少年プリズン

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三百二十五話

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 熱狂に湧いたペア戦が五十嵐の発砲事件で幕を閉じたのが二週間前で、それを転機に東京プリズンは激変した。
 筆頭に挙げるべきはタジマの入院と無期限謹慎処分。
 巨大な鉄塊に潰されたタジマは背骨と頚椎を損傷、緊急要請されたヘリコプターで郊外の病院に搬送された。
 リンチの行き過ぎで死亡したら砂漠の穴に遺棄されるしかない囚人とは雲泥の差だ。警察長官の兄という強大なコネが多分に影響していることは日頃の行いには不相応な特別待遇をみても明らかだった。
 怪我の程度からみて復職は絶望的。生涯下半身不随の障害が残る可能性があるそうで、奇跡的に回復しても車椅子生活を余儀なくされるというのが噂に伝え聞いた医師の見解だ。
 自業自得だ。タジマは去勢されたも同然だ。
 彼の性器が勃起しないならそれにこしたことはないと僕を含めた売春班の面々は深く安堵している。
 タジマは失意のうちに東京プリズンを去った。もう二度と戻ってこないことを切に祈るばかりだ。タジマの帰還を喜ぶ者など東京プリズンには誰一人としていないのだから。
 タジマの抑圧から解放された囚人たちは以前にも増してのびのびと東京プリズンの空気を吸っている。主任看守のタジマが悲惨な最期を遂げたことで、タジマの二の舞にはなりたくないと多くの看守が考えを改めて規則の締め付けを緩めたのだ。
 だが、いいことばかりではない。
 看守の抑圧が和らいだことに加え、東西南北を治めていた四人のトップが一人にまで絞られた結果、それまで辛うじて保たれていた四棟のパワーバランスが崩れて頻繁に小競り合いが起きるようになった。それまでは各トップの自治と采配に委ねられていた東西南北の権力がレイジに一極集中したことにより、トップの代替わりを認めない他棟の反発を招いてしまったのだ。
 内乱の時代の幕開け。
 縦系列の支配が緩めば横同士の派閥争いが激化するのが社会法則だと世界史を紐解けば明らかなように、東京プリズンでは現在囚人間の対立と抗争が激化して風紀が乱れに乱れている。「風紀」?いや、東京プリズンに元々そんなものはなかった。あるのはただ弱肉強食の掟のみだ。
 ならばこれこそが東京プリズンの真実の姿、正しい在りようなのだと言えなくもないが……

 ともあれ、僕の感想はこの一言に尽きる。
 くだらない。どこまで退行したら気が済むんだ野蛮な低脳どもめ、クロマニョン人を見習え。

 東京プリズンの囚人に比べれば人類の進化途上段階であるクロマニョン人のほうがまだしも高等知能生物に思える。本来東西南北四棟を制圧して手綱をとるべき王様は背中の火傷と左目失明で入院中でまったく役に立たない。
 使えない男だ。
 しかし、レイジの100人抜き達成のおかげで公約通り売春班は廃止されたのだからその功績はしぶしぶ認めざるをえない。
 売春班の面々は全員元いた部署に戻された。売春班廃止については一部看守や囚人の猛反発にあったようだが、安田が独断で押し通した。
 僕とロンは晴れてイエローワークに復帰した。炎天下の砂漠で鍬やシャベルを用いてただひたすら穴を掘り続ける不毛な農作業も以前ほど苦ではなかった。売春班で地獄を体験して、どんな過酷な労働でも耐え抜ける自信と免疫力がついたのだろう。
 ロンは元気に働いてる。彼にはもともと体を動かす作業が性に合ってるらしく売春班にいた頃より活き活きしてる。僕はといえば、一日三度は貧血を起こしながらもなんとか倒れずに働いている。看守の締め付けが緩んだ結果、それまでは厳しく監視されていた水分補給が許されたのだけが救いだ。
 水。そうだ、H20。
 僕らがイエローワークを離れていた間に砂漠にも変化が起きていた。
 なんとオアシスができていたのだ。以前僕とロンが掘り当てたあの水源が今では立派なオアシスとして機能しているのだ。砂漠に湧いたオアシスは井戸兼貯水池として活用されて今では里芋栽培に欠かせないものとなっている。
 僕らがイエローワークを離れていたたった数ヶ月の間にオアシスから用水路が引かれて砂漠に張り巡らされ、いくつか畑ができていたのだ。
 これはあまり一般には知られていないが、砂漠でも水源さえ確保できてれば作物を育てるのは不可能ではない。
 代表的なのが品種改良された芋類で、僕がイエローワークに復帰した時には数ヶ月前に植えられたジャガイモが収穫期を迎えていた。
 僕らが掘り当てたオアシスが重宝されているのを見るのは、なんだか感慨深い。今やあのオアシスは恵みの泉として砂漠での農作業になくてはならないものと見なされている。

 だが、良いことばかりではない。

 僕とロンは無事イエローワークに復帰できた。
 が、サムライはそうはいかない。ブルーワークの勤務を放棄して僕の救出に駆け付けたサムライには、罰としてレッドワークへの降格処分が下された。
 レッドワークといえば都会から運ばれてきた危険物を加熱処理する部署で、作業中の事故による死傷者が最も多いことで知られている。
 サムライは何も言わないが、彼がブルーワークに落とされた原因は僕にあると痛感している。
 サムライだけではない。安田とて無事では済まない。
 そもそもタジマと五十嵐の暴走は安田の監督不行き届きが原因だ。
 安田はこの頃頻繁に「上」から召喚を受けて、銃を盗まれた責任を追及されているらしい。
 安田の処分はまだ決まっていない。副所長の不注意で銃を盗まれた上に刑務所内で発砲事件が連続したなど、「上」にとっても表沙汰にしたくない不祥事であるのに変わりない。安田の進退は敏感な問題だ。そのため採決が下されるのに時間がかかっているのだろう。
 僕はこの頃安田と顔を合わせてない。安田を東京プリズンで見かけないのだ。イエローワークに戻ればまた視察に赴いた安田と話す機会が得られると内心期待していたのだが、考えが甘かったと悔やんでいる。
 そして、五十嵐。彼もまた東京プリズンを去ることになった。万単位の目撃者がいる前で囚人に銃を向けたのだから責任逃れはできない。噂では五十嵐自ら安田に辞表を提出したらしい。それが五十嵐の決めたことなら僕には口だしする権利がないが……

 なんとなく、すっきりしない。

 ヨンイルは結局無事だった。
 あの時、五十嵐が引き金を引いた時は本当に死んだと思った。だが、実際にはそうならなかった。五十嵐は確かに引き金を引いた、しかし銃弾は発射されなかった。あとで安田に確認したが、紛失当時には弾丸は六発ちゃんと入っていたらしい。安田の証言を信用するなら、人手から人手へと渡るうちに誰かが銃弾を一個抜いた事実が浮かび上がってくる。
 誰が、何の為に銃弾を抜いた?
 わからない。まさか五十嵐がヨンイルに銃を向ける事態を予期してたわけでもないだろうに……謎は深まるばかりだ。現実にはペア戦が終了してもまだ多くの謎と不安材料が残されている。
 あの男の不審な行動も、また。
 
