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二百八十九話
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東京プリズンにはシャワー室がある。
壁を取り払って房を十個繋げた空間で配管むきだしの天井と灰色の壁の殺風景な内観は日常見慣れたものだが、プライバシー保護の建前を尊重したのか、定員一名のブースごとに人目を遮蔽する間仕切りとスイングドアが設けられてる。
一般の囚人がシャワーを浴びれるのは二日に一回だけと規則で決まっている。
潔癖症の僕などは二日に一回とはいわず毎日シャワーを浴びて汚れを落としたいのだが、規則に従わない囚人には厳罰が下されるのが東京プリズンの鉄則。
看守の命令に逆らえば容赦なく警棒が振ってくるのと同様に、規則を破れば東京プリズンの囚人だれもが恐れる独居房送りを課されかねない。
独居房送りほど東京プリズンの囚人に忌避される罰はない。
東西南北の棟の最奥、殆ど人通りがない薄暗い区画に設けられた独居房は、口さがない連中に「動物園」と揶揄されている。格子窓がないにも拘わらず、密閉された鉄扉の内側に充満した悪臭が廊下へと漏れ出して、不規則に蛍光灯が点滅する通路には糞尿と吐瀉物のすえた匂いが沈殿している。
ひどい悪臭が充満する通路の両壁に等間隔に穿たれているのは、外観だけなら通常の房とそれほど違わない造りの鉄扉だが、この鉄扉には決定的な違いがある。
前述したが、窓がないのだ。完全に密閉された構造の鉄扉の下部には一日二回食事をさしいれるための矩形の口が設けられているが、トレイを放りこめばすぐ鉄蓋が下りて、一条の光明さえ残酷に遮断される仕組みになっている。
独居房は常に満員御礼だ。
それだけ東京プリズンで問題を起こす囚人が多いということだ。乱闘騒ぎを起こした囚人は罰と称して一条の光さえ射さない独居房に放りこまれる決まりだが、独居房に一度送りこまれたら最後正気を保ち続けるのはむずかしく、再び外に出された時には八割の囚人が発狂してるという。
囚人が寝静まった深夜、静寂に呑みこまれた通路に殷殷と反響する獣の唸り声を辿れば、独居房に行き着くというのが東京プリズンの定説。
廃人化せずに独居房から生還できる幸運な人間はよほど肝が据わった者か……もしくは最初から狂っていて、それ以上狂いようがないごく一部の者に限定される。
今、音痴な鼻歌を口ずさみながらシャワーを浴びている男は後者だったようだ。
十個房を繋げた広広とした空間で、気持ち良さそうにシャワーを浴びているのはその男だけだ。
壁に固定されたシャワーから迸るのは絶妙な温度に調節された温水。
顔を仰向け、高所から降り注いだシャワーを手で受けた男が、水滴を跳ね散らかしかぶりを振る。
「あー、すっげえ気持ちいい。極楽だね。地獄から天国ってかんじ」
レイジだった。
レイジが独居房に放りこまれてから一週間が経過した。
そして今日、レイジは無事独居房から生還した。
廃人化することなく、正気を保ったままで。
期限を全うし、大手を振って独居房を後にしたレイジが真っ先に向かったのはシャワー室だった。独居房から出された直後のレイジは垢と汚れ塗れの状態だった。糞尿まみれの服は不潔に黒ずみ、全身から吐き気をもよおす異臭が放たれていた。
憔悴の色濃い面持ちで足元もおぼつかないレイジは、独居房からの生還者の常として日常寝起きする房には直帰せず、手錠で抉れた手首を治療しに医務室に寄る事もなく、シャワー室にとびこんだ。
それは正しい選択だった。
独居房から出された直後のレイジは、とても見られた風体ではなかった。
一週間もシャワーとは無縁の不衛生な環境に寝転がっていたのだから、これ以上悪臭を振りまいて通りすがりの囚人を不快にさせる前にシャワー室に赴いたのは賢い選択だった。
僕は今、レイジのシャワーに強制的に付き合わされている。
妙なことになったぞ、と腕組みしながらため息をつく。
レイジの身柄引き取り人になったのは僕だった。同房のロンは重傷で入院中のため、独居房から出されたレイジの身柄を譲りうけるのは消去法で僕の役目となった。
後ろ手に手錠をかけられたレイジが、看守に挟まれて通路を歩いてきた時、僕はそのあまりに変わり果てた姿に怯んでしまったが、レイジ本人に独居房送りを命じた責任者としてその場に居合わせた安田は表情ひとつ変えなかった。
レイジが一歩近寄るごとに、鼻腔の奥を刺激して涙腺に染みる悪臭がひどくなる。憔悴したレイジがふらふら近付いてくる姿を目の当たりにして動揺を隠しきれない僕に、安田は小声でアドバイスした。
『レイジは独居房から出された直後で体調が万全ではない、シャワーを浴びるにも何をするにしても補助がいるだろう。鍵屋崎、レイジの友人なら力になってやれ。レイジがシャワーの途中で倒れないか見張っておけ』
