少年プリズン

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三百十九話

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 「目があああああああああああああああああっあああああっ!!!」
 僕は見た、サーシャの右目が血飛沫を噴く瞬間を。
 レイジが右目を切り裂く刹那を。
 背中の足をどけて跳ね起き、生皮剥がれた獣が最期の力を振り絞るかのごとく猛然と疾駆、電光石火でナイフをすくいとる。
 鋭利に研ぎ澄まされた刃の鏡面が決死の覚悟を表したレイジの横顔を写し取る。脂汗に濡れた額に前髪を被せ、寝乱れたおくれ毛で顔を縁取り、憔悴の色を滲ませた横顔。
 背中には重度の火傷を負っていた。ライターの炎で炙った高熱の刃を裸の背中に押し付けられたのだ。焼き鏝で烙印を付すにも似た残虐な拷問。
 レイジがいまだに意識を保っているのが不思議だった、普通の人間なら途中で失神してもおかしくない激痛なのにレイジはしぶとく正気を保ち続けた。
 幼少期に施された過酷な訓練の成果、拷問の苦痛に慣れていることが裏目にでたのだ。レイジは痛みに強い。苦痛に耐性のある人間だ。万一暗殺に失敗して敵の捕虜となった場合、拷問で自白を強要されても屈しないよう、子供の頃からあらゆる苦痛に慣らされてきたといつだったか本人が笑いながら語った。
 生きながら背中を焼かれる地獄の責め苦を味わい、おのれの皮膚が焦げゆく悪臭を嗅いでも、レイジは気絶できなかった。目には朦朧と膜がかかり、半分意識を失いかけていたが、焼き鏝が背中に押し付けられて皮膚が赤黒く捲れるたびにこの世ならぬ絶叫をあげて上体を跳ねあげた。
 痙攣。焼傷のショック症状。
 レイジは危険な状態だった。化膿した片腕を抉られ踏みにじられ、覚せい剤をすりこまれ、焼き鏝と化したナイフで背中を十字に焼かれて、普通の人間ならとっくにショック死してもおかしくない重傷を負っているのだ。
 この場合痛覚が生きてることは不利にしか働かない、レイジは現在指一本動かすだけでも神経が焼き切れる焦燥に苛まれているはず。
 一糸纏わぬレイジの背中には十字架の烙印が刻まれている。暴帝の足元に四つん這いにひれ伏して焼き鏝を押されたあと、贖罪の十字架。神の祝福を受けた聖痕か忌まわしい烙印か、そのどちらともつかぬあまりに無残なしるし。背中に十字架を負ったレイジがナイフを構えて疾駆、それに気付いたサーシャが獣じみた奇声を発してナイフを振り上げる。
 脱皮した白蛇のように銀髪が逆立ち、掌中のナイフが剣呑に輝く。
 『мой победа!!』 
 私が勝者だ!
 『I win!!』 
 俺が勝者だ!
 光集めたナイフの切っ先に殺意を託して腕と腕が交錯、風切る唸りをあげて宙を斜めに、互い違いに振り下ろされる。銀に研ぎ澄まされた残像の弧を曳いて交錯、ナイフの片方が容赦なくサーシャの眼窩を抉る。右目が血飛沫を噴く。鋭利な刃物で切り裂かれた右目を反射的に押さえるサーシャ、その手のナイフは容赦なくレイジの左目を貫いていた。レイジは無防備にこれを受けた、自分の片目を犠牲にしてサーシャの隙を誘い致命傷を与えんとしたのだ。防御も何もなかった。レイジは起死回生の勝機を得るため、サーシャに逆襲するために自分の片目を捨てたのだ。
 光を捨てたのだ。惜しげもなく。
 自己犠牲。献身。神が天に両腕をかざして光あれと叫んでも無駄だ、もう光は戻らない。
 サーシャのナイフはレイジの左目を容赦なく切り裂いて大量の血を滴らせて完全に光を奪い去った。失明の危機。だが、サーシャとて無事ではすまない。レイジと刺し違えた片目の傷は深く、視界の半分が塞がっている状態だ。条件は互角。両者とも視界を半分奪われた状態で試合を続行せねばならない。
 「くそっ!」
 下品な悪態を吐き、金網を殴る。
 レイジが傷付くことは覚悟していた、命がけでロンを守ると誓ったレイジなら如何なる犠牲を払ってでもそれを成し遂げると予期していた。だがこれは、これは……酷いじゃないか、あまりにも。片腕の怪我は悪化、背中には重症の火傷、そして片目は失明。レイジは既に五体満足といえない。そればかりか、無事に生還できる見こみすらないのだ。
 レイジがサーシャに打ち克ち100人抜きを成し遂げたところで彼が死んでは何の意味もない、彼一人の犠牲を代償に僕らの安全が保証されたところで特典を甘受できるわけがない!
