそうだった。はは、ざまあねえな。敵を騙す前にはまず味方からって言うけど悪役にもなりきれないんじゃ王様失格だ。格好悪ィな。俺もうお前とはなれて生きてけない体みたいだ。これでも頑張ってたんだ、一生懸命自分に言い聞かせて我慢したんだ。ロンと会ったら駄目にしちまうからもうこれでおしまいにしようって、お前が寝てるあいだにきっぱり別れ告げてすっぱり姿消そうって心に決めて」
 「勝手に決めんな」
 レイジの腕は流血に染まっていた。抱擁は鉄錆びた血の匂いがした。俺の肩に額を寄せたレイジの息遣いは不規則に乱れてひどくつらそうだった。膝をぬらす液体の感触にぎょっとして足元を見下ろせば、レイジの腕から滴り落ちた血が床を染めていた。出血はかなり多い。止血しなけりゃ、と慌てて腕をどかそうとしたら本人にかぶりを振って拒まれる。 
 「しばらくこのまま抱かせてくれ」
 「ばか言え死ぬぞ、体じゅうの血全部流れ出したらどうすんだよ!?ったく手のかかる王様だな、ガキみたいに駄々こねやがって……つらいならやせ我慢せずそう言えよ、ケチなプライドなんか捨てちまえ。年上のくせに世話ばっか焼かすな」
 「はは。世話女房だ」
 「もう一回殴ろうか」
 レイジをどつきまわすのは後回しだ。俺にだってそれ位の分別はある。レイジの腕をふりほどき、慎重に床へおろす。憔悴の面持ちで俯いたレイジの様子をさぐりながら、上着の袖口をくわえ、顎に力をこめる。布の裂ける乾いた音とともに上着の袖がちぎれる。即席の止血帯で片腕の傷口を包み、不器用な結び目をつくる。布を巻いたそばからじわじわ鮮血が染み出してきて狼狽する。俺を心配させたくないレイジは笑顔で軽口叩いてるが、腕の傷は予想以上に深い。早く医務室に運んで応急処置しなければ危ないかもしれない。
 「行くぞレイジ、立てるか」
 レイジに肩を貸して立ち上がらせる。
 「あたぼうよ相棒。お前こそ大丈夫か、怪我治ってないんだろ。肋骨折ってるのに無理すんなよ、いい子はベッドでおねんねしてな」
 空元気を装いレイジが軽口を叩く。上等じゃねえか、と口元に不敵な笑みが浮かぶ。レイジひとりくらい医務室に運べなくてこいつの相棒が名乗れるか。レイジを担いで歩き出そうとして、胸の激痛にたまらず膝を折る。レイジが言わんこっちゃないと首を振る。くそ憎たらしい、せっかく助けにきてやったんだからもっと感謝しろってんだ。口に出す元気はないから胸中で毒づき、足をひきずるように歩みを再開する。俺とレイジじゃ身長が違いすぎて、どっちがおぶってんだかおぶわれてんだか謎なアンバランスな歩行になった。
 「なあロン」
 「なんだよ」
 レイジと質疑応答できる体調じゃないが、律儀に返事をしちまうのは条件反射というか、癖だ。つくづくお人よしな自分がいやになる。自嘲の笑みをこしらえた俺の耳元で、思い詰めた目のレイジが打ち明ける。
 「ひとつ頼みがあるんだけど、いいか」
 「聞くだけ聞いてやる」
 数日ぶりにレイジと再会できた安堵が勝っていたからか、俺は妙に寛大だった。俺の肩に寄りかかったレイジが、焦点の合わない目を虚空に馳せる。どこを見つめてるかわからない茶色の瞳は硝子のように透明で、あまりに綺麗すぎて不安になる。なに焦らしてるんだこいつ、らしくねえ。数呼吸の沈黙をいぶかしみ疑惑の視線をむければ、レイジが沈痛に顔を伏せる。
 裏切られても裏切られても一縷の希望が捨てられず人を信じようとする子供のように。
 
 『Please don't be afraid. Because I laugh, please love it.』

 英語かよ。
 「……おまえ俺に喧嘩売ってんのかよ、なんで英語なんだよ。台湾語か日本語で言えよ!?」