『僕もシャワー室に入るんですか?』
おもわず抗議の声をあげてしまった。
シャワー室に入る、ということはレイジがシャワーを浴び終えるまでじっと監視するということだ。安田の言い分が一理あるのはわかるが、いかに同性とはいえ、他人を裸を見るのは抵抗がある。難色を示した僕を眼鏡越しに一瞥し、安田は事務的に付け加えた。
『一緒にシャワーを浴びろと言ってるわけじゃない、少し離れた場所でレイジを見張っておけばいい。万が一レイジが倒れたら助けを呼ぶ必要があるだろう?全裸で失神して長時間だれにも発見されずシャワーに打たれていたら風邪をひいてしまう。そうしたら今晩の決勝戦に臨めない、違うか?』
決勝戦。
安田が発した言葉は、ひどく重々しい響きを伴っていた。
そうだ、今晩にはペア戦決勝戦が予定されている。東京プリズンの歴史に残る試合、ブラックワークの前例を覆す前代未聞の試合、他の3トップを下して勝ち残った者が東西南北を掌握するという取り決めのもとに行われる東京プリズンの分岐点となる試合。
今日の試合にすべて勝てばレイジは100人抜きを実現し、僕たち四人は晴れて自由の身となる。
僕とロンは売春班に二度と戻れなくてすみ、サムライも両手の腱を切られることなく今までどおり刀を振るうことができ、レイジは東棟の王様として悠悠自適な生活を謳歌できる。
僕らは絶対に、今晩の試合に勝たなければならない。勝ち残らねば生き残れないのだ。
僕は渋々納得した。たしかに、シャワーの途中でレイジに倒れられたら困る。湯冷めなんてとんでもない。
現時点におけるレイジの退場は、僕ら四人の運命をも左右する重大な損失。
僕にはロンとサムライの分までレイジを監視する義務がある。復活したレイジを無事リングに送りとどけ、決勝戦の一部始終を見届ける義務がある。
だから僕はこうしてシャワー室の壁に凭れ、憮然と押し黙ってレイジの鼻歌を聴いている。聴けば聴くほど音痴な鼻歌にあきれかえる。シャワー室ではよく声が反響するため、コンクリ壁に跳ね返った鼻歌が殷殷と余韻をおび、わずかな時間差をおいて鼓膜へと押し寄せる。
ふと、スイングドアに腕を凭せ、レイジが身を乗り出す。
「キーストアも一緒に浴びね?気持ちいいぜ」
「遠慮しておく。僕は君と違って人前で肌を露出して倒錯的な快感に浸る趣味はない」
「ひとを変態みてえに言うなよ、傷付くなあ。俺だってなにも好き好んでお前の目の前でシャワー浴びてるわけじゃねえ。勘違いすんなよキ―ストア、お前が勝手に中までついてきたんだろ」
「安田に言われたからだ。僕は気が進まなかった」
「可愛げねえの。俺のヌード、タダで鑑賞できるんだからもっと喜べっつの」
「重大なことを忘れてないか?僕は不感症だ、同性の裸を見たところで性的興奮など覚えはしない」
「興奮するのは妹のヌードだけってか」
「……恵を侮辱する気か貴様」
壁から背中を起こし、腕組みをといてレイジを睨みつける。
「近親相姦の誤解を招く発言はよせ、僕の恵に対する気持ちは純粋な親愛の感情だ。僕は恵の裸に興奮したりしない、妹の裸に浴情するなど兄失格だ。今の発言は取り消せ、前言撤回しろ。僕は恵に対し君がロンを対象とするようなやましい妄想を抱いたことなど一度も……」
「冗談だよ。むきになるとかえって怪しいぜ」
スイングドアに腕をかけたレイジが肩を竦める。
からかわれていたと知り、一瞬殺意が芽生えた。赤面した顔を眼鏡のブリッジを押し上げるふりで隠した僕の目に、レイジの胸に垂れ下がった十字架がとまる。
水滴を弾き、まばゆい金色にきらめく十字架。
「シャワーを浴びるときも外さないんだな」
あきれ顔の僕に、レイジは軽薄に笑ってみせる。
「お守りだからな」
気取った手つきで十字架を捧げ持ち、キスをする。裸でさえなければ、信心深いとでも表現できそうな神聖な場面。
幸福そうな笑顔で十字架に口付けるレイジの裸身に不覚にも目を奪われる。
シャワーに濡れてしっとり額に纏わりついた前髪、長時間の湯浴みで仄赤く上気した肌。
恍惚と潤んだ艶かしい眼差しを翳らせるのは、切れ長の双眸を縁取る驚異的に長い睫毛。精悍に引き締まった肢体を惜しげもなく晒したレイジは、伏し目がちに感傷に浸るかのように掌中の十字架を見つめている。
男にこんな表現を使うのはおかしいが、レイジは綺麗だった。
腰はスイングドアで隠されていたが、猫科の肉食獣めいてしなやかな筋肉がついた体と完璧に均整がとれた四肢は、誰もの目を奪わずにはおれない芸術的な彫刻美を体現していた。極上の絹めいた張りと艶のある褐色肌には、若い生命力を凝縮した精気がみなぎっていた。
レイジの全身から湯気に乗じて漂いだす野生の色香。
水に濡れて額に纏わり付く髪も、淫蕩に上気した肌も、柔和に凪いだ眼差しも虚心の表情もかすかに笑みを湛えた口元も。
すべてが薄靄の湯気に包まれる。