 僕ら四人が全員生還してこそ初めて100人抜きに意味がある、誰か一人欠けても無意味だ、勝利に犠牲が付き物など痴れ言だ、くそくらえだ!
 レイジは僕の仲間だ。いいだろう、おおいに癪だが認めてやろうじゃないか。あんなふざけた男でも僕の仲間だ。時には喧嘩をして時には激しく罵り合って時には背中を預けてペア戦をここまで勝ち抜いてきた仲間なのだ。
 もしもレイジが死ぬようなことがあれば、僕は。僕たちは。
 「犬め、サバーカめ、梅毒に感染した淫乱な雌犬め!またしてもまたしても飼い主に手をあげたな、私に噛み付いたな無礼者めが!!」
 「ああ噛みついてやったさ、それがどうしたよラストエンペラー!?どうしたんだよそんなうろたえて、そんなに片目なくしたのがショックかよ、物凄い悲鳴あげやがって!」
 眼窩からナイフを引き抜き、迅速に飛び退く。片目を押さえて悶絶するサーシャと五歩離れて対峙、全身に闘志を漲らせて嬉々と笑うレイジ。だが彼もまた、ナイフで貫かれた左目を五指で覆っていた。
 「はっははっはは!これで俺たちお揃いだな、右と左で世界を半分こだ!飼い犬とお揃いで嬉しいだろ皇帝サマ、飼い主冥利に尽きるだろ?俺とおなじ暗闇に堕ちた気分はどうだよサ―シャ、右の眼窩が地獄と通じた居心地は?」
 レイジが肩で息をしながらナイフを構え直す。手で押さえたままの片目からはしとどに五指を染めて鮮血が滴っている。
 「これ以上変態の悪趣味に付き合わされるのはうんざりなんだよ。公開SMショーでさんざん恥かかせやがって……お婿にいけなくなっちまうだろうが」
 「家畜に婚姻の自由を認めた覚えはないがな。それにお前とて私に踏みにじられ背中を焼かれて、はしたない鳴き声をはりあげてよがり狂っていたではないか。歓喜の涙まで流したくせによもや忘れたとは言わせん」
 殺戮の余韻に恍惚と酔い痴れ、狂気に濡れ光る隻眼を虚空に据えたサーシャに、レイジがうんざりため息をつく。
 「おいおい、あれが本当にそう見えたってのか。笑えるぜ皇帝。今ここでもう片方の瞳を抉りとってやろうか?禊の泉みたいに綺麗でも真実を歪めて映す瞳なんざ無いほうがマシだね」
 残る片目を眇め、涙が乾いた頬をひくつかせ、レイジが皮肉げに笑う。
 「あれはただたんに『痛すぎて』泣けたんだ。よすぎたからじゃねえ」
 レイジとサーシャのあいだで殺気が撓む。試合再開。乾いた銃声が鳴り響き、全員の注意が逸れた一瞬の隙にサーシャの支配から脱したレイジだが、体力はそろそろ底を尽きかけている。残る片目を半眼にしてサーシャを睨みつけてはいるが、外気に晒した背中がひどく痛むらしく、足で体重を支えきることができずに何度も膝から崩れかける。
 「もったいない。二人とも綺麗な瞳をしていたのに」
 「!」
 背後に気配を察して振り向けばホセがいた。サムライとの試合以降姿が見えないと思ったら人ごみに紛れて接近していたらしい。まったく、油断も隙もない。
 「何の用だ、南の敗者が。君の試合は終了したんだからもう地下停留場に用はないはずだろう。それとも、嫌味を言いにきたのか」
 「そう邪険にしないでくださいよ。弟子の様子が心配で観にきたです。ほら」
 ホセが顎で促したほうを見れば、ロンが金網にしがみつき、真っ赤に充血した目で食い入るようにリングを見つめていた。まるでそうしてないと永遠にレイジを失ってしまうと強迫観念にとらわれてるかのごとく、片時たりともレイジのそばを離れずレイジから目を逸らさず、金網に額を預けていた。
 「まるでロンくんのほうが死んでしまいそうな顔色じゃありませんか」
 ホセの言う通りだ。レイジと痛みを共有してるかのようにロンの顔色は酷い。いや、これは……僕にはまるで、ロンがレイジの痛みを分担してるように感じられた。本来レイジ独りで抱えこばねばらない激痛を、金網を挟んだロンが自らすすんで請け負ってるように感じられた。