 東京プリズンに夜が訪れた。
 消灯時間が過ぎて囚人が寝静まった深夜、そっとベッドを抜け出す。
 物音をたてぬよう用心しつつ毛布をどけて、スニーカーを履く。ちらりと隣のベッドに目をやる。サムライは寝ているらしい。僕に背中を向けて毛布に包まっている。サムライは寝相がよく、殆ど動かない。僕が見ている間は寝返りも打たない。
 そのまま寝ていろと念じつつ、毛布をきちんと整えてベッドを離れる。サムライの眠りを妨げぬよう十分配慮して、足音を潜めて房を横切る。鉄扉に穿たれた格子窓から廊下の光が射し込んでくる。
 看守に見つからずに待ち合わせ場所に辿り着ければいいが……
 「………直?」
 衣擦れの音に続く寝ぼけた声。ノブに手をかけた姿勢で硬直、振り返る。サムライがベッドに上体を起こし、腫れぼったい目でこちらを窺っていた。
 十分気をつけたつもりだったが、起こしてしまったらしい。
 「こんな時間にどこへ行く。風邪をひくぞ」
 「君こそ大人しく寝ていろ。僕がどこへ行こうと勝手だろう」
 僕の目的地をサムライに知られるのはまずい。知ればきっと、サムライはついてくると言い張る。鉄扉を背にして睨みを利かせば、僕の態度に不審を感じ取ったのか、寝ぼけ眼が一瞬にして鋭くなる。
 「俺に言えない用事で房を抜け出すとは、穏やかではないな」
 サムライは頑固だ。一度こうと言い出したら決して自説を曲げない。
 まずいことになったぞ、と心の中で舌打ち。今回の件はサムライが知らない間に終わらせるはずだったのに、予定が狂った。
 裸足にスニーカーをつっかけ、暗闇の中を大股に歩いてくるサムライ。衣擦れの音すら殆ど立てない洗練された歩き方。枕元の木刀を忘れず携え、僕のもとへと歩いてきたサムライにうんざりする。
 「散歩だ。よく眠れないから外の新鮮な空気を吸いたくなっただけだ」
 「独り歩きは危険だ。連れて行け」
 わざとらしくため息を吐き、迷惑な本音を隠しもせずサムライを睨みつける。
 「束縛されるのは好きじゃない、門限を守る義務もない。サムライ、君は過保護すぎる。僕はただ途切れがちなレム睡眠にうんざりして気分転換に出かけようとしているだけだ。用心棒の監視など要らない、君が隣にいたらリラックスできないじゃないか」
 「最近は物騒だ。警戒するに越したことはない」
 サムライは頑として譲らない。後ろ手にノブを掴んだ僕はサムライをどう言いくるめたものかと逡巡する。小脇に木刀を下げたサムライは眼光に気迫を込めて、真剣な面持ちで僕と対峙している。
 仕方がない。
 サムライに嘘やごまかしは通じない、真実を話すしかないだろう。できれば彼を巻き込みたくなかったのだが……眼鏡のブリッジに中指を押し当て、嘆息。小さくかぶりを振りながら口を開く。
 「わかった、房を空ける目的と動機を話せばいいんだな。そうすれば満足するんだな」
 鉄扉から背中を起こし、サムライに歩み寄る。サムライは唇を固く引き結んで暗闇に溶けこんでいた。
 サムライの肩に手をかけ、耳朶に口を寄せ、声を低めて囁く。
 サムライの顔に驚きの波紋が広がる。
 サムライの肩から手をどけた僕は、淡々と補足する。
 「―というわけだ。僕が一人で出かけようとした理由がわかったろう。君がついてくると色々ややこしくなる、また話が複雑化するに決まっている。いいか?交渉には一対一で臨まなければフェアではない。一対複数の交渉はむしろ脅迫か威圧に近い、相手の本心を引き出したいなら一対一で向き合うべきだと心理学的にも実証されている。つまり、君は邪魔だ。不要だ、蛇足だ、余計だ。胃腸の消化を妨げる盲腸みたいな存在だ。ついてくるなよサムライ、僕は彼と二人きりで……」
 突然、手首が掴まれる。サムライだった。ノブに手をかけ扉を開こうとした僕の手首を掴んで引き止め、サムライが断言する。
 「なおのこと捨て置けん。俺も行く」
 「!だから、」
 「行くと言ったら行く」
 「…………くそっ、勝手にしろ。睡眠不足で足元がふらついて溶鉱炉に落ちても知らないぞ。溶鉱炉の温度は最も熱いところで960度、君など骨も残らないだろうな」
 押し問答してる暇はない。もうあまり時間がない、約束の時刻を過ぎれば相手が帰ってしまうかもしれない。サムライは一度言い出したら聞かない強情な男だ、彼の説得に時間を割いていては朝になってしまう。
 サムライの手を乱暴に振りほどき、鉄扉を開け放つ。
 廊下には無機質に蛍光灯が点っている。
 寒々しい灰色のコンクリ壁が続く廊下をサムライと前後して歩く。途中、看守とはすれ違わなかった。毛布に隠れて巡回中の看守が行き過ぎるのを待っていたのだから当たり前だ。他に出歩いてる囚人とも遭遇しなかったのはありがたい。蛍光灯の光に青白く発光する廊下は不安になるほど静かだった。
 東と中央を繋ぐ渡り廊下を歩く間も僕たちは言葉を交わさなかった。交わせなかったのだ。僕の手は緊張で汗ばんで喉がひりつくように乾いていた。一歩ずつ着実に目的地に近付いている実感が精神的重圧をかけてきて、房に引き返したい衝動を抑え込むのが大変だった。 

 中央棟に渡る。
 目指すは図書室。

 「本当に来るのか?」
 「そう思いたいな。来なければ逃げたと蔑むだけだ」
 体の脇でこぶしを握りこみ、苦々しく吐き捨てる。図書室の扉を開く。主が不在の図書室は異常な静けさに包まれていた。深夜でも電気は点いていた。
 警戒を強め、細心の注意を払って図書室に足を踏み入れる。背後で重厚な扉が閉じる。書架が十重二十重に並んだ一階を流し見たが、僕らの他に人影はない。   
 「決着をつけなければ」
 口に出して決意を表明する。
 ペア戦は終わった。しかしまだ決着はついてない、後始末が残っている。
 あの時、僕が安田と立ち話してた時、背後にぶつかってきた人物の正体。
 心神喪失状態の五十嵐の眼前に銃を蹴り飛ばした犯人の正体を突き止めて企みを暴かねば事件は終結したと言いがたい。
 「ペア戦は終わったが、事件はまだ終わってない。名探偵には最後の謎解きが残っている」
 だれが安田の銃を蹴り飛ばしたのか?だれが五十嵐に銃を撃たせたのか?
 僕には真相がわかっている。わからないのは動機だ。何故「彼」があんなことをしたのか仮説を組み立てることはできるが、所詮それは想像の域をでない机上の空論だ。
 僕は真実を知りたいのだ。
 「彼」が何故あんな真似をしたのか本当の理由を、ロンの信頼を勝ち得ていた「彼」が何故あんな―……
 その時だ。
 「直、止まれ」
 「!」
 鞭打つような叱責に息を呑んで立ち止まる。サムライが木刀で僕の脛を押さえ、油断ない眼光で虚空を見据える。
 「これはこれは。夜分遅くに呼び出しを受けて来てみれば、デート場面に遭遇してしまいましたか」
 二階の手摺に誰かが腰掛けていた。
 光沢ある黒髪を七三に撫で付けた胡散臭い男だ。トレードマークの黒ぶち眼鏡の奥で糸のように目を細くして笑っているが、どこか真意の窺えない、不気味な笑顔だった。
 「呼び出したのは僕だ。ルーツァイに伝言を頼んだんだ」
 ルーツァイ。元売春班の同僚で一児の父親、南棟の囚人。ルーツァイなら「彼」に接近する機会があった、周囲の目を気にせず人に怪しまれず自然に接触する機会があった。
 二週間前より他棟と緊張関係が続く東棟の囚人である僕が南の元トップと話し合いを持ちたければルーツァイに仲介役を頼むしかなかったのだ。
 だが、彼が今晩ここに現れるかどうかは確率半々の賭けだった。
 結果として、僕は賭けに勝った。だが、勝負はここからだ。
 「貴様が今ここにいるということは、ルーツァイはちゃんと役目を果たしてくれたようだな。感心だ。一児の父の面目躍如といったところか?」
 「そうですとも。ルーツァイくんはちゃんと伝言を届けてくれましたよ。ロンくんのお友達が吾輩に用があるから図書室に来て欲しいと、この件はくれぐれも内密に頼むと……」
 「確かにそう言った。だが、それは僕の安全の為というよりむしろ君の保身の為だ。元南のトップに問うが、真相を暴露されて西と北と東を敵に回すのは君とて望まぬ事態だろう」
 首筋を冷や汗が伝う。手摺に腰掛けた男は頬杖ついて僕の推理を聞いている。謎めいた笑みを含んだ口元には余裕が漂っている。
 分厚い瓶底眼鏡の奥の双眸はしかし、もう笑っていない。おそろしく物騒な、身の毛もよだつほどに危険な眼光を孕んで炯炯と輝いている。
 二階と一階で距離がはなれてるのに、この言い知れぬ威圧感はなんだ?
 もしサムライが隣にいなければ膝が萎えてその場に崩れ落ちていたかもしれない。
 深く息を吸い、顔を上げる。眼鏡のブリッジに触れて心を落ち着かせる。
 「僕が今日君をここに呼んだのは他でもない。何故あんなことをしたのか、真実を知りたいからだ」
 「『あんなこと』とは?」
 「とぼけるな」
 お茶目に首を傾げた男をひややかに睨みつける。  
 「僕は全部なにもかもお見通しだ。天才に不可能はない、名探偵に解けない謎はない。二週間前、ペア戦決勝戦が行われた地下停留場で僕はレイジから銃を手渡された。そして、安田に返そうとした。その瞬間だ、誰かが僕の背中にぶつかってきた。偶然の事故じゃない、故意に衝突してきたんだ。衝突の衝撃で僕は銃を手放した、次に発見した時銃は五十嵐の前に移動していた。落下のはずみで床を滑ったにしては距離が空きすぎている、だれかが故意に蹴り飛ばしたに違いない。
 でも、誰が?一体何の為に?」
 「さあ、見当もつきません」
 「とぼけるなと言っている」
 本当に腹黒い。急激に込み上げる怒りを自制、努めて冷静に話を続ける。
 「舐めるなよ隠者風情が、僕の洞察力と観察力を持ってすれば解けない謎などない。推理の材料さえ揃えば真犯人を特定するのは難しくない、フェルマーの最終定理を解くより簡単な子供だましの真相だった。
 あの時、僕の背中にぶつかった人物は周囲の人ごみに紛れこんで特定できなかった。だが、そこれそまさに盲点……目の錯覚を利用した幼稚なトリックだったんだ。木の葉を隠すなら森の中、人を隠すなら人の中。そう、肌の色が同じならなおいいな。俗に白色人種は黄色人種の見分けがつかないというが、逆も言える。肌の色が同じ群集の中に溶け込んでしまえば個人の特定は困難、言うなればカメレオンの保護色の原理だ」
 「ふむ、なるほど。興味深い推理です」
 顎を揉みながら隠者が頷く。
 二週間前、人で賑わう地下停留場の様子を回想する。
 レイジとサーシャの試合に満場の観客が熱狂してる頃、リング脇で試合を観戦していた僕にホセが接触を図った。その時は別段不審に思わなかった、ホセは神出鬼没な男だからと特に気に留めなかった。
 そして、ホセの周囲には肌の浅黒い南の囚人が群れていた。
 その時はやはり気に留めなかったが……あれは、作戦だったのだ。人の壁を築く作戦。今から思い返せば僕の視界の端には常に浅黒い肌がちらついていた、南棟の囚人がうろついてたことになる。地下停留場は満員で東西南北すべての囚人が集まっていたのだから勿論南棟の囚人がいてもおかしくないのだが、僕が安田と立ち話をしてる時の状況は異常だった。