「……聞いていいか」
ためらいがちに口を開く。
「なんだ」
湯気の帳の向こうから声がする。奇妙に反響する声の主はレイジ。口にしたものの、僕は質問を続けようか否か迷っていた。湯気で湿った壁に凭れ、腕を組んで考え込む。本来僕が踏みこむべき問題ではない、だが今を逃したら改めて聞き出す機会は訪れない予感がする。
眼鏡を外し、白く曇ったレンズを上着で拭う。
綺麗に拭ったレンズを目の位置に翳し、湯気の向こうを透かし見る。シャワーの温水に打たれながら、レイジは怪訝そうな表情でこちらを眺めている。
よし。
眼鏡をかけなおし、決心する。
「あの夜、ロンと何を話したんだ?」
ずっと疑問だった。あれほど荒れていたレイジが、僕の説得にも耳を貸さずにリングで暴威を振るったレイジが、ロンとの話し合いを経て元に戻った経緯には無関心ではいられない。あの夜、レイジとロンの間にはたしかになにかがあった。
レイジとロンの間に起きたことに関しては漠然と察しはつくと以前僕は言ったが、レイジの口から真相を聞きたい気持ちも心の片隅に存在していた。
思い出すのは、衝立のカーテンを開けた時。
ロンのベッドで幸せそうに眠りこけるレイジの姿。安心しきった寝顔。
実際にはレイジの方がロンを抱いていたのでこの喩えは正確ではないが、聖母の胸に抱かれたキリストのように安らかな寝顔だった。
レイジとロンの間になにがあったのか、知りたい。
レイジとロンの件に関しては僕もさんざん振りまわされたのだから、それくらいは要求してもかまわないだろう。ロンは僕がどう足掻いてもなし得なかったことをたやすく成し遂げてしまった。
血に飢えて暴れ狂う豹を、ほんの数時間の話し合いで従順に飼い馴らしてしまった。たった数時間の話し合いで暴君を改心させてしまったのだ。
レイジとロンがどういった経緯で和解に至ったのか、好奇心を刺激されないほうがおかしい。
スイングドアに腕をかけ、レイジはしげしげと僕を眺めていた。
核心をつく質問に驚いた様子もなく、スイングドアから腕をどかし、気だるげに髪をかきあげる。なにげない一挙手一投足にさえ付き纏う退廃的な色気。水に濡れそぼった髪を緩慢な動作でかきあげ、かぶりを振って水を弾く。スイングドアから身を乗り出したレイジが、片腕を虚空にさしのべ、人さし指を折り曲げる。
「?」
「知りたいんだろ。来いよ」
レイジがにっこりと微笑む。
わざわざ呼びつけずとも十分声が届く距離なのにもってまわったことを、と舌打ちしながら歩き出す。極上の笑顔で僕を出迎えたレイジが、もっと近くに寄るようにと人さし指を動かす。
レイジに促され、緊張の面持ちで顔を近付ける。
裸の上半身を乗り出し、僕の耳元に顔を寄せ、レイジが囁く。
「内緒」
「……………………………………………そんな幼稚な真似をするためにわざわざ八メートルの距離を歩かせたのか、君は」
瞬時に怒りが沸騰した。まったく無自覚にレイジの悪戯にひっかかってしまった僕自身にも。
不愉快この上ない表情の僕をレイジは遠慮なく笑い飛ばしてくれた。
「ははははははははは、かっわいいなーキーストア!もうちょっと人を疑うこと覚えろよ天才、頭いいくせに単純すぎる。それとも何、俺には気を許しちゃってるわけ?だからこんな簡単に手が届く至近距離まで近寄ってこれたわけ?無防備にもほどがあるぜ。サムライも気が休まる暇ねえな、同情するぜ」
「今はサムライは関係ないだろう」
頬を染めて言い返せば、笑い声を引っ込めたレイジがいきなり顔を突き出す。
僕の目を挑発的に覗きこむ色素の薄い瞳。
底知れない虚無を秘めた双眸。
「少しは警戒心もてよ、キーストア。この距離なら確実にお前殺れるぜ、俺」
レイジの双眸に物騒な光が過ぎる。殺意の眼光。
裸の胸に十字架をさげたレイジが殺しの手段を厭わない暗殺者の顔で囁けば、鼻先にナイフを突き付けられた忌まわしい記憶がよみがえり、こめかみを冷や汗が伝う。
怯むものか。
奥歯を噛みしめ、しっかりと床を踏みしめる。僕はもうレイジに怯えないと決めた。準決勝のリングでどんなに変貌してもレイジはレイジだと確信に至ったではないか。この僕が、IQ180の天才たる鍵屋崎直がレイジに怯える理由などないのだこれっぽっちも。
それを今ここで証明しなければ、僕はレイジの仲間でいられない。
安田に友人だとレイジを紹介したことまで、嘘になってしまう。
「君は僕を殺せない」
口元に笑みを浮かべ、自信ありげにレイジを見返す。皮肉げな笑顔を向けられたレイジが当惑する。
「どうしてそう思うんだ」
シャワーに背中を打たせつつ、だらしない姿勢でスイングドアに凭れかかったレイジが探るように僕を見る。疑問の色に染め上げられた眼差しと怪訝な表情からは、僕の自信の根拠を純粋に不思議がっている内心が見てとれた。
だから僕は言ってやった。
そんなあたりまえのこともわからないのかと小馬鹿にした口調で、尊大に腕を組んで。