 苦難の連続に耐えるように目を瞑り、悲痛に顔をしかめ、胸に片方のこぶしをあて、天に祈りを捧げるように頭をたれる。
 死ぬなレイジ。死なないでくれレイジ。
 勝敗など二の次に、ただそれだけを一心に祈り続ける孤独な後ろ姿。
 「ロンくんを哀しませないためにも、レイジくんには健闘してほしいですね」
 僕の隣に立ったホセが同情をこめ、その実、本心が読めない口調で言う。黒縁メガネの奥の目は深沈と謎めいている。本当にレイジの無事を祈ってるのかどうか人あたりよい微笑からは推し量れない。
 いついかなる時も社交的な笑顔を絶やさない南の隠者、ホセ。
 脳裏を一抹の疑問が過ぎる。いつだったか、ヨンイルとホセとが共同宣戦を布告した真相を知ったときからずっと脳の奥に巣食っていた疑問。
 ホセの本当の目的はなんだ? 
 僕に語ったほかに、隠された真の目的があるのではないか?
 僕の心を見抜いたようにホセが向き直り、微笑みかける。 
 「悔しいですが、吾輩たちにできることはもう何もありません。レイジくんが倒れるかサーシャくんが倒れるか……どのみち時間の問題な気もしますが、吾輩たちにできることはただこうして金網越しに試合を観続けるだけ。せめて神に祈ろうではありませんか、サーシャくんとレイジくんが無事こちら側に生還できるように」
 ホセが黒縁メガネの弦にふれる。
 「すべて神のみぞ知る、です」
 「それで綺麗にまとめたつもりか?ふざけた話だ。神が全知全能だと誰が決めた、そんな俗説僕は認めない。第一神が存在する根拠がない。僕は神の存在を信じない、すべて神のみぞ知るなどと詐称しておのれの選択に伴う結果まで他者に責任転嫁するのは我慢ならない」
 僕らの未来を、神などといういい加減なものに託してたまるか。
 僕らの運命を、現実にいもしない神などに決められてたまるか。  

 出会いが人を変えて、人が運命を変えるのだ。
 人が運命を動かすのだ。

 今の僕にはそれがわかる。サムライと出会えてかけがえのないものを得た僕なら。あらかじめ定められた運命と心中するくらいなら死ぬ気で抗ってやるとそう決めたのだ。もとより僕は運命論者ではないが、東京プリズンに来ておのれの頭脳をもってしてもどうにもならないことの数々に直面するうちに、いつのまにか「どうにもならない現実」を許容することに慣れてしまった。
 だが違う、そうじゃないんだ。諦めてはいけないんだ、抗い続けねばならないんだ。それを教えてくれたのはサムライだ。ロンだ。レイジだ。売春班の面々だ。僕が東京プリズンで出会った信頼のおける仲間たち、僕が得た仲間たちだ。
 失ってなるものか、絶対に。
 手放してなるものか、絶対に。
 「レイジ!!」
 激しい衝動に駆りたてられ、ロンの横に並び、金網を掴む。レイジは僕の仲間だ。いつもくだらない冗談をしてふざけて笑っている調子のいい男だが、僕はいつのまにか彼に心を開いて、彼のことを身近に感じていて。
 失いたくない。
 僕らのもとへ帰ってきてほしい。東棟へ凱旋してほしい。
 帰ってこい。王様。迎える準備はできているから。
 「レイジ、敗北したら承知しないぞ!準決勝では僕にさんざん手を焼かせた貴様が、背中の火傷と片目の失明と片腕の怪我くらいで膝を屈するものか!レイジ、貴様は王様だ!僕らを代表する東棟の王様、東京プリズン最強の男、ロンの相棒、僕が心を許した友達だ!」
 胸が熱くなる。周囲の人がいるのに、大勢の人間が見ているのに、こんなに取り乱してみっともない。だが、言わなければ。伝えなければ。手が届かないならせめて言葉を伝えなければ。レイジが死ぬのは嫌だ、レイジの死と引き換えに手にする勝利など無意味だ。僕とロンが売春班からぬけられてもロンの隣にレイジがいなければ何の意味もない、レイジの笑い声が聞こえなければ何の意味もない!