 周囲には、浅黒い肌の囚人ばかりがいた。
 浅黒い肌の囚人しかいなかった。

 たとえば、南棟の囚人がわざと僕の背中にぶつかってもすぐに同胞の中に逃げ込めるように。
 同じ肌色の壁で匿えるように。
 
 「見事な人海戦術じゃないか、拍手を所望ならしてやるぞ。おそらく、君はこう指示したんだ。僕の背中にぶつかって銃を奪え、五十嵐の前にそれとなく移動させろと。南の囚人はトップの命令に忠実にそれを実行した、心神喪失状態の五十嵐が再び銃を目にすればどうなるか……手の届く場所に銃が出現したらどうなるか、君はそこまで読んでたんだな。
 一度は自ら復讐を諦め銃を捨てた、しかし今再び銃が現れた。
 偶然にしてはできすぎている。これはひょっとして目に見えない大いなる力が、『運命』や『宿業』と呼び習わされる大いなる力が自分に復讐を望んでいるんじゃないか?やはり自分は銃を手にとるべきじゃないか、復讐を遂げるべきじゃないか?人間心理の陥穽を鋭く突いた作戦だな。自らの手を汚すことなく邪魔者を始末できるなら越したことはない。
 君は五十嵐にヨンイルを射殺させるつもりだった、いやそれだけじゃない、サーシャとレイジが相討ちで死んでくれることをも望んでいた!それも全て自分がトップになりたいがため、東京プリズンの支配者になりたいがためだ!
 どうだ異論反論はあるか、言いたいことがあるなら言ってみろ南の隠者!!」

 全身の血液が沸騰する怒りに駆られて、ホセに人さし指をつきつける。
 隠者は笑っていた。ただ微笑んでいた。
 「………いやはや。参りましたね、これは。バレてしまいましたか」
 そう言って、照れくさげに頭を掻く。
 僕は怒っていた。ホセに殺意さえ抱いていた。ホセは人の心を踏み躙り利用した、五十嵐の無念とヨンイルの誠意を利用した、邪悪に笑いながら人の心を玩んだ。許せない。こいつだけは許せない。五十嵐とヨンイルだけじゃない、ロンのこともずっと、ずっと騙していたのだ。
 ロンの信頼を裏切って、ヨンイルの友情を裏切って。
 そうまでして、トップの座が欲しかったというのか?
 視界が真っ赤に染まる。体の脇で握りこんだこぶしが震える。全身の血液が逆流して体が熱く火照りだす。
 サムライが心配げな面持ちで僕の肩を掴む。
 僕が倒れないようにしっかりと支えてくれる頼もしい手。
 「おっしゃるとおりですよ、名探偵。吾輩はヨンイルくんの死を望んでたのです。ヨンイルくんだけじゃない、レイジくんとサーシャくんにもこの世から消えてほしいと切に望んでいたのです」
 「何故だ?」
 声が震えた。僕にはホセの考えが理解できなかった。サムライの手を振り払い、手摺を掴んで階段を駆け上がりかけ、必死に叫ぶ。
 「君は、貴様は言ったじゃないか!君とヨンイルがペア戦に出ると決意したのはサーシャを牽制するためだと、北の専横を阻止するためだと言ったじゃないか!!あれは嘘だったのか、虚偽の証言だったのか?真の目的は別にあったというのか!」
 ホセは哀れみをこめた目で僕の狂乱を眺めていた。
 二階の手摺に腰掛け、宙に足を垂らして、緩慢に眼下を睥睨する。
 ホセのいる位置からは図書室全体が見渡せる。
 階段の手前でサムライに取り押さえられた僕も、整然と並んだ書架も、反対側に設けられた二階部分の手摺と三階部分の手摺もすべて。
 黒ぶち眼鏡の弦に指を添え、隠者は感慨深げに述懐する。
 「『敵を騙すには味方から』。しかし、吾輩には最初から味方などいませんでした。ヨンイルくんもレイジくんも『敵』の想定内だったんですよ。ヨンイルくんもレイジくんも吾輩の真の目的は見破れなかった。
 我輩はね、敵の全滅こそ望んでたんです。
 サーシャくんとレイジくんが共食いして、ヨンイルくんは五十嵐に殺される。吾輩の予想では北と東の対決でどちらかが死にどちらかが怪我で引退するはずだったんですが、どうしてどうして、レイジくんもサーシャくんも詰めが甘い。お二人にはがっかりです。最後の弾丸が入ってなかったのもね」
 顔から眼鏡を外し、素顔で微笑む。
 背筋に戦慄が走る極悪な微笑。
 「まあ、レイジくんのほうがより残酷だと言えなくもない。家臣の前で醜態をさらした元皇帝、片目を失ったサーシャくんが北棟で生き残れるかどうか…今ごろ輪姦されてなければいいですがね」
 眩暈がした。階段から足が滑り、視界が傾いだ。背後のサムライが慌てて僕を抱きとめる。 
 「大丈夫か?」
 「……大丈夫だ。別の意味で反吐がでそうだが」
 階段から転落しかけたところをまたもサムライに救われた。
 サムライの手を借りて起き上がった僕は、気丈に顎を上げてホセを睨みつけ、苦々しく皮肉を言う。
 「貴様の目的は、他棟のトップを抹殺して東京プリズンのトップになることか?ならば思惑が外れて残念だな、結果として五十嵐はヨンイルを殺さずレイジとサーシャは生き残ってしまった。隠者の野望は未遂に終わった」
 「はたしてそうでしょうか」
 ホセが手摺を下りて靴音高く階段に歩を向ける。
 開放的に高い天井に靴音が反響する。
 「確かにヨンイルくんは生き残った、サーシャくんもレイジくんも生き延びた。しかし、彼らに何ができるのです?ヨンイルくんは今回の一件で罪悪感の重荷を抱え込んだ、今回の一件は末永く彼のトラウマになるでしょう。レイジくんは背中に火傷を負って片目を失った、これは大変な痛手です。身体が回復するには時間がかかる上に決して元の状態には戻れない。サーシャくんは言うに及ばず……」
 ホセが自信に満ちた力強い足取りで階段を下りてくる。
 怪しくほくそ笑みながら、すでに次の策謀を練りながら。
 「これは終わりではなく、始まりに過ぎない。そうは思いませんか?」
 「ロンには手を出すな」
 階段の上と下でホセと対峙する。サムライに肩を支えられた僕は、ホセの通り道に敢然と立ち塞がる。ホセがスッと目を細める。剃刀めいて剣呑な眼光が僕の顔をひと撫でする。
 僕はホセに恐怖を感じていた。得体の知れない、底の読めない……手強い相手。ホセが本性を曝け出した今なら、ホセと対峙した今なら実感としてわかる。東西南北四人のトップのうちで最も警戒せねばならないのはレイジの狂気でもサーシャの残虐性でもヨンイルの無邪気さでもない。