 短気な俺が激怒すれば レイジが大袈裟に笑い出す。 
 「恥ずかしくて素面で言えるかっつの」
 自嘲的に吐き捨てたレイジになお食い下がろうとした俺の足元に、誰かが猛烈な勢いで吹っ飛んできた。
 鍵屋崎だった。
 「!?大丈夫かよおいっ、」
 俺の足元で体を二つに折ってるのは鍵屋崎だ。レイジをその場におろし、片腕を腹に回した鍵屋崎の傍らに屈みこむ。改めて観察すりゃ鍵屋崎もぼろぼろだった。上着やズボンはあちこち裂けてナイフで切られたらしい血の滲んだ素肌が露出していた。鍵屋崎の腕をどけて腹部を見下ろし、息を呑む。
 上着の腹部が横一直線に裂け、真新しい傷ができていた。そんなに深くはないが一直線の傷口から鮮血が滲みだし上着の裾を赤く染めていて、蒼白の顔色と相まりぞっとする眺めだった。
 「行かせるものか」
 氷点下の声が廊下に響き渡る。たった今鍵屋崎を倒し俺たちの行く手に立ち塞がったのは北の皇帝サーシャ。ナイフを握った手で鍵屋崎を薙ぎ払い、邪険に蹴飛ばし、俺たちのもとまで容赦なく吹っ飛ばしたのだ。
 「それは私の犬だ。おいていけ」
 「いやだ。レイジはてめえの犬じゃねえ、東棟の王様だ。意地でも連れ帰ってやる」
 鍵屋崎を助け起こしながら毒づく。サーシャの目的はレイジだ。サーシャはレイジに異常な執着を見せてる、レイジを独占したくて躍起になってる。なんで渡り廊下で戦争が起きたのか、サーシャとレイジが一緒にいたのか今いち呑みこめてないが今はそんなことどうでもいい。今俺がすべきことはレイジと鍵屋崎を医務室に運ぶこと、それ以外のことはあとでゆっくりレイジに聞き出すなり鍵屋崎に質問するなりすりゃいい。鍵屋崎ふうに言うなら優先順位を間違えるな、だ。二人ともボロボロで自力で歩けそうになくて、肋骨折った俺が比較的軽傷に見える有り様なのだ。  
 床に片膝つき鍵屋崎の背中を支え起こし、注意深くあたりを見まわす。北の残党はヨンイルとホセの活躍であらかた一掃されたらしく渡り廊下は閑散としている。ぴんぴんしてるのはサーシャだけだ。
 サーシャさえ倒せば生還できる。
 「なにを考えている?まさかサーシャさえ倒せば生還できると楽観的な先入観に目が眩んでいるんじゃないだろうな。冷静になれロン、サーシャは北のトップで超絶的なナイフの使い手で到底君がかなう相手じゃない。たとえるなら君は白血球だ、知ってるか、白血球は外部から体内に侵入した異物の排除を役割とする造血幹細胞由来の細胞で寿命は4~5日とごく短い。大きさは7から25μm。数は正常血液1mm3あたり4000から8500個だ。サーシャは全身に転移した癌細胞だと思え、すでに体内に蔓延した癌を外敵の排除を目的とする白血球が駆逐することはできない。癌細胞の排除は不可能だ、白血球なら白血球らしく慎ましく」
 「黙れ屁理屈メガネ、まわりくどい比喩してんじゃねえ!!」
 鍵屋崎を一喝し、レイジを床に座らせ、サーシャと対峙する。サーシャは無傷に近い状態でその場に立ってた。忠実なる家臣どももとい北の犬どもが身を挺して皇帝サマを庇ったんだろう。手下を盾にした呵責など少しも感じさせず涼しげなサーシャが、残虐な光を目に点す。
 「もう一度訊くぞ。レイジをおいていけば命だけは見逃してやる」
 答えは決まっていた。
 『拒絶!!』
 サーシャのナイフが鋭利に翻り、俺の顔面を急襲する。
 「危ない!」
 床と天井が反転し、視界が揺れた。背中に鈍い衝撃を感じた俺が上体を起こすより早くサーシャが肉薄、ナイフの風圧が体を掠め去る。俺の命を救ったのは鍵屋崎の機転、サーシャのスピードについてけずぼさっと突っ立った俺の足にしがみつき引きずり倒したのだ。