「僕を殺したらロンが哀しむ。ロンを溺愛する君が彼を哀しませるようなことをするはずがない、絶対に。俗な言い方をすれば、そう……惚れた弱みだな」
「ははははははははははっはははははっ!キーストアそれ面白い最高、ツボった!」
レイジが爆笑する。
喉を仰け反らせ肩をひくつかせ大袈裟に笑い転げるレイジを、僕は冷めた目で眺めていた。べつに面白いことを言ったつもりはない、ありのままの事実を述べたまでだ。壁を平手で叩いて哄笑するレイジの肩がゆっくりと浮沈し、深呼吸とともに笑いの発作が終息する。
壁に片手をついた前傾姿勢でこちらを振り返ったレイジが、悪戯っぽく微笑む。
「……そうだな、そのとおりだ。お前を殺したらロンが哀しむ。ロンが泣いたら俺も哀しい。だから特別にお前のこと殺さないでやる、感謝しろ」
「この場合は一応礼を述べておくべきか?それとも貴様何様だと声を荒げて罵るべきか判断に迷うな」
「もうひとつあるぜ、お前を見逃してやる理由」
「なんだ」
スイングドアが揺れる。
水に濡れた手で僕の頬に軽く触れるレイジ。ごくさりげない親愛の表現。僕の頬に手をおいたレイジの瞳に視線をとらわれる。悪戯っぽい笑みを含んだ薄茶の瞳には、どことなく憎めない愛嬌がある。
「ロンには及ばないけど、お前のこと結構気に入ってるんだよ。気が向いたら愛人にしてやってもいい」
「断る」
「即答かよおい。じゃあ一回寝てやってもいいに変更」
「僕に拒否権はなしか?それ以前に、好悪の判断基準は性行為に及びたいか否か究極の二択に集約されるのか?どこまで下世話な男なんだ君は、品性のかけらもない。たまには下ネタをまじえず話ができないのか、万年発情期め」
嘆かわしげにかぶりを振りレイジの手を叩き落とす。
手をはたかれたレイジが舌打ちするが、口元がにやけているので取り合わない。
「さっきの話だけどさ」
レイジが唐突に話題を変える。
視線をやや上向きに、湯気がたゆたう天井を仰ぎ、思い出したように言う。
「ロンは許してくれたんだ」
「は?」
その呟きがやけに深刻に聞こえ、まじまじとレイジの顔を見る。
シャワーの湯気を四肢に纏わりつかせたレイジが、五指と五指を交差させ、腕を一本によりあわせ、豹のように伸びをする。
レイジの胸で輝いているのは、水滴に濡れた十字架。
贖罪の証。
「俺がそばにいてもいいって、俺にそばにいてもらいたいって言ってくれたんだ。馬鹿だよな、俺のことホントは怖いくせにそれでもいいからそばにいてほしいって頑固に言い張ってさ。俺がいつまたキレてあいつに手を出すかわかんないのに、そんなくだらないことうじうじ悩んでるんじゃねえって一喝されちまった。カッコ良かったぜ、あいつ。ガキだガキだって侮ってたけど、ちょっと見ないあいだにすげえ成長してた。相変わらず背は伸びねえけど、あれくらいの方が懐に抱いて寝やすいから問題なしってね」
ああ、そうか。ようやく腑に落ちた。
レイジはずっとだれかに、自分の身近にいるかけがえのないだれかに許しを乞いたかったのだ。自分の身近にいるかけがえのないだれかに許しを得たかったのだ。
おのれの罪深さを告白して、懺悔したかったのだ。
そして。
こんな罪深い自分でもそばにおいてはもらえないだろうかと、一縷の希望に縋った。
「ロンは俺に許しを与えてくれた。俺の懺悔を、最後までちゃんと聞いてくれた。耳をふさがずに、まっすぐ俺の目を見て。怖かったと思うよ。あいつまともだから、すげえいいヤツだから、俺の狂った過去とか聞かされて後悔したと思う。でも全部ひっくるめて受け止めた上でそばにいてほしいって言ってくれたんだ。いちばん欲しい言葉をくれたんだ」
レイジの笑顔は澄んでいた。
永い苦悩から解放された、晴れ晴れとした笑顔。
「ロンは俺の救い主なんだ。今までさんざん人殺してきてこんなこと言うのもアレだけど、俺は誰かに許してもらわなきゃこのさき生きてく資格がないって思いこんでて、とんでもないことしでかした俺を許してくれそうなお人よしをずっと待ってたんだ。それがロンだった」
十字架を握りしめ、締めくくる。
「俺はロンに、笑顔を貰ったんだ」
感傷を振りきるようにコックを締めて顔を上げる。コンクリ床を叩く水音が途絶え、シャワーが止む。
「キーストア、タオルとって」
「僕はホテルのボーイじゃないぞ」
「だろうな。その性格で客商売に就いたら三日でクビだ」
いちいち癇にさわる男だ。
文句を言いたいのをこらえ、タオルをレイジに投げる。虚空に手をのばしてタオルを受け取ったレイジが、高らかに宣言する。
「勝つぜペア戦、やるぜ100人抜き」
あざやかにタオルを羽織り、スイングドアを蹴り開けたレイジが、挑発的な流し目を僕にくれる。
「天才と王様が組めば不可能はない。だろ?」
大胆不敵な面構えで言いきるレイジにため息を吐き、眼鏡のブリッジを押し上げる。