 ホセの悪意だ。
 目的のためなら手段を選ばない、人あたりよい笑顔の裏に潜む邪悪さだ。

 レイジよりもサーシャよりもホセは邪悪だ。蝿の王のように邪悪だ。
 規則的な音を響かせてホセが階段を下りてくる。余裕漂う緩慢な歩み。障害物など視界に入ってないような自信に満ちた力強い足取り。
 「吾輩を呼び出して直接真相を究明した君の勇気に免じて、特別に教えてさしあげましょう。吾輩は実は、本来ここにいるべき人間ではない。東京プリズンは吾輩本来の居場所ではない。吾輩は『ここにいてはいけない』人間なのです」
 「は?」
 何を言ってるんだ。疑問の眼差しでホセを仰げば、にこりと感じよい微笑みを返される。
 「吾輩は二十四歳。東京プリズンは十二歳から二十歳までの犯罪者を収容する施設、二十歳を越えれば郊外の刑務所に移送される手筈になっています。しかし、吾輩はいまだにここにいる。東京プリズンにいられる年齢をとっくに過ぎてもトップとして君臨し続けている。何故だかわかりますか」
 ホセが、本当は二十四歳だった?どうりで老けてると思った……
 いや、違う。今重要なのはそんなことではない。
 ホセが次第に接近してくる。
 片手を手摺におき、片手を体の脇にたらし、謎めいた笑みを浮かべて……
 僕とすれ違う間際、耳元で囁く。
 「東京プリズンには秘密があるのです。とても重大な秘密がね」
 「東京プリズンの秘密?」
 なんだそれは。
 東京プリズンの秘密。
 僕がまだ知らない東京プリズンの真実の姿。
 日本を震撼させる……世界を震撼させる……秘密?
 僕の傍らで立ち止まり、ホセが視線を向ける。僕の表情をつぶさに観察しつつ、慎重に言葉を選んで続ける。
 「変だと思いませんか?何故こんな砂漠の真ん中に限られた年齢の少年ばかり収容する刑務所があるのか。何故東京プリズンの地下がこんなに広いのか。何故東京プリズンは日本に見捨てられたのか……」
 「君は、その秘密を探っているのか?その秘密が知りたいから、東京プリズンのトップになりたいのか」
 興奮のあまりホセの肩を掴んで問いただす。僕が知らない東京プリズンの実態、真実の姿。そんなものがもしとあるとすれば……

 僕は。僕らは一体、何故ここに集められた?

 「これから先は言えません。吾輩としたことが、少々おしゃべりしすぎてしまいました」
 僕の手を無礼にならない力加減ではねのけてホセが再び歩き出す。
 サムライの制止を振りきり、その背中に食い下がる。
 「約束しろ隠者、今後ロンとレイジには手だししないと!いや二人だけじゃない、ヨンイルを追い詰めるような真似もするな!彼らはまだ君の本性を知らない、いや、薄々勘付いていて知らないふりをしてるのかもしれないがとにかく君を信頼して!」
 靴音が止む。図書室の扉の前で僕に背中を向けて立ち止まり、ホセが深々と息を吐く。大気を伝わってきたのは失笑の気配。みっともなく追いすがる僕を振り向き、ホセが眼鏡を外す。
 口元から白く清潔な歯が零れる。
 驚くほど若々しく野蛮な素顔でホセは言った。

 「ロンくんを犯して殺したら、レイジくんは発狂してくれるでしょうかね」
 宣戦布告。

 風切る唸りをあげて木刀が飛来したのはその直後だ。
 僕の頬を掠めて投擲された木刀がホセの手首を直撃、眼鏡を弾きとばす。苦鳴をあげて膝を屈したホセへと大股に歩み寄り、流麗な所作で木刀を拾い上げるサムライに呆然とする。
 手首を押さえて立ち上がり、レンズが割れて弦が曲がった眼鏡を拾い上げる。
 「……冗談ですよ。吾輩はいついかなる時もワイフ一筋、浮気などもってのほかです」
 床に散らばったレンズの破片を情けない顔で見下ろして、ホセが首を振る。
 「………前から疑問に思っていたのだが。ワイフとは空想上の人物、虚構の存在ではないのか?」
 「失礼な、ヨンイルくんと一緒にしないでください」
 何事もなかったように割れた眼鏡をかけ直したホセが頬に血を上らせて憤慨する。木刀を取り返したサムライが無言で僕の隣に並ぶ。僕たちが黙って見送る中、ホセが扉を開けて肌寒い廊下に出る。
 「忠告だ。俺の仲間に手出しすれば貴様とて容赦せん。ゆめゆめ用心を怠るな」
 扉が閉まる直前、サムライが警告を発した。無意識に木刀を構え、いつでも斬りかかれるよう全身に殺気を漲らせて。閉まりゆく扉の向こうでホセが苦笑、体の脇で腕を揃えて丁重にお辞儀する。
 「ご忠告どうも。肝に命じておきましょう」
 猛禽の眼光と肉食獣の眼光が一刹那だけ交錯。
 扉が閉まる音が重たく響き、我知らず安堵の息を吐く。
 「……直、あの男には用心しろ。あれは策士だ」
 「わかっている。ホセの陰謀など片っ端から僕が叩き潰してやる、大丈夫だ、頭脳勝負には自信がある。僕の灰色の脳細胞をもってすればホセに先んじることなどたやすい……何故笑う。ここは笑う場面じゃない、エルキュ―ル・ポワロも卒倒する僕の名推理に脱帽する場面だろう。まったく空気の読めない男だな君は!」
 「いや、すまん。お前があんまり一生懸命なのがおかしくて」
 「『おかしくて』?」
 失礼な男だ、僕は大いに真面目なのに。尖った声で抗議すれば、こぶしを口にあてて笑いを噛み殺したサムライが深呼吸でこちらに向き直り、優しい眼差しを向けてくる。
 「人のために一生懸命になれるのが、お前の良いところだ」
 「……前々から指摘しようと思っていたが君の発言には読点が多すぎる。聞いててイライラする」
 急に改まって何を言い出すのだ、サムライは。さあ、用は済んだ。はやく房に帰ろう、明日も強制労働があるのだ。サムライに背中を向けてノブを掴む……
 「直」
 「なんだ」
 サムライが僕を呼ぶ。振り返りもせず、不機嫌に問い返す。どうせまたくだらない話だろう。背後にサムライの気配を感じる。サムライが僕の肩に手をおく。
 反射的に振り向く―