 「レイジ、また鼻歌聞かせてくれよ」
 ロンが呟く。切なる願いをこめるように胸にこぶしをあて、真っ赤に充血した目をしばたたき、涙を呑みこむ。声はかすれていた。語尾は震えていた。泣くのを必死に我慢して笑みを浮かべて、金網を揺すり、吶々とレイジに訴えかける。
 「俺、やだよ。お前の鼻歌が聞けねえなんてやだよ、あのへったくそな鼻歌がなけりゃぐっすり眠れないんだよ。ビリー・ホリディのストレンジ・フルーツ、だっけ。お前さ、笑っちまうくらい音痴だよな。ビバリーが口ずさんだのと全然違うじゃん。レイジ覚えてるか?前に言ったよな、俺がなんでも上手くこなせるお前のこと羨ましがって嫌味言ったら自分にもできないことあるって言ったよな?お前ド忘れしてるよ、できないことまだあるだろ笑顔のほかにも沢山さあ!?」
 ロンが肩をひくつかせて金網を殴る。痙攣する背中。奥歯を噛みしばり嗚咽を殺し、ロンは続ける。
 「ちゃんと練習して音痴直して、いつか、ほんとのストレンジ・フルーツ聞かせてくれよ。お前が好きな歌。俺まだほんとのストレンジ・フルーツ知らないんだ、お前がいつも唄ってるデタラメなやつしか知らないんだ。歌だけじゃない、俺まだお前のこと何にも知らないよ、一年半ずっと一緒にいたけどまだまだ沢山知らないことあるよ!!」
 「俺とてそうだ!」
 僕の隣でサムライが叫ぶ。片手に木刀を握り、激情に駆りたてられるがまま。
 「死ぬな、レイジ。直が売春班送りになったとき、どうすべきかと煩悶していた俺に喝を入れたのはお前だ。お前がいたから俺は今ここにいる、直の隣にいられる、信念をまっとうできるのだ!お前には言葉では言い尽くせぬほど感謝している、何度土下座してもたりないほどの恩義を感じている。レイジよ、俺が恩を返しきるまで死ぬなど許さんからな!彼岸に渡るなど言語道断だ!」
 ロンの歯型がついた手で、渾身の力をこめ木刀を握る。僕、ロン、サムライ。三人金網を掴み身を乗り出し、喉を絞り、声を嗄らしてレイジに呼びかける。僕らの声援がせめてレイジの支えになればいいと、レイジを後押しする動力になればいいと。
 「レイジ、勝てよ!サーシャごときに負けるなんざ東棟の大恥だ、リングでくたばったらてめえの死体に小便ひっかけてやるからな!」
 凱がこぶしを突き上げ、濁声で怒鳴る。売春班の面々も口々にレイジを応援する。それまでサーシャに注ぐ声援に圧倒されていたが、最前列で声を張り上げる僕らに感化されたものか、周囲にたむろっていた東棟の囚人が目配せを交わし、そして……
 「王様」
 最初は小声だった。周囲の喧騒に紛れて消えそうな泡沫の呟き。 
 「王様」
 熱狂は空気感染する。
 最前列にて声をはりあげる僕とロンとサムライと、金網によじのぼり、照明に近い位置で両手を振り回す凱と、肩を小突かれようが髪を毟られようが梃子でも動かずレイジを応援し続ける売春班の面々と。
 レイジの名を連呼する僕たちにあわせ、周囲の人ごみに埋没していた東棟の囚人がまたひとり、またひとりと歩み出る。狂騒の熱に浮かされ、夢遊病者めいた足取りで歩み出た囚人の中には見覚えある顔も混じっている。
 食堂でわざと僕に肘をぶつけた囚人。ロンに味噌汁をかけた囚人。
 普段レイジを嫌ってる囚人も、僕らを敬遠してる囚人も。
 自身が帰属する棟のトップ、東棟の王様絶体絶命の窮地に見栄も体裁もなげうち、一夜限りの協同戦線を組んで隙なくリングを取り囲む。照明の光線も届かぬ地下の暗がりにこれ程東棟の人間に埋もれてたのか、と驚く大群が怒涛をうってなだれこむ。
 「王様!!」
 誰かが腕を突き上げる。
 「王様!!」