 「なおちゃん!」
 「ロンくん!」
 ヨンイルとホセの声がだぶる。二人はどこにいるんだと視線を巡らせばだいぶ離れたところで北の生き残りと戦っていた。あれで最後だろう、背水の陣に追い詰められた北のガキ三人が手負いの獣めいた形相で西と南コンビ相手に大立ち回りを演じてた。サーシャ様のために命をかなぐり捨て、意味不明の奇声を発して突っかかってくる狂信者相手にさすがの二人も手こずっている。俺たちの窮地に間に合いそうもないホセとヨンイルが焦れたように叫ぶ中、サーシャが猛攻を開始する。
 「ちっ、」
 「どうした雑種め、威勢がいいのは吠え声だけか。レイジを迎えにきたのではないのか、私のナイフもかわせずよく北の領地に足を踏み入れたものだ。その無謀さにはある意味敬意を表するな。偉大なる皇帝がお前如きを誉めているのだ、今すぐその場にひれ伏し血の涙を流して感謝しろ」
 「血の涙なんか流せるかよ、そんなに血が見たけりゃてめえの血尿鑑賞してな」
 中指を立て挑発すれば、激昂したサーシャが猛然とナイフを振るう。逃げてばっかじゃはじまらねえ、やり返さなきゃ。胸の激痛で呼吸もできない俺をなぶるように追い詰めるサーシャ、風切る唸りをあげる刃が頭上できらめき……
 「単純な」
 まずい。
 つられて上を見上げた俺の目が、ナイフの反射光に眩む。蛍光灯の光に鋭くきらめいたナイフが、俺の鼻先をかすめるように中空を流れ、無防備にうずくまった鍵屋崎へと標的を転じる。 
 「!!鍵屋崎よけろっ、」
 俺は馬鹿だ、フェイントを真に受けちまうなんて。
 驚愕のあまり硬直した鍵屋崎の頚動脈へと、あざやかな弧を描いてナイフが吸いこまれてく。駄目だ、おしまいだ。鍵屋崎の首筋から血が噴き上がる光景を幻視し、戦慄にかられた俺の眼前を人影が過ぎる。
 広い背中が鍵屋崎へと覆い被さり、鍵屋崎を懐に庇い、押し倒す。
 一瞬の出来事だった。
 鍵屋崎の命を奪うはずだったナイフの軌道が途中変化し、銀の軌跡を描いてサムライの腿へと落ちる。布が裂ける乾いた音、鋭利な刃で切り裂かれた皮膚から噴き出す血、血。鮮血。サムライの腿に突き立てられたナイフの下から湧き出し床に広がる大量の血。 
 「サ、ムライ?」
 サムライに抱きしめられた鍵屋崎が呆然と呟く。目の前で起きていることが理解できない、いや、理解したくないという放心の表情。サムライは鍵屋崎を守るためまっしぐらに駆け付けてきた、木刀でナイフを受け止めるのが間に合わないと見るや迷うことなく鍵屋崎を押し倒し身を挺して鍵屋崎を庇った。
 そして今、サムライの太股にはナイフが深々と突き立っている。 
 「あ、ああ、あ」
 「……ぐっ、う」
 サムライの腿が脈打ち、凄惨な傷口から鮮血が流れ出す。サムライの血に染まった鍵屋崎は気が動転して、舌が麻痺して、言葉が声にならなかった。
 「な、んで」
 サムライの腿から流れ出した血だまりに膝をついた鍵屋崎が、悲痛に顔を歪める。
 「なんで、なんで僕なんかを庇った?僕がサーシャにしがみついて足止めして、君はその隙に誰か人を呼んでくると、そういう作戦だと耳打ちしたじゃないか。なんで戻ってくるんだ」
 「お前ひとりおいてはいけん……いや、違う。俺は武士だ。仲間を見据てて戦場を離脱するのは恥だ」
 「戦力外の僕ならサーシャも油断する。サーシャはナイフで人をいたぶることで性的興奮をおぼえるサディストだ、僕のように非力な人間が相手ならすぐにとどめをさしたりせずじっくり時間をかけていたぶるはずだ。だから時間稼ぎには僕が適任だった、東棟ではレイジに次ぐ実力者たる君がサーシャの前に立てば、サーシャはおそらく全力で仕掛けてきて短時間で勝敗が決してしまう。それに第一、君は僕を庇って北の残党とも戦ってひどく体力を消耗して、持久戦は不利だと踏んだんだ。だから……」