 衝撃。

 背中に鉄扉がぶつかり、鈍い音が鳴る。何が起きたのか瞬時にわからなかった。視界に覆い被さる人影、顔に被さる顔……鉄扉に押し付けられた僕の上にサムライが覆い被さっている。至近距離にサムライの顔がある。先刻の優しい眼差しとは一転、ひどく思い詰めた眼差し。生きながら心臓を焼かれてるような切迫した表情、男性的な荒荒しさを剥き出した必死な形相……
 どけ、と叫ぶ暇もなかった。
 目を閉じる暇も与えられなかった。
 唇に唇が重なる。前歯があたる。不器用で性急なキスに痛みを感じる。ただ触れるだけのキスだったのに、サムライの唇の火照りが伝染ったのか僕の唇にも血の気が射していた。
 「……サ、ムライ?」
 今、何が起きた?
 サムライが、僕の唇を奪った? 
[newpage]
 「ふあっ……!?」
 口から変な声が漏れた。
 自分の声だなんて信じられなかった。
 レイジは何ら抵抗なく裸の股間に顔を埋めた。萎えたペニスを右手で支え持ち、左手を根元に沿えて立ち上げて、ゆっくりと口腔に含み、ぴちゃぴちゃ下品な音たてて捏ねくり回す。
 レイジの口の中は熱かった。舌がぬるぬると動いていた。とろりとした唾液がペニスに絡みついてすごく変な感じだった。
ふいに昔の記憶が甦る。
 俺が生まれ育った池袋スラム、日本に根付いた台湾人の街。線香の煙が濛々と立ち込める廟の一角には揚げ餅や駄菓子を売る屋台が出ていて、やたら滅多ら威勢のいい男たちが胴間声をはりあげてガキ相手に商売していた。
俺が思い出したのは、水飴だ。
 透明な壜に入ったとろりと光沢のある水飴、人さし指につけて舐めると歯が根元から溶けそうに甘かった。屋台の親父はその水飴を一壜いくらで叩き売ってたんだが、お袋に飯抜かれて腹ぺこだった俺は、何回かその壜をくすねたことがある。勿論水飴じゃ腹はふくれないが、ちびちび大事に舐めてれば少しはひもじさをごまかせる。でも、すぐに手がべとべとになるのには辟易した。
 手のひらに水飴を零せば指と指が粘ついて、五指を開け閉めするたびにちゃにちゃ透明な糸を引くのだ。
 たとえば、割り箸に水飴を絡めるところを想像してほしい。割り箸をたっぷり水飴に浸して舌で引き延ばしていくところを想像してほしい。フェラチオはちょうどあんなかんじだ。水飴が唾液で、割り箸がペニス。
 ただ違うのは、俺のペニスは水飴を絡めた割り箸みたいに甘くないってことだ。
 正直、こんな物を平気で口にできるレイジの正気を疑う。
 「うっ………は、あ」
 変な、感じだ。体が熱い。レイジの口の中では唾液が泡立っていた。やっぱりレイジはこの手のことにおそろしく慣れてる。きっとレイジなら虱の沸いた売女の股間だろうが綺麗に剃毛された尼僧の股間だろうが、醜悪さに眉ひそめることなく、不潔さに抵抗を覚えることなくさらりと口をつけて体液を啜ることができるんだろう。蚊みたいに。
 レイジは行為中も上目遣いに俺の反応を確かめながら、顎の角度を調整したり舌の動きを変えたりとたゆまぬ工夫を凝らしていた。サービス精神旺盛な男娼。野郎、余裕と自信ありまくりで癪にさわる。レイジの肩に手をかけ押し返そうとしたが、ペニスに絡み付く舌がそれをさせてくれない。ねちっこい。ぺちゃぺちゃ唾液を捏ねる音が暗闇に響く。排尿感に似たもどかしさを覚え、レイジの肩に爪を立てる。
 「レ、イジお前ふざけるのも大概にっ……し、ろ!」
 喘ぎ声を噛み殺し、息も絶え絶えに反駁する。男の意地に賭けて断言するが、俺は早漏じゃない。早漏じゃないが、そろそろやばい。レイジの口の中でペニスが勃ち上がりかけて、先端に血が集まりだしたのがむず痒い感覚でわかる。
 小便を限界まで我慢して膀胱がはちきれそうになった時によく似た、尿道の掻痒感。 
 レイジは手と舌を巧みに連動させて用いてあっというまに俺のイチモツを「一人前」の状態に仕立てあげちまった。ひょっとしたらお袋よりメイファより上手いかもしれない、何がってフェラチオが……いや、そんなことはどうでもいい!万一レイジの口の中で射精しちまったら男の沽券に関わる一大事、俺はこれから一生レイジの顔をまともに見れなくなる。だってまだフェラチオが始まって五分も経ってねえのに畜生、これでイッちまったら早漏決定じゃんか!
 羞恥心に火がついた。
 これ以上レイジの好きにさせてたまるかと決心。腕に渾身の力を込め、無理矢理レイジを引き剥がす。必死の抵抗。これ以上体を好きにされるのはたまらない、こんな卑猥な行為耐えられないと頭の片隅に居座った理性が悲鳴を上げる。
 そりゃ確かにレイジは経験豊富で滅茶苦茶上手くて、舌の使い方や指の添え方に至るまで文句の付け所がなくて、俺を最高に気持ちよくさせることもわけないんだろう。
 レイジが本気を出せば十秒で俺をイかすこともできる。だが、奴は手加減した。すぐにイッたらつまんないからと手を抜いていた。ツラを見ればわかる。俺のペニスをしゃぶってる間じゅうレイジは満足げに、優越感に酔って笑っていたのだから。
 「お前まともじゃねえよ、よくこんな物しゃぶれるな!?」
 俺は怒っていた、それ以上に混乱していた。レイジがこんなに上手いなんて知らなかった。そりゃ本人が自慢してたし話にも聞いてたが、実際体験してみて初めて真実味を帯びて迫ってきたというか、体に思い知らされたというか……くそ、うまく言えねえ。
 とにかく、ここで一発ガツンとかまさねーとますます王様が調子にのっちまう。レイジの肩を掴み、呼吸が整うまでしばらく待ち、続ける。
 「こんな……こんな、汚ねえだろ普通に考えて!?そりゃ俺だって童貞じゃねーしフェラチオやってもらったことくらいあるけどその、まあなんだ、男同士でこういうのはちょっとどうかと思うよ!やっぱナシ、こういうのナシでいこう、約束はきっちり守るから俺が目え瞑ってるうちにぱぱっと済ませてくれよ!ちょっと後ろ向いて我慢してりゃすぐ終わるだろ、こんなコト意味ねえ……」
 「意味ならあるぜ。ロンが気持ちよくなんなきゃ始まんねえ」
 レイジが意味ありげに笑う。
 「お前勘違いしてねーか。セックスってのはおたがい気持ちよくなんなきゃ意味ねーの。一方だけ気持ちよくなったんじゃ相手の体使って自慰してるのと一緒だろ?ま、中にはそういうのがイイ奴もいるけど……一夜を共にする相手には頭のてっぺんからつま先まで舐め尽くして最高に気持ちよくなってもらうのが俺のやり方なんだよ」
 悪魔みたいにほくそ笑むレイジをあらんかぎりの憎しみ込めて睨みつける。視線に熱量があるならたちどころに灰にできそうな眼力を込めてはみたが、やっぱり俺じゃどうしたってレイジに太刀打ちできない。どうしようもない現実、力の壁。さっきからレイジに翻弄されてばかりで悔しい、情けねえ、みっともねえ。レイジの前で足開いてペニス咥え込まれて、俺は壁際でじっとしてるだけか?喘ぎ声我慢して唇噛んでるだけかよ。頭の中がぐちゃぐちゃだ。半端に理性が残ってるのがなおさら辛い。
 観念して目をとじて、後頭部をコンクリ壁に預ける。
 「恥ずかしいよ……」
 「暗闇だから気にすんな」
 レイジが喉の奥で笑い声を立て、再び股間に顔を埋める。反射的に足を閉じようとしたが、レイジに手でこじ開けられる。そうはいくかと太股に力を込めて対抗する。力比べに勝利したのはレイジで、俺の両膝に手をかけてぐいと強引に押し広げる。いくら暗闇で見えなくても恥ずかしいもんは恥ずかしいんだよ馬鹿、こんなポーズとらせるんじゃねえよ。股間にじっと視線が注がれてるのがわかる。願いが叶うなら今すぐ発狂したかった、全身の血が燃え立つ恥辱を味わって閉じた瞼から涙が滲み出た。
 首を傾げて俺の股間を覗きこんでいたレイジが、人さし指を先端にひっかけて揶揄。
 「可愛いペニス」
 『可愛?!』
 待て聞き捨てならねえ台詞だ。可愛い?悪かったな可愛くて、そりゃお前のご立派なモンと比べたらお粗末だよ。なんだ、自慢か?さりげなく自慢か?自分のほうが男として格上だって自慢してるのかコイツ。いいのかよ俺言われっぱなしで、ガツンと一発……
 「!ひっ、あ」