 呼応するかのように腕が上がる。何本も何本も。
 「「王様!!」」
 「「王様!!」」
 「なにちんたらやってんだ、てめえそれでも東棟のトップか、俺達のてっぺんに立つ最強の王様かよ!」
 「北の皇帝ごとき鼻歌まじりに殺っちまえよ!」
 「王様は最強だ!」
 「東棟は最強だ!」
 「東棟が一番だ!」
 「王様万歳!」
 「「王様万歳!!」」
 鼓膜が痺れるほどに膨れ上がる声援。他棟の囚人を力づくで押しのけ蹴散らし、掴み合いの乱闘の末にリング周辺を占拠した東棟の囚人勢が床を踏み鳴らし野次をとばし盛大に騒ぎ立てる。全員が全員レイジを応援している。王様の勝利を信じている。
 我らが東棟のトップが他棟に膝を折るわけがないと熱狂的に確信してる。
 「『王様が死んだ、王様万歳』か」
 レイジが笑みを浮かべる。皮肉げな口調とは裏腹に、嬉しそうな笑顔。
 「はは、驚きだね。俺、自分で思ってたより人望あったみたいだ。見てみ、すごいだろサーシャ。お前の軍隊にだって負けてねえ」
 サーシャが面白くもなさそうに鼻を鳴らす。
 「東の間抜けどもがいくら吠えたところで無駄だ。レイジよ、改めて自分を見ろ。その怪我で戦うつもりか、試合を続行するつもりか。腕と目と背中に重傷を負い立っているのはおろか意識を保っているのが奇跡に近い瀕死の状態で、身のほど知らずにも北の皇帝に仇なすつもりか!!?」
 怒り荒ぶる咆哮をあげ、片目から手をどけるサーシャ。抉れた傷痕が痛々しい片目を瞑り、顔の右半面を朱に染めた凄惨な形相でレイジを睨みつけ、頭を屈めた低姿勢で疾駆。体前にナイフを引き付け、鋭い呼気を吐く。レイジは即座にこれに応じる。片目から手をどけ、咄嗟にナイフを立て、サーシャの刃を受ける。
 刃が刃を研磨する軋り音。
 潰れた片目から血を垂れ流し、顔の半面を朱に染め、北の皇帝と東の王が宿命的に対峙する。
 「何故だレイジよ、何故そうまでして私に逆らう?私の犬になれば苦しまなくて済むというのに……度し難い愚か者め、駄犬め!ああ貴様が憎い、憎いぞレイジ!!私はいつも貴様が憎くて憎くてたまらなかった、卑しい雑種の分際で、混血の私生児の分際で、お前はいつもいつもそうやって私を見下す!!」
 サーシャの顔が屈辱に引き歪み、ナイフを押し進める腕に尋常ならざる力が篭もり、いびつな軋り音を奏でる。
 「サーシャ、ひとつ訂正だ」
 レイジの口調は落ち着いていた。刃に乗せて叩き付けられた殺意の波動を手首の調節で受け流し、右目に悪戯っぽい光を宿し、サーシャの耳元に顔を近付ける。
 「俺、犬科じゃなくて猫科なんだ。豹なんだよ。猫科を飼い馴らすのは無理だろ」
 サーシャの耳朶に吐息を吹きかけ、嫣然と微笑む。サーシャの隻眼に憎悪が炸裂、甲高い音をたてナイフが離れる。サーシャが奇声を発する。蛇が毒液を吐くにも似た鋭い呼気を発し、鞭のごとく柔軟に腕を撓らせ、肩口を脇腹をレイジの死角を急襲する。だが、レイジはこれを回避。刃に前髪を切り裂かれ毛髪が数本宙に散る、刃に頬を切り裂かれ血の筋が滲む。刃が触れた人体部位からじゅっと蒸気が噴きあがり焦げ臭い匂いがたちこめる。
 もし今心臓を切り裂かれたらどうなる、サーシャの刃で心臓を刺し貫かれたら?レイジの背中を焼いた高熱の刃が体内に侵入して心臓を貫通すれば……血液が蒸発、細胞が壊死。レイジは即死。今度こそ間違いなく死亡。ロンが泣いても叫んでも僕が肩を揺さぶり名前を呼んでもレイジは二度と目を開けず、二度とこちら側に戻ることはない。
 「………っ、」