「あたりまえのことを言わせるな。時間の無駄だ」
今晩ついに、僕らの運命が決まる。
壁を取り払って房を十個繋げた空間で配管むきだしの天井と灰色の壁の殺風景な内観は日常見慣れたものだが、プライバシー保護の建前を尊重したのか、定員一名のブースごとに人目を遮蔽する間仕切りとスイングドアが設けられてる。
一般の囚人がシャワーを浴びれるのは二日に一回だけと規則で決まっている。
潔癖症の僕などは二日に一回とはいわず毎日シャワーを浴びて汚れを落としたいのだが、規則に従わない囚人には厳罰が下されるのが東京プリズンの鉄則。
看守の命令に逆らえば容赦なく警棒が振ってくるのと同様に、規則を破れば東京プリズンの囚人だれもが恐れる独居房送りを課されかねない。
独居房送りほど東京プリズンの囚人に忌避される罰はない。
東西南北の棟の最奥、殆ど人通りがない薄暗い区画に設けられた独居房は、口さがない連中に「動物園」と揶揄されている。格子窓がないにも拘わらず、密閉された鉄扉の内側に充満した悪臭が廊下へと漏れ出して、不規則に蛍光灯が点滅する通路には糞尿と吐瀉物のすえた匂いが沈殿している。
ひどい悪臭が充満する通路の両壁に等間隔に穿たれているのは、外観だけなら通常の房とそれほど違わない造りの鉄扉だが、この鉄扉には決定的な違いがある。
前述したが、窓がないのだ。完全に密閉された構造の鉄扉の下部には一日二回食事をさしいれるための矩形の口が設けられているが、トレイを放りこめばすぐ鉄蓋が下りて、一条の光明さえ残酷に遮断される仕組みになっている。
独居房は常に満員御礼だ。
それだけ東京プリズンで問題を起こす囚人が多いということだ。乱闘騒ぎを起こした囚人は罰と称して一条の光さえ射さない独居房に放りこまれる決まりだが、独居房に一度送りこまれたら最後正気を保ち続けるのはむずかしく、再び外に出された時には八割の囚人が発狂してるという。
囚人が寝静まった深夜、静寂に呑みこまれた通路に殷殷と反響する獣の唸り声を辿れば、独居房に行き着くというのが東京プリズンの定説。
廃人化せずに独居房から生還できる幸運な人間はよほど肝が据わった者か……もしくは最初から狂っていて、それ以上狂いようがないごく一部の者に限定される。
今、音痴な鼻歌を口ずさみながらシャワーを浴びている男は後者だったようだ。
十個房を繋げた広広とした空間で、気持ち良さそうにシャワーを浴びているのはその男だけだ。
壁に固定されたシャワーから迸るのは絶妙な温度に調節された温水。
顔を仰向け、高所から降り注いだシャワーを手で受けた男が、水滴を跳ね散らかしかぶりを振る。
「あー、すっげえ気持ちいい。極楽だね。地獄から天国ってかんじ」
レイジだった。
レイジが独居房に放りこまれてから一週間が経過した。
そして今日、レイジは無事独居房から生還した。
廃人化することなく、正気を保ったままで。
期限を全うし、大手を振って独居房を後にしたレイジが真っ先に向かったのはシャワー室だった。独居房から出された直後のレイジは垢と汚れ塗れの状態だった。糞尿まみれの服は不潔に黒ずみ、全身から吐き気をもよおす異臭が放たれていた。
憔悴の色濃い面持ちで足元もおぼつかないレイジは、独居房からの生還者の常として日常寝起きする房には直帰せず、手錠で抉れた手首を治療しに医務室に寄る事もなく、シャワー室にとびこんだ。
それは正しい選択だった。
独居房から出された直後のレイジは、とても見られた風体ではなかった。
一週間もシャワーとは無縁の不衛生な環境に寝転がっていたのだから、これ以上悪臭を振りまいて通りすがりの囚人を不快にさせる前にシャワー室に赴いたのは賢い選択だった。
僕は今、レイジのシャワーに強制的に付き合わされている。
妙なことになったぞ、と腕組みしながらため息をつく。
レイジの身柄引き取り人になったのは僕だった。同房のロンは重傷で入院中のため、独居房から出されたレイジの身柄を譲りうけるのは消去法で僕の役目となった。
後ろ手に手錠をかけられたレイジが、看守に挟まれて通路を歩いてきた時、僕はそのあまりに変わり果てた姿に怯んでしまったが、レイジ本人に独居房送りを命じた責任者としてその場に居合わせた安田は表情ひとつ変えなかった。
レイジが一歩近寄るごとに、鼻腔の奥を刺激して涙腺に染みる悪臭がひどくなる。憔悴したレイジがふらふら近付いてくる姿を目の当たりにして動揺を隠しきれない僕に、安田は小声でアドバイスした。
『レイジは独居房から出された直後で体調が万全ではない、シャワーを浴びるにも何をするにしても補助がいるだろう。鍵屋崎、レイジの友人なら力になってやれ。レイジがシャワーの途中で倒れないか見張っておけ』
『僕もシャワー室に入るんですか?』
おもわず抗議の声をあげてしまった。