 矢のように鋭い性感が尿道を貫き、脳天に抜ける。体が撓り、踵が跳ねる。シーツを掻き毟り、悩ましげに悶える俺をレイジは愉快げに眺めていた。意地悪くほくそ笑んで見物を決めこんでいた。熱っぽく潤んだ目に憤怒を滾らせて、王様の涼しげなツラを睨みつける。
 信じらんねえ。こいつ、俺のイチバン敏感な部分を指でピンと弾きやがった。痛い。マジ痛い。五指で掻き毟ったシーツに皺が寄り、性感の喘ぎか忍耐の苦鳴か、自分でも判然としない声が口から漏れる。
 もうこれ以上体がもちそうにない。限界だ。早くイかせてほしい。中途半端でやめられるのがいちばん辛い。生殺しだ。レイジの手で強引に開かれ両足の間、素っ裸の股間にはみっともないモノが勃ちあがってる。レイジのそれとは比べ物にならないほど軟弱なペニスに劣等感を抱きつつ、切れ切れに催促する。  
 「ふざ、けるなよ……お前のお遊びに付き合ってる暇ねえんだよ、とっとと本番入れよ」
 「いいのか?体馴らしとかないと後が辛いぜ。あせるなロン、せっかちは嫌われる。物事には順序がある、セックスには順番がある。前戯すっとばしたらお楽しみが半減だ」
 「恥ずかしいんだよこの格好、何度も言わせるなよ!」
 こめかみの血管が熱く脈打つ。レイジは完全にこの場の支配権を握っていた、さながら暴君のように俺の上に君臨してた。俺が泣こうが喚こうが吠えようが暴れようがてんで意に介さず、ただ笑ってる。
 苛立ちをこめ、体の脇でこぶしを握りこむ。
 暗闇の中で羞恥心の熾き火をかきたてられ、全身の血が沸騰する。
 嗚咽の衝動が急激に込み上げてきた。泣いてたまるか。我慢しろ。根性で涙腺を引き締めろ。もうこれで勘弁してくれ、イかせてくれとレイジに頭を下げて懇願したい欲求をねじ伏すのが大変だった。
 口腔の粘膜がペニスを包みこんで、五指が繊細な動きで竿を扱き上げる。息が上がる。びくりと体が強張る。片手を口にあてて声が漏れるのを防ごうとするが、駄目だ。
 「んっ、んっ、んっ……う!」
 指を噛んで声を堪えても、腰が快感に弾んでしまう。
 「気持ちいいのか」
 「よく、ねえ……あっ!」
 「強情っぱり」
 レイジがあきれ顔になる。うるせえ。意地でも「気持ちいい」なんて言うか。コンクリ壁に後頭部を預け、首を仰け反らせる。肩が断続的に跳ね上がり、呼吸が性急に速まる。頭がおかしくなりそうだ。熱くて熱くて気が狂いそうだ。股間がむず痒い。下半身に血が溜まっていく。レイジの舌を感じる。貪欲に柔軟に、レイジの口の中で動く舌。蛭の吸引力でペニスに絡み付いたかと思えば素早く離れて、亀頭を舌先でくすぐり、唾液の筋を付けて竿を這い、先端から根元にかけて根元から先端にかけてくりかえし舐め上げる。
 「本当はどうなんだ。気持ちいいんだろ」
 「よく、ねえって言ってんだろ自信家。その性格治さ、ねえと、女もダチもなくす、ぜ」
 目尻に涙が滲む。体が熱い。全身の細胞がドロドロに溶解してく感覚。イきたい。一分一秒でも早くイきたい出したいイきたくて気が狂いそうだおかしくなりそうだ。気付けば俺はレイジの後頭部に手をやって、物欲しげに股間に押し付けていた。もっともっと快楽を得たくて快感が欲しくて、腰が上擦り始める。
 「言ってることとやってることが違うじゃねえか」
 レイジが鼻で笑う。嫌味な顔。恥辱で顔が赤らんで視界に涙の膜が張る。涙で撓んだ視界にぼんやり映りこむレイジの顔、コンクリ打ち放しの房の暗闇、配管剥き出しの殺風景な天井……それら周囲の景色が混沌と渦巻いて眩暈がする。
 熱を放出したくてたまらないのに、射精したくてしたくてそれしか考えられないってのに、俺が達しそうになるのを見計らってレイジが手の速度を緩めるから……
 イきたい。東京プリズンに来てからもレイジがいない間に自慰したことはある……が、他人の手で擦られるのと自分の手でやるのじゃまるで違う。
 股間に顔を埋めたレイジを見下ろす。
 唇の隙間から抜き差しされるペニスは生き物みたいに脈打っていた。根元に手を添えて、片手で竿を扱いて、笛を吹くみたいに咥える。強弱つけて唇で吸い、舌を絡める。
 奉仕する側とされる側が逆転したような奇妙な、それでいてとても淫らな光景。
 俺は固く目を閉じてレイジの手が加速してくれるのを祈った。レイジの頭後頭を手で押さえて、裸の背中でコンクリ壁を這い上るように腰を浮かせる。吐息が乱れる。呼吸が荒くなる。次第に余裕がなくなる。口から声が漏れる。淫売みたいに濡れた喘ぎ声……嗚咽とうめきが入り混じったくぐもり声。
 声に弾みがつく。腰に弾みがつく。知らず知らず足を大胆に開き、腰を前に突き出し、自らレイジを迎え入れる体勢をとる。素っ裸の股間を無防備に外気に晒して、痣と擦り傷だらけの太股にレイジの頭を挟んで締め付ける。 
 「イきたい?」
 「……イ、きたくね……」
 なけなしの自制心を振り絞り、強情に首を振る。
 レイジに弱みを見せるのは嫌だ、調子づかせるのは癪だ。心と体が分裂する。体が貪欲に快感を求め始める、快楽を貪り始める。こんな……こんなの嘘だ。俺が自分からレイジにねだってるみたいな、積極的に奉仕に応じてるような、奉仕を手伝うように股をおっぴろげてるなんて嘘だ。相手はレイジなのに、男なのに、徐徐に抵抗が薄れ始めてるのか?すべての輪郭を曖昧にする暗闇で、粘着質に唾液を捏ねる音が行為の淫らさと疚しさ引き立てる。
 腰が溶けそうだ。蕩けそうだ。
 「我慢は体に悪いぜ。素直に『イきたい』って言やイかしてやってもいいんだけど」
 野郎、主導権握ってるからって調子のりやがって。
 「だ、れがお前のテクでイくか、よ。ここに来るまで何人何百人女や男抱いてきたんだか知らねえが自信持ちすぎだ、フェラチオなら俺のお袋のがよっぽど上手いしキスならメイファのほうが……、っひい!?」
 語尾は悲鳴にかき消された。
 レイジが突然、俺のペニスを握ったのだ。
 ぎりぎりで塞き止められて、限界まで張り詰めて、先端に透明な汁を滲ませていたそれを。無造作に。手加減なく。握り潰そうとしたのだ。
 欲張りなガキが、玩具を独占するみたいに。
 「痛あ、ああっああああっ、いっ……馬鹿、手え放せ、いてえよ!!」
 しきりに身をよじり激痛を訴えるがレイジは放してくれない。片手でペニスを包んで力を込めれば、尿道を圧迫される激痛に腰が浮き沈みをくりかえす。ペニスが充血、膨張する。きつく栓を締められたペニスは俺の腹に付きそうなほど急角度にそそり立ってうっすら汗をかいている。
 「レイジ、マジでやめっ……」
 「イきたい?」
 「ふざけるな、そこ男の急所だぞ!蹴られたらいちばん痛え場所だぞ、そんな風に掴んだらっ……」
 「小便漏らす?」
 「わかってんなら言わせるなよ、血尿でそうだよ!」
 首を仰け反らせ、うなだれ、両手でシーツを掻きむしる。全身の毛穴が開いてしとどに脂汗が噴き出す。レイジの手をはねのけようと必死に暴れてみるも、スプリングが軋む音が虚しく響くだけで効果がない。
 「いたっ……レイジ、手……」
 「どうしてほしいんだ」
 「どけ、ろ」
 「本当にどけていいの。物足りなくね?」
 刺激が欲しい。はやくイきたい、ラクになりたい。
 擦って扱いてほしい、途中でやめないで一気に……
 「………そこ掴まれると、イけね……」
 耳朶にふれる衣擦れの音。格子窓から射した光がピアスに反射、レイジの横顔を暴き出す。勝ち誇った顔。壁に背中を凭せ掛けて、欲情に目を潤ませて、だらしなく弛緩した口元から一筋涎を垂れ流した俺を隻眼で見上げてレイジは口元を緩める。
 口から垂れた唾液が顎を伝い、喉へと滑り落ちる。粘り気ある液体が喉沿いに緩慢に滑り落ちる感覚……生温かく粘り気ある感触。
 錆びた軋り音が上がる。レイジが膝立ちになり、スプリングに体重がかかる。膝這いに俺へとにじり寄ったレイジが、肩に顎をのせ、耳朶に口を寄せる。
 「ロン。今のお前、めちゃくちゃいやらしい」
 熱い吐息が耳朶を湿らす。体の表面がひどく敏感になってるせいか、耳朶に吐息を吹きかけられただけでぞくりと快感が走った。涼やかに鎖が流れる音……レイジの首にぶら下がった十字架が揺れて、玲瓏の旋律を奏でる。