 心臓の鼓動が速鳴る。胸が苦しい。周囲の酸素濃度が薄くなって息が苦しくなった錯覚さえ覚える。心臓を鷲掴みにするこの感情の正体は……恐怖。僕はレイジを失うのが怖い、レイジが死ぬことを恐れている。
 「大丈夫だ」
 肩を抱く力強い腕、抱擁のぬくもり。隣にはサムライがいた。僕を庇うように寄り添い、しっかりと僕の肩を抱いている。サムライの目はリングを見ていた。壮絶な死闘を演じるサーシャとレイジを追っていた。僕の方は見ず、肩を抱いた腕に力をこめ、強い眼光を宿してサムライが断言する。
 「俺たちがついている。王が敗けるわけがない」
 言霊というものがもしあるとすれば、僕はサムライの声の響きにこそそれを感じ取った。僕たちがついてる。レイジが敗けるわけがない。口の中でくりかえし、深く息を吸い、顔を上げる。
 その瞬間、僕の眼前の金網にレイジの背中が激突。
 「!?な、」
 サーシャに追い詰められたレイジが、金網に背中を付け、ナイフの柄を持ちなおしている。やはり無理があったのか、片腕と片目と背中に重傷を負って立ち続けるのはおろか意識を保ち続けるのもむずかしい状態で試合を続行するのは無茶だったのか?疲労困憊のレイジが金網に背中を預け、ずり落ち、尻餅つく寸前でどうにか膝を支える。
 「レイジっ!」
 見かねたロンが僕を押しのけて金網にとびつき、ひし形の網目に強引に腕をくぐらせ、レイジの肩に触れた……次の瞬間。

 レイジが振り向き、金網越しにロンの唇を奪った。

 唇が触れ合ったのは一瞬だった。瞬き一回にも満たないごくわずかな時間。だが、それだけで十分だった。金網を挟んでロンの唇を奪ったレイジが、憔悴の色濃い顔に虚勢の笑みを浮かべる。
 「サンキュ。元気でた。ロン分補給完了だ」
 そう言って金網越しに手を翳し、ロンと手のひらを合わせる。
 手と手が重なる。指と指が触れあう。互いのぬくもりを求めるように指と指を組み、握りしめる。
 「……ばかやろう、ちゃっかりひとの精気吸ってんじゃねえよ。あとで倍にして返してもらうからな」
 ロンの顔が泣き笑いに似た崩れ方をする。仕方ないな、と苦笑する温かみのある表情。レイジの顔もおなじ崩れ方をする。
 ひとつに重なった手と手から互いのぬくもりが流れこむ。
 「死んだら絶交だかんな。忘れんなよ」
 「忘れねえよ」
 「守れよ約束。俺を独りにするなよ。折角抱かれてやる気になったんだから、がっかりさせんなよ」
 「おおとも。土壇場で泣いても許してやんねーからケツ洗って待ってろよ」
 レイジが息を吸い、吐き、顔に垂れた前髪の隙間から爛々と光る隻眼を覗かせる。
 「もうすぐ終わるから」 
 「睦言を交わしてる場合か?」
 蔑笑を孕んだ嘲弄。ロンとのやりとりに水をさし、レイジの前にサーシャが立つ。抉れた傷痕も無残な片目を前髪で隠し、狂気渦巻くアイスブルーの隻眼を細める。右の眼窩から飛び散った血痕がサーシャの顔を斑に染め上げて悪趣味な化粧を施している。「「ウーラン!」」「「ウーラン!」」「「ツァー・ウーラン」」……皇帝を崇拝する北の囚人が喝采をあげる中、横薙ぎにナイフを一閃。演舞と見紛う優雅な動作で血糊を払い腰を落としてレイジと対峙、いつでもとびかかれるよう膝を撓める。
 「お前を私の物にするには腕と目を奪ったくらいでは足りないか、もう片方の腕と目も取り上げれば主人に逆らおうとなどという世迷言は思わぬはず。犬の腕を切り落としても寝台遊戯に支障はない、目が見えずとも困らない、私の目的は東京プリズンの皇帝になること、そしてお前を手に入れること!お前がもう決して私のもとから逃げられぬよう私の手に噛みつかぬよう四肢を切断して調教をやりなおす!」
 「こいよサ―シャ。調教してくれよ」