 血だまりに突っ伏したサムライを抱き起こそうとする鍵屋崎だが、非力な腕ではサムライの体重を支えきれない。何度も何度も失敗しそれでも諦めきれず、意識朦朧としたサムライを抱き起こそうと必死になる。
 鍵屋崎の手がべったりと血に染まり、サムライの体が血だまりに突っ伏すたび赤い飛沫が跳ねて眼鏡に付着する。眼鏡のレンズが赤く煙るのも気にする余裕がなく、鍵屋崎が震える声で叫ぶ。
 「サムライ、しっかりしろ!僕の声が聞こえるか、大丈夫か?まったくなんて馬鹿なんだ君は、どうしようもない男だ、なんで戻ってくるんだ!?僕は先に行けと言ったじゃないか、くどいほどくりかえしたじゃないか!!天才が言うことは絶対だ、素直に命令に従えばこんなことにはならなかった、僕なんかを大事にするから君まで傷ついてぼろぼろになって……ふざけるなよ、これで君に死なれたら僕はどうすればいい、僕はまた独りになってしまうじゃないか!!」
 あのプライドの高い鍵屋崎が、太股から出血して気を失いかけたサムライに別人みたいに動揺してる。鍵屋崎を庇って力尽きたサムライにはもう木刀を握る気力もない。おびただしい脂汗を額に浮かべ、苦痛の皺を眉間に刻み、青褪めた瞼を閉じて鍵屋崎の腕に体を預けたサムライに愕然とする。
 自分の腕の中に体を預けたサムライを見下ろし、鍵屋崎がむなしく叫ぶ。
 「聞いてるかサムライ、友人の言葉を無視するな!みつぐ……貢、起きろ貢。それが君の名前だろう、とっくの昔に捨て去った本名だろう?君がこのまま無視し続ける気ならこちらにも考えがある、耳元でしつこく本名を呼びつづけるぞ。しっかりしろ貢、目を開けろ、死ぬんじゃない!!」
 こんな鍵屋崎初めて見る。狂気に蝕まれた目の光、サムライの名を呼び続ける口、血まみれの手でサムライを揺さぶる姿はこの世でいちばん大事な者を失う恐怖に取り憑かれて心が自閉した人間のそれだ。
 「ふん。不浄な血でナイフが汚れたではないか」 
 サムライの腿から無造作にナイフを引きぬき、横に寝かせた刃を舐めるサーシャ。
 生贄の血に飢えた眼光が次に射抜いたのは……俺。
 「血は血で拭うのが私の流儀だ」
 「あ、ああ、っあ」 
 サーシャの眼光に威圧され、あとじさる。殺される殺される殺される、俺もサムライの二の舞だ。サムライの名を呼ぶ鍵屋崎の声が遠くで聞こえ頭蓋骨の裏側で鼓動が反響しそれがどんどん大きくなる。無理だ、俺がサーシャにかなうわけない。相手は北の皇帝だ。サムライを倒した男だ。
 本能的に身を引いた俺にすっと目を細めるサーシャ。その視線が俺を通り越し、背後に注がれていることに漸く気付く。反射的に振り向こうとしたが、時すでに遅かった。
 「!!っく、」
 皮膚を貫く疼痛が左腕に走る。俺の背後に忍び寄った何者かが、器用に腕を回して俺の袖口をはだけて血管に注射したのだ。注射……注射器?なんだよこれ、なんでこんなもんが腕に刺さってるんだ?
 「そんな怖い顔しないで。すぐに気持ちよくなるよ」
 耳の裏側でだれかが囁く。振り返れば見なれたヤツがいた。鼻梁に濃いそばかすが散った童顔、愛嬌たっぷりの笑顔……
 「天国にイッといでよ」
 リョウの笑顔が悪夢みたいに歪曲し、俺は猛烈な吐き気と眩暈と灼熱感と高揚感と頭痛とを一緒に感じて四肢が弛緩して体の芯が溶解してなんだこれ気持ち悪嘔吐感眩暈感浮遊感恍惚感………

 俺の体が床に倒れる鈍い音が、どこか遠くでした。
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