 俺は十字架に目をやった。
 格子窓から射す僅かな光を吸いこんで、神秘的にきらめく黄金の十字架。
 催眠術の振り子のように一定の間隔で左右に振れて、ブレて、俺を眩惑する黄金の光の弧。
 レイジの声がすぐそば、吐息が睫毛を震わす距離で聞こえる。耳朶をくすぐる距離から響いてくる。
 「半開きの口から涎たらして、その涎が喉を伝って、へその窪みへと滑りおちる」
 「!あっ、」
 耳朶を噛まれる。
 「色っぽく眉しかめて、熱っぽく目を潤ませて、喉を仰け反らせて、もうたまんねえって顔してる。熱を煽られて余裕がなくなって、今にも理性が吹っ飛んじまいそうな、そんな顔。酸欠の魚みたいにみっともなく喘ぐなよ。どうした?腰が上擦ってるぜ。手をどけてほしいんじゃないのかよ。お前のペニスと来たら物欲しげにひくついて、イきたくてイきたくてしょうがねえって具合にびんびんに勃ってるぜ」
 「口縫い合わせるぞ」
 股おっぴろげて凄んでも効果はなかった。涙目の脅迫じゃ虚勢を張ってるとバレバレだ。痛いんだか気持ちいいんだか頭が朦朧として次第にわけがわからなくなる。体の皮膚が全部性感帯に造り返られたみたいにじれったく疼いて、射精に至る刺激に飢えて、太股が不規則に痙攣する。
 太股に震えがくる。ペニスに血が集中する。快感に溺れる。
 「はっ……あっ、あっ、あっ」
 「本当はイきたいんだろ。素直になりゃご褒美にイかせてやってもいいぜ。どうして欲しいか言えよ」
 栓を、外してくれ。手で擦ってくれ、扱いてくれ。 
 プライドをかなぐり捨ててそう泣きつきたかった。レイジが舌を出して目尻の涙を舐め取る。舌が、顔を舐める。顔じゅうしつこく舐めまわして唾液まみれにする。親猫が子猫の目脂を舐め取ってやってるみたいな無邪気さ。
 「男誘うみたいに腰揺すってるくせに。あんまり良すぎて涙ぐんでるくせに」
 「な、んで俺の表情がわかんだよ……暗闇で」
 「わかるよ。視力いいから」
 電気消しても意味ねえじゃん。だまされた。
 「そろそろ限界だろ。どうして欲しいんだ」
 「………っ、」
 言いたくねえ。絶対言いたくねえ。ちぎれんばかりに首を振り、レイジの誘いを拒絶する。
 熱い舌が耳の穴に捻じ込まれる。手が動く。俺のペニスはレイジに掌握されてる。このとんでもなく意地の悪い、我侭な王様に掴まれてる。
 握り潰すもイかせるも王様の気分次第ってわけだ。
 理性が蒸発する。尿道の疼きが最高潮に達する。
 激しい葛藤に苛まれる。プライドを選ぶか、快楽を選ぶか。レイジはもう口を使ってない、ただ竿の部分を握ってるだけだ。先端の孔を指で封じて射精を塞き止めて、にやにや笑いながら俺の様子を探ってる。
 腰が上擦る。粗くざらついたコンクリ壁が裸の背中を擦る。駄目だ。イきたいイきたいイきてえイきて……イきてえ!!
 レイジの手の中の竿が俺の鼓動に合わせてドクドク脈打ってる。
 「イ、かせろ……」
 俯き、吐き捨てる。頬に血が上る。頭を掻きむしり転げまわり喉裂けるまで絶叫したい衝動に駆り立てられるが、懸命に耐える。暗闇に白い歯を零して、レイジが冷笑する。
 「具体的にどうして欲しいか言ってくれなきゃわかんねーよ」
 そんな恥ずかしいこと口が裂けても言えねえ。奥歯を噛み縛り、腹の脇でこぶしを握りこんで急沸騰する怒りを押さえ込む。 
 「!!ひ、あっ……」
 片手で睾丸を揉みこみ、片手をゆっくり動かす。俺が達しないよう慎重に指を滑らして熱を追い上げる。指でちょっと擦られただけで腰全体が快感にとろける。
 「このままやめていいのか。そうか、ロンはお預け食うのが好きなのか?最後までイかずに中途半端でやめて苦しい思いするのが好きなのか。じゃあこのままやめてもいいよな、退屈なフェラチオはこれにて終了で次のステップに……」
 「やめ、るな!」 
 「だっていやなんだろ。気持ちよくないんだろ」
 首を振り、はっきりと否定する。俺はもうヤケになってた、どうにでもなれと開き直った。
 透明な汁が先走ったペニスは、腹につくほど屹立してドクドク脈打っていた。
 「イ、かせ、ろ………」
 嗚咽をこらえてレイジにしがみつく。レイジの肩のあたりを掴み、窒息してもかまうものかと胸板に顔を伏せ、駄々をこねるように首を振る。
 「擦って、扱いて……口で咥えて、気持ち良くしてくれ。イかせてくれ。もっとはやく手を動かして激しくしてくれ、俺が何も考えられなくなるくらいにめちゃくちゃによくしてくれ!!!」
 とうとう言っちまった。一息に願望をぶちまけた虚脱感でぐったりと肩が落ちる。真っ赤な顔を見られたくなくてレイジの胸板に顔を埋める。
 「お利口さん。よくできました」
 耳元で甘い囁き。レイジが俺の頭を気安く叩く。なんだか無性に泣きたくなった。怒りと悔しさと情けなさと惨めさがごっちゃになった最低な気分だった。かっこ悪い、俺。最悪だ。レイジの肩に杭打つように爪を立て、胸板に顔を擦りつける。レイジがひどくご満悦の笑顔で奉仕を再開、俺の膝に手をかけてこじ開ける。股間に顔を埋める。唇の隙間から覗いた舌が淫猥に蠢く。
 ペニスが口腔に吸いこまれる。
 「ふあっ、あっ、あああっああっああああっ……」
 しつこく唾液を捏ねる音が恥辱を煽りたてる。レイジの口はまるごと吸盤みたいで、舌は肉厚の触手みたいで、手の摩擦とそれらが連動して一滴残らず精気を搾り取ろうとする。背中が仰け反る。太股が突っ張る。ぞくりと体に震えがくる快感……一気に加速する快感。次第に強まる排尿感、体全体がひとつの心臓になったような鼓動の波紋。
 レイジの口の中でペニスが硬さを増して急激に膨張する。こんなもん口一杯に頬張ってレイジは苦しくないのだろうかと心配になる。吐き気は大丈夫だろうか、窒息は……不安げにレイジの様子を探れば、奴ときたら無心に、いっそ無邪気ともいえる表情でペニスを舐めていた。ぴちゃぴちゃ美味そうにしゃぶっていた。
 心配して損した畜生。
 「あっ、あっ、あっあっあっあっ」
 腰が弾む。声が弾む。舌の動きが激しくなり、手の摩擦が速まる。
 「レイジ、もういい……だから口から抜いてくれ放してくれじゃないと口の中に出しちまう!」
 レイジに縋り付き、必死に訴える。だが、レイジはやめない。そんなことはなからお見通しだといわんばかりに俺の顔面を片手で覆って奉仕を続ける。
 「いいから出せよ。呑むから」
 「!?」
 喉が引き攣る。
 呑むってまさかザーメンを?だってそんなもん呑んだってうまくねえのに、苦いだけなのに……嫌だ、レイジの口の中でイってたまるか!俺は無茶苦茶に暴れだす。両こぶしで肩を殴り付けて甲高い奇声を発してありとあらゆる罵詈雑言を浴びせてレイジを非難する。スプリングが律動的に弾んでベッドが上下に揺れる。レイジの肩を掴む。嫌だ、イきたくねえ。イきたいけどイきたくねえイきたくねえ、口の中に出したくねえ!外に、外に出させてくれ!
 「だって汚ね……」
 「汚くない。呑ませてよ」
 「お前、嫌いだ。大嫌いだ。これ終わったらぜってえ殺してやる……」
 「サンキュ」
 レイジの返答はひどくくぐもって聞き取りにくかった。口一杯にペニスを頬張っていたからだ。
 「あっあっあっあっあっひあっ………ああああああっあああっあっ!!!」
 イく。出す。レイジの喉の奥へ突っ込むように腰を仰け反らせて、そして―……
 射精の瞬間。頭が真っ白になった。今までこらえにこらえていたものが、限界まで張り詰めていたものががぷちんと弾け飛んで意識が拡散する。
壁に背中を預けてそのままずり落ちる。
 ひどくあっけなかった。この先進めも戻れもしない、自分の意志じゃどうにもならない瀬戸際に追い詰められて体の制御が利かなかった。
 レイジの口腔で爆ぜた事実に打ちのめされて、ベッドに四肢をつき、首をうなだれる。唾液と精液が入り混じった白濁の糸を引いたペニスが口から抜ける。手の甲で無造作に顎を拭き、レイジが喉を鳴らす。
 呑んじまった。