シャワー室に入る、ということはレイジがシャワーを浴び終えるまでじっと監視するということだ。安田の言い分が一理あるのはわかるが、いかに同性とはいえ、他人を裸を見るのは抵抗がある。難色を示した僕を眼鏡越しに一瞥し、安田は事務的に付け加えた。
『一緒にシャワーを浴びろと言ってるわけじゃない、少し離れた場所でレイジを見張っておけばいい。万が一レイジが倒れたら助けを呼ぶ必要があるだろう?全裸で失神して長時間だれにも発見されずシャワーに打たれていたら風邪をひいてしまう。そうしたら今晩の決勝戦に臨めない、違うか?』
決勝戦。
安田が発した言葉は、ひどく重々しい響きを伴っていた。
そうだ、今晩にはペア戦決勝戦が予定されている。東京プリズンの歴史に残る試合、ブラックワークの前例を覆す前代未聞の試合、他の3トップを下して勝ち残った者が東西南北を掌握するという取り決めのもとに行われる東京プリズンの分岐点となる試合。
今日の試合にすべて勝てばレイジは100人抜きを実現し、僕たち四人は晴れて自由の身となる。
僕とロンは売春班に二度と戻れなくてすみ、サムライも両手の腱を切られることなく今までどおり刀を振るうことができ、レイジは東棟の王様として悠悠自適な生活を謳歌できる。
僕らは絶対に、今晩の試合に勝たなければならない。勝ち残らねば生き残れないのだ。
僕は渋々納得した。たしかに、シャワーの途中でレイジに倒れられたら困る。湯冷めなんてとんでもない。
現時点におけるレイジの退場は、僕ら四人の運命をも左右する重大な損失。
僕にはロンとサムライの分までレイジを監視する義務がある。復活したレイジを無事リングに送りとどけ、決勝戦の一部始終を見届ける義務がある。
だから僕はこうしてシャワー室の壁に凭れ、憮然と押し黙ってレイジの鼻歌を聴いている。聴けば聴くほど音痴な鼻歌にあきれかえる。シャワー室ではよく声が反響するため、コンクリ壁に跳ね返った鼻歌が殷殷と余韻をおび、わずかな時間差をおいて鼓膜へと押し寄せる。
ふと、スイングドアに腕を凭せ、レイジが身を乗り出す。
「キーストアも一緒に浴びね?気持ちいいぜ」
「遠慮しておく。僕は君と違って人前で肌を露出して倒錯的な快感に浸る趣味はない」
「ひとを変態みてえに言うなよ、傷付くなあ。俺だってなにも好き好んでお前の目の前でシャワー浴びてるわけじゃねえ。勘違いすんなよキ―ストア、お前が勝手に中までついてきたんだろ」
「安田に言われたからだ。僕は気が進まなかった」
「可愛げねえの。俺のヌード、タダで鑑賞できるんだからもっと喜べっつの」
「重大なことを忘れてないか?僕は不感症だ、同性の裸を見たところで性的興奮など覚えはしない」
「興奮するのは妹のヌードだけってか」
「……恵を侮辱する気か貴様」
壁から背中を起こし、腕組みをといてレイジを睨みつける。
「近親相姦の誤解を招く発言はよせ、僕の恵に対する気持ちは純粋な親愛の感情だ。僕は恵の裸に興奮したりしない、妹の裸に浴情するなど兄失格だ。今の発言は取り消せ、前言撤回しろ。僕は恵に対し君がロンを対象とするようなやましい妄想を抱いたことなど一度も……」
「冗談だよ。むきになるとかえって怪しいぜ」
スイングドアに腕をかけたレイジが肩を竦める。
からかわれていたと知り、一瞬殺意が芽生えた。赤面した顔を眼鏡のブリッジを押し上げるふりで隠した僕の目に、レイジの胸に垂れ下がった十字架がとまる。
水滴を弾き、まばゆい金色にきらめく十字架。
「シャワーを浴びるときも外さないんだな」
あきれ顔の僕に、レイジは軽薄に笑ってみせる。
「お守りだからな」
気取った手つきで十字架を捧げ持ち、キスをする。裸でさえなければ、信心深いとでも表現できそうな神聖な場面。
幸福そうな笑顔で十字架に口付けるレイジの裸身に不覚にも目を奪われる。
シャワーに濡れてしっとり額に纏わりついた前髪、長時間の湯浴みで仄赤く上気した肌。
恍惚と潤んだ艶かしい眼差しを翳らせるのは、切れ長の双眸を縁取る驚異的に長い睫毛。精悍に引き締まった肢体を惜しげもなく晒したレイジは、伏し目がちに感傷に浸るかのように掌中の十字架を見つめている。
男にこんな表現を使うのはおかしいが、レイジは綺麗だった。
腰はスイングドアで隠されていたが、猫科の肉食獣めいてしなやかな筋肉がついた体と完璧に均整がとれた四肢は、誰もの目を奪わずにはおれない芸術的な彫刻美を体現していた。極上の絹めいた張りと艶のある褐色肌には、若い生命力を凝縮した精気がみなぎっていた。
レイジの全身から湯気に乗じて漂いだす野生の色香。
水に濡れて額に纏わり付く髪も、淫蕩に上気した肌も、柔和に凪いだ眼差しも虚心の表情もかすかに笑みを湛えた口元も。
すべてが薄靄の湯気に包まれる。
「……聞いていいか」
ためらいがちに口を開く。
「なんだ」
湯気の帳の向こうから声がする。奇妙に反響する声の主はレイジ。口にしたものの、僕は質問を続けようか否か迷っていた。湯気で湿った壁に凭れ、腕を組んで考え込む。本来僕が踏みこむべき問題ではない、だが今を逃したら改めて聞き出す機会は訪れない予感がする。