 金網に背中を凭せ掛け、挑発的にサーシャを手招きするレイジ。前髪にはべったり血が付着して顔の左半分が朱に染まっている。ナイフを左手に持ち、構え、蛇がいつとびかかってきてもいいように腰を落とす。
 ―「東京プリズンを掌握するのはこの私、王座に上がるのはこの私だ!!」―
 アイスブルーの隻眼で閃光が爆ぜる。
 颯爽と銀髪を靡かせ、頭を屈めた低姿勢で疾走するサーシャ。ナイフを構えた右腕が斜め上空から滑降、大気を切り裂く鋭い音。金網を背に、体前に構えたナイフで兇刃を受け止める。腕が痺れる衝撃にレイジが奥歯を噛みしばり足で体重を支える。
 火花散る刃軋り。
 刃と刃が擦れ、噛み合い、至近距離に迫った互いの顔を銀の鏡面に写し取る。
 僕は見た、ナイフの刃に映ったレイジの笑顔を。サーシャの攻撃を受け止めつつ、レイジが鼻歌を口ずさむ光景を。周囲の歓声にかき消されてはっきりとは聞こえないが確かに唇が動いている。
 歌を口ずさんでいる。
 「ストレンジ・フルーツだ」
 刃越しにレイジの唇の動きを読んだロンが生唾を嚥下する。
 「なんてこった。こんなときに歌ってやがる。さすが王様、肝が据わってる。正真正銘の馬鹿だ」
 あきれたような感心したような口ぶりで、中途半端な笑顔でロンが寸評する。レイジは気に入りの歌を口ずさみながら、左腕一本でナイフを巧みに操り、サーシャの攻撃をかわす。ひとり踊っているかのように軽快な足取りで後退、口元には夢見るような微笑を湛え、前髪のかかる隻眼に稚気を閃かせる。
 「さっき擦りこまれた覚せい剤が効いてきたかな。痛みも感じねえし、すっげえご機嫌な気分。一晩中でも踊れそう」
 「痴れ言を」
 サーシャが唇を歪めて吐き捨て加速、レイジとの距離を詰める。サーシャから距離をとろうと後退したレイジの肘が金網にぶつかり、背中が金網に激突。行き止まり。勝利を確信したサーシャが隻眼に喜色を浮かべ、レイジが結わえた髪を掴む。襟足で一本に結った髪を掴まれ、吊られ、頭皮から毛髪が剥がれる激痛にレイジがもがき苦しむ。
 「吊られた男ですね」
 「まだいたのか隠者!?」
 僕の背後、顎に手をあてたホセが訳知り顔で頷き、僕らを等分に見比べて講釈をたれる。
 「ご存知ですか、タロットカード『吊られた男』の解釈を」
 「タロットカードの意味などどうでもいい、第一僕は占いなど実証根拠に乏しい非科学的なものは信じない!時と場所を考えて講釈をたれろ、可及的速やかに視界から消え……」
 僕の抗議を無視し、顎に手をあてたホセが淡々と呟く。
 眼鏡越しの双眸は油断ならぬ鋭さを帯びて、サーシャに後ろ髪を吊られたレイジを観察している。
 「逆位置における『吊られた男』の定義。状況を変えたいが、自分では何もできない。問題や障害はますます大変になり気が滅入る。自分では何もできない状況に悲観的になる」
 「この……!!」
 頭に血が上った。不要な知識をひけらかして僕らの不安を増長させるようなことを言ったホセに怒りが沸騰、声を荒げて詰め寄れば片手で遮られる。
 「ここからが本題です。『吊られた男』正位置の定義とは」
 眼鏡の弦に指を触れ、胡散臭い笑顔を浮かべ、ホセが続ける。
 「努力。忍耐。困難。障害。奉仕。慈愛。救済。成果。良い結果。自己犠牲が報われ、それ相応の結果を手にする。今までの努力や苦労が報われ状況は光り輝く……」
 状況は光り輝く。
 何もかも見通したホセの笑顔に胸騒ぎを覚え、慌てて正面に向き直る。金網に背中を付けたレイジ、襟足で一本に結わえたその髪を片手で吊り上げ、もう片方の手で頚動脈を掻き切るべく刃を閃かせるサーシャ。