 レイジの口の端からは呑みきれなかった精液が一筋たれていた。レイジは何の抵抗も躊躇もなく俺の精液を嚥下した、飲み干した。唇の端にあてた親指で零れたぶんを拭き取り、おそろしく淫らに微笑む。
 「どうした?フェラチオだけで疲れ切った顔して……一回イっただけで満足するなよ。夜はまだ長いんだからこれからいくらでもできるだろ。二回でも三回でも四回でも五回でもイってみろよ、出してみろよ」
 肩で息をしながら、どんより濁った目でレイジを見上げる。フェラチオだけで俺は精神的にも肉体的にも消耗しきっていた。この上連続で射精したらからからに干からびちまいそうだ。
 が、恨めしげな目つきで見られたレイジはといえばちっとも悪びれたふうなく飄々としてる。
 壁に背中を預けた俺は、浅く弾む呼吸の狭間から懇願する。
 「『疲労的……全身無力、想我休息』」
 疲れた。休みたい。うわごとめいた台湾語でたどたどしく訴えかける俺をよそに、レイジが再び動き出す。今度は何だ?半ば落ちかけた瞼を開き、虚ろな目でレイジの行動を観察する。
 視界が回る。体が反転、瞬く間に裏返しにされる。
 「!なっ……、」
 仰向けに寝転んだ俺の背後にレイジが回りこみ、両足の間に手をさしいれて強引に開く。レイジに裸の尻を向けた格好になった俺の胸裏で不吉な予感が膨らむ。
 「気持ちよくさせてやったお礼に俺も気持ちよくさせてくれよ」
 レイジが密やかに笑い声をたてる。俺はこれから自分の身に起こることを想像して頭が爆発しそうな恐慌に駆られた。前戯の次は本番。わかってる、そうなるだろうなと薄々感づいてた。けど、やっぱり怖い。そりゃレイジとの約束は守りたい、レイジの頑張りに報いたい気持ちは本物だけど……
 土壇場で決心が揺らぐ。 
 ケツに入れるなんておかしい、ケツに入れられてよがる奴の気持ちなんて俺には永遠にわからない、理解したくない。
 内股をあやしく撫でるレイジの手。くすぐったさと紙一重の快感がレイジの手に触れられた場所から湧き起こる。レイジの指がふれたそばから体の皮膚が性感帯に造りかえられてくみたいに、太股がじんわり熱を帯びて敏感になっていく。さっき達したばかりの先端がまた持ち上がり始めてる。
 「レイジ、やめ……やっぱよそうぜこんなの、おかしいよ。ケツに入れるなんて想像できねえ、出血したら後始末面倒だし第一めちゃくちゃ痛いに決まってる。痔は勘弁だ」
 「雰囲気ぶち壊すこと言うなよ」
 「当たり前だ、わざと萎えること言ってんだから」
 怖い。叫びたい。逃げたい。かすかに体が震える。四つん這いでシーツを張って逃げようとして、レイジに足を掴まれ引き戻される。レイジの手を蹴り飛ばそうとしたが、遅かった。レイジは今や完全に俺の足の間に割り込んで、背中に体重かけてのしかかって俺を押さえ付けてる。
 「怖くない。大丈夫だから」
 「嘘だ」
 「できるだけ痛くないようにするからさ。信じろって、処女には優しいのが取り柄なんだから」
 口元に笑みを含んで俺をなだめるレイジ。こめかみに唇を落とし、俺の緊張をほぐそうと優しく愛情こめた手つきで背中を撫でる。長さと間接のバランスが絶妙なレイジの手……醜く節くれだち、汗でべとついたタジマの手とは全然違う。別物だと頭じゃわかってる、だが心が納得しない。タジマに襲われた時の記憶が脳裏にまざまざとよみがえる。鮮明な悪夢。俺のズボンひん剥いてケツを裸にして満面に下劣な笑みを湛えたタジマ。ヤニくさく黄ばんだ歯を剥いて高笑い、肥満腹を揺すって俺の背中にのしかかって……
 「怖いんだよ」
 今まで心の奥底に秘めてた本音が口を突いて出た。
 シーツに顔を埋め、嗚咽を噛み殺す。俺は今だにタジマが怖い、東京プリズンを去ったタジマの存在に恐怖と脅威を感じてる。またいつタジマが現れるかわからない、俺に襲いかかるかもわからない。タジマに自慰を強制された。俺がぎこちない手つきでペニスを扱き上げるのを眺めてタジマは笑っていた、丈夫な革靴でペニスを踏みにじって射精を促した。売春班の仕事場では目隠しされて煙草で焼かれた、両手を固定されて首筋をねちっこく舐められた。タジマはさかりのついた豚みたいだった。医務室に入院してた頃だって、皆が寝静まった夜中に性懲りなく強姦しにやってきた。
 怖い。俺にのしかかるすべての男がタジマとだぶって見えて、体が鳥肌立てて拒絶反応を起こす。
 「タジマはいなくなった、お前に照明落とされて病院に運ばれた。もう二度と戻ってこねえって何百回も自分に言い聞かせて安心させて、でも駄目なんだ、肝心なときに尻ごみしちまうんだ!ひょっとしたらタジマがいるんじゃねえか、今も近くにタジマがいるんじゃねえかって悪い想像ばっか膨らんで、心臓止まりそうにおっかない夢ばっか見て……
 お前もタジマとおんなじだ、前から俺のケツ狙ってたんだろ、俺が泣こうが喚こうがお構いなしに問答無用でぶちこんで念願はたす気なんだろ!?
 お前もタジマと一緒のゲス野郎だ、俺の意志なんか関係なく自分のやりたいようにやるんだ、なら鳩尾にガツンと一発入れて気絶させてくれよ、俺が気絶してるうちに全部終わらせてくれよ!!」
 やり場のない怒りが込み上げてくる。
 名伏しがたい衝動が体の奥底から突き上げて咆哮をあげる。俺はタジマに逆らえなかった、タジマのことが大嫌いなのに、生理的嫌悪で吐き気に襲われるくらいなのに、煙草で焼くぞと脅されて言うなりになった。
 昔、お袋の身代わりに俺を犯そうとした男の記憶が頭の奥から涌き出る。 
 顔はよく覚えてない。
 目鼻立ちはあやふやで、顔はそこだけ霧がかったように曖昧な印象だった。
 そいつは大股に廊下をのし歩き、俺の腕を引っ張る。腕が引っこ抜けそうな激痛に死に物狂いで暴れて抵抗、踏ん張りを利かせて廊下に踏み止まろうとするが大人と子供じゃ勝負にならない。
 腕一本で引きずられる。ドアが近付いてくる。お袋の仕事場。あそこにはベッドがある。男と女が二人寝れば一杯になる狭苦しいベッドが鎮座してる。そして俺は背中からベッドに倒れこんで……
 みんな、みんな無理矢理俺を犯そうとする。何度も何度も嫌だって叫んだのに、決死の覚悟で暴れたのに。俺が痛くてもお構いなしに、気持ち悪くてもお構いなしに、下半身の欲望を満たそうとする。
 「お前も一緒だ、結局男なんかみんな一緒じゃねえか!俺も男だけどお前らみたいにだけはならないって決めてたのに、メイファのこと幸せにしてやりたいって本気で思ってたのに……わかってるよガキっぽい願望だって、世間舐めた甘い考えだってわかってるよ!わかってるけど、メイファ幸せにすることができりゃ俺も男として一人前になれるって、自信もてるって、俺のケツ狙った奴らとは違うんだって証明できるってあの時はマジで信じてたんだよ!!」
 俺が甘かったのだ、どうしようもなく。
 12歳のガキに一体何ができるってんだ。女と将来約束して、二人分の人生背負って、それでちゃんとやってけるのかよ。仕事は?生活費は?メイファは俺の甘さを見ぬいてた、だから俺についてこなかった。メイファは悪くない。メイファは賢い。俺は知ってる、女はいつだって賢くて男はいつだって単純馬鹿だ。後者は下半身でしか物を考えないのだ。 
 シーツを握り潰して本音を叫ぶ。
 今まで抑圧してきた感情が堰を切ったように溢れ出して、言葉の洪水が溢れ出して止まらなかった。 
 「これじゃ結局俺は男にヤられるのが似合いのヤツで、ただのガキで、誰一人も幸せにできねえ役立たずだって言ってるみたいなもんじゃねえか!ヤれよレイジ、俺の足広げてケツにぶちこめよ中だししろよ!タジマが羨ましがるぜ、売春班でヤれなかったの俺だけ……っ!?」
 前髪を乱暴に毟られる。
 背後から伸びた手が無造作に前髪を掴んで、俺を強引に振り向かせる。
 髪の毛が頭皮から剥がれる激痛に苦鳴を漏らしつつ振り向いた俺は、愕然とする。
 「あんまり聞き分けねーと怒るぞ」 
 レイジの声は静かだった。口元は微笑んですらいた。が、目は微塵も笑ってなかった。
 おそろしく獰猛なものを孕んだ、危険極まる眼光。
 「もう一度言ってみろよロン。だれがタジマの同類だ?タジマとおんなじでケツにぶちこめば満足