眼鏡を外し、白く曇ったレンズを上着で拭う。
綺麗に拭ったレンズを目の位置に翳し、湯気の向こうを透かし見る。シャワーの温水に打たれながら、レイジは怪訝そうな表情でこちらを眺めている。
よし。
眼鏡をかけなおし、決心する。
「あの夜、ロンと何を話したんだ?」
ずっと疑問だった。あれほど荒れていたレイジが、僕の説得にも耳を貸さずにリングで暴威を振るったレイジが、ロンとの話し合いを経て元に戻った経緯には無関心ではいられない。あの夜、レイジとロンの間にはたしかになにかがあった。
レイジとロンの間に起きたことに関しては漠然と察しはつくと以前僕は言ったが、レイジの口から真相を聞きたい気持ちも心の片隅に存在していた。
思い出すのは、衝立のカーテンを開けた時。
ロンのベッドで幸せそうに眠りこけるレイジの姿。安心しきった寝顔。
実際にはレイジの方がロンを抱いていたのでこの喩えは正確ではないが、聖母の胸に抱かれたキリストのように安らかな寝顔だった。
レイジとロンの間になにがあったのか、知りたい。
レイジとロンの件に関しては僕もさんざん振りまわされたのだから、それくらいは要求してもかまわないだろう。ロンは僕がどう足掻いてもなし得なかったことをたやすく成し遂げてしまった。
血に飢えて暴れ狂う豹を、ほんの数時間の話し合いで従順に飼い馴らしてしまった。たった数時間の話し合いで暴君を改心させてしまったのだ。
レイジとロンがどういった経緯で和解に至ったのか、好奇心を刺激されないほうがおかしい。
スイングドアに腕をかけ、レイジはしげしげと僕を眺めていた。
核心をつく質問に驚いた様子もなく、スイングドアから腕をどかし、気だるげに髪をかきあげる。なにげない一挙手一投足にさえ付き纏う退廃的な色気。水に濡れそぼった髪を緩慢な動作でかきあげ、かぶりを振って水を弾く。スイングドアから身を乗り出したレイジが、片腕を虚空にさしのべ、人さし指を折り曲げる。
「?」
「知りたいんだろ。来いよ」
レイジがにっこりと微笑む。
わざわざ呼びつけずとも十分声が届く距離なのにもってまわったことを、と舌打ちしながら歩き出す。極上の笑顔で僕を出迎えたレイジが、もっと近くに寄るようにと人さし指を動かす。
レイジに促され、緊張の面持ちで顔を近付ける。
裸の上半身を乗り出し、僕の耳元に顔を寄せ、レイジが囁く。
「内緒」
「……………………………………………そんな幼稚な真似をするためにわざわざ八メートルの距離を歩かせたのか、君は」
瞬時に怒りが沸騰した。まったく無自覚にレイジの悪戯にひっかかってしまった僕自身にも。
不愉快この上ない表情の僕をレイジは遠慮なく笑い飛ばしてくれた。
「ははははははははは、かっわいいなーキーストア!もうちょっと人を疑うこと覚えろよ天才、頭いいくせに単純すぎる。それとも何、俺には気を許しちゃってるわけ?だからこんな簡単に手が届く至近距離まで近寄ってこれたわけ?無防備にもほどがあるぜ。サムライも気が休まる暇ねえな、同情するぜ」
「今はサムライは関係ないだろう」
頬を染めて言い返せば、笑い声を引っ込めたレイジがいきなり顔を突き出す。
僕の目を挑発的に覗きこむ色素の薄い瞳。
底知れない虚無を秘めた双眸。
「少しは警戒心もてよ、キーストア。この距離なら確実にお前殺れるぜ、俺」
レイジの双眸に物騒な光が過ぎる。殺意の眼光。
裸の胸に十字架をさげたレイジが殺しの手段を厭わない暗殺者の顔で囁けば、鼻先にナイフを突き付けられた忌まわしい記憶がよみがえり、こめかみを冷や汗が伝う。
怯むものか。
奥歯を噛みしめ、しっかりと床を踏みしめる。僕はもうレイジに怯えないと決めた。準決勝のリングでどんなに変貌してもレイジはレイジだと確信に至ったではないか。この僕が、IQ180の天才たる鍵屋崎直がレイジに怯える理由などないのだこれっぽっちも。
それを今ここで証明しなければ、僕はレイジの仲間でいられない。
安田に友人だとレイジを紹介したことまで、嘘になってしまう。
「君は僕を殺せない」
口元に笑みを浮かべ、自信ありげにレイジを見返す。皮肉げな笑顔を向けられたレイジが当惑する。
「どうしてそう思うんだ」
シャワーに背中を打たせつつ、だらしない姿勢でスイングドアに凭れかかったレイジが探るように僕を見る。疑問の色に染め上げられた眼差しと怪訝な表情からは、僕の自信の根拠を純粋に不思議がっている内心が見てとれた。
だから僕は言ってやった。
そんなあたりまえのこともわからないのかと小馬鹿にした口調で、尊大に腕を組んで。
「僕を殺したらロンが哀しむ。ロンを溺愛する君が彼を哀しませるようなことをするはずがない、絶対に。俗な言い方をすれば、そう……惚れた弱みだな」