 「さらばだ、王よ。血の海で溺れ死ね」
 「レイジっっっ!!!!」
 ロンが絶叫する。サムライの顔が苦渋に歪む。レイジの敗北はもはや避けられない事態なのか、予定された未来なのか?絶望に打ちひしがれ、よろけた僕の耳に届いたのは…… 
 
 「かかった」
 この場でただひとり勝利を確信した王様の独白。

 会場中誰もが目を疑った。
 後ろ髪を掴まれ喉をさらし、頚動脈をかき切られるのを待つばかりと見えた王様が、ナイフの刃を跳ね上げる。襟足で一本に結わえた髪を根元から切断、毛髪が盛大に宙に散る。サーシャの手に残ったのはゴムで括られた一束の藁、否、毛髪だけ……
 「!!!このっっっ、」
 サーシャの足が縺れ、腰が泳ぎ、重心がぐらつく。レイジの毛髪を掴んで宙吊りにしていたのに、それを根元から切り落とされ、レイジの頚動脈めがけて急接近したナイフの軌道がぶれる。サーシャの手元が狂った瞬間を見逃さず、レイジが反撃を仕掛ける。コンクリ床に片膝ついた体勢から強靭な脚力で伸びあがり、逆手にしたナイフの柄でサーシャの右目を刺突。
 先刻、自らが切り裂いた右の眼窩を。
 「ああああああああぐううああああああああっあああああっ、あああっ、ああああ!!!」
 凄まじい絶叫が会場中に響き渡る。ナイフの柄の部分で右目の傷口をつかれ、業火に灼かれた蛇の断末魔のごとく苦悶に身をよじるサーシャ。だが、レイジは容赦ない。あまりの激痛にナイフを放り捨て両手で右目を覆い、血痕が染み広がる床に膝を屈したサーシャの首に刃を添える。
 「いっ、ひいっ、あ……目、目が、私の目があああああああああっああっ!?この、殺してやる、殺してやるぞ!!よくも私の目を、皇帝の目を、たかが雑種の分際で!!」
 両手で庇った右目からぼたぼたと血の雫が滴り落ちる。狂気じみた呪詛を吐き、血だまりに膝を浸けて悶絶するサーシャの首筋にナイフの刃をあてがい、薄く皮膚を切り裂く。冷たい刃が皮膚を裂き、体内へと侵入する戦慄にサーシャが硬直。両手で右目を押さえたまま、虚ろな隻眼で上方を仰ぎ……
 レイジがいた。
 頚動脈の位置に正確にナイフを擬して、サーシャの首筋に浮いた朱線を眺めていた。
 
 優しい微笑みを浮かべ、レイジが訊く。
 『Dead or Alive?』
 
 歌声にも似た響きの死刑宣告。四囲から注がれる脚光を浴びて、足元に跪いたサーシャの首筋にナイフを添えて、いつでも頚動脈を切り裂けると笑顔で暗示し。
 サーシャが凝然と目を見開く。先ほど放り捨てたナイフを取りに戻る時間はない、指一本でも動かせばその瞬間に頚動脈を切り裂かれる。誇り高く奢り高い皇帝の隻眼に葛藤が渦巻く。
 誰もが固唾を飲み、サーシャが口を開くのを待っている。
 生か死か究極の二者択一。
 プライドをとるか命をとるかの葛藤が恐怖に駆逐されるまでそう時間はかからなかった。レイジが首筋に添えた刃に圧力をくわえ、緩慢な動作で横に引いたのだ。血管が裂け、真紅の雫が零れる。一本の管のように開いた喉から呼吸音が漏れ、隻眼で光が揺らめき、そして……

 「『……Alive』。私の、敗けだ」
 
 糸が切れたように首をうなだれ、血だまりにひれ伏したサーシャが苦渋の決断を下す。降参表明。誇り高く奢り高い皇帝の最期。
 ゴングが鳴る。僕の耳にはまるで王の凱旋を祝う銅鑼の音に聞こえた。
 審判がリングに上がり、震える足を叱咤してレイジとサーシャのあいだに割りこみ、両者を引き離す。
 「勝者レイジ!!」
 100人抜き達成の瞬間だった。
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