「ははははははははははっはははははっ!キーストアそれ面白い最高、ツボった!」
レイジが爆笑する。
喉を仰け反らせ肩をひくつかせ大袈裟に笑い転げるレイジを、僕は冷めた目で眺めていた。べつに面白いことを言ったつもりはない、ありのままの事実を述べたまでだ。壁を平手で叩いて哄笑するレイジの肩がゆっくりと浮沈し、深呼吸とともに笑いの発作が終息する。
壁に片手をついた前傾姿勢でこちらを振り返ったレイジが、悪戯っぽく微笑む。
「……そうだな、そのとおりだ。お前を殺したらロンが哀しむ。ロンが泣いたら俺も哀しい。だから特別にお前のこと殺さないでやる、感謝しろ」
「この場合は一応礼を述べておくべきか?それとも貴様何様だと声を荒げて罵るべきか判断に迷うな」
「もうひとつあるぜ、お前を見逃してやる理由」
「なんだ」
スイングドアが揺れる。
水に濡れた手で僕の頬に軽く触れるレイジ。ごくさりげない親愛の表現。僕の頬に手をおいたレイジの瞳に視線をとらわれる。悪戯っぽい笑みを含んだ薄茶の瞳には、どことなく憎めない愛嬌がある。
「ロンには及ばないけど、お前のこと結構気に入ってるんだよ。気が向いたら愛人にしてやってもいい」
「断る」
「即答かよおい。じゃあ一回寝てやってもいいに変更」
「僕に拒否権はなしか?それ以前に、好悪の判断基準は性行為に及びたいか否か究極の二択に集約されるのか?どこまで下世話な男なんだ君は、品性のかけらもない。たまには下ネタをまじえず話ができないのか、万年発情期め」
嘆かわしげにかぶりを振りレイジの手を叩き落とす。
手をはたかれたレイジが舌打ちするが、口元がにやけているので取り合わない。
「さっきの話だけどさ」
レイジが唐突に話題を変える。
視線をやや上向きに、湯気がたゆたう天井を仰ぎ、思い出したように言う。
「ロンは許してくれたんだ」
「は?」
その呟きがやけに深刻に聞こえ、まじまじとレイジの顔を見る。
シャワーの湯気を四肢に纏わりつかせたレイジが、五指と五指を交差させ、腕を一本によりあわせ、豹のように伸びをする。
レイジの胸で輝いているのは、水滴に濡れた十字架。
贖罪の証。
「俺がそばにいてもいいって、俺にそばにいてもらいたいって言ってくれたんだ。馬鹿だよな、俺のことホントは怖いくせにそれでもいいからそばにいてほしいって頑固に言い張ってさ。俺がいつまたキレてあいつに手を出すかわかんないのに、そんなくだらないことうじうじ悩んでるんじゃねえって一喝されちまった。カッコ良かったぜ、あいつ。ガキだガキだって侮ってたけど、ちょっと見ないあいだにすげえ成長してた。相変わらず背は伸びねえけど、あれくらいの方が懐に抱いて寝やすいから問題なしってね」
ああ、そうか。ようやく腑に落ちた。
レイジはずっとだれかに、自分の身近にいるかけがえのないだれかに許しを乞いたかったのだ。自分の身近にいるかけがえのないだれかに許しを得たかったのだ。
おのれの罪深さを告白して、懺悔したかったのだ。
そして。
こんな罪深い自分でもそばにおいてはもらえないだろうかと、一縷の希望に縋った。
「ロンは俺に許しを与えてくれた。俺の懺悔を、最後までちゃんと聞いてくれた。耳をふさがずに、まっすぐ俺の目を見て。怖かったと思うよ。あいつまともだから、すげえいいヤツだから、俺の狂った過去とか聞かされて後悔したと思う。でも全部ひっくるめて受け止めた上でそばにいてほしいって言ってくれたんだ。いちばん欲しい言葉をくれたんだ」
レイジの笑顔は澄んでいた。
永い苦悩から解放された、晴れ晴れとした笑顔。
「ロンは俺の救い主なんだ。今までさんざん人殺してきてこんなこと言うのもアレだけど、俺は誰かに許してもらわなきゃこのさき生きてく資格がないって思いこんでて、とんでもないことしでかした俺を許してくれそうなお人よしをずっと待ってたんだ。それがロンだった」
十字架を握りしめ、締めくくる。
「俺はロンに、笑顔を貰ったんだ」
感傷を振りきるようにコックを締めて顔を上げる。コンクリ床を叩く水音が途絶え、シャワーが止む。
「キーストア、タオルとって」
「僕はホテルのボーイじゃないぞ」
「だろうな。その性格で客商売に就いたら三日でクビだ」
いちいち癇にさわる男だ。
文句を言いたいのをこらえ、タオルをレイジに投げる。虚空に手をのばしてタオルを受け取ったレイジが、高らかに宣言する。
「勝つぜペア戦、やるぜ100人抜き」
あざやかにタオルを羽織り、スイングドアを蹴り開けたレイジが、挑発的な流し目を僕にくれる。
「天才と王様が組めば不可能はない。だろ?」
大胆不敵な面構えで言いきるレイジにため息を吐き、眼鏡のブリッジを押し上げる。
「あたりまえのことを言わせるな。時間の無駄だ」
今晩ついに、僕らの運命が決まる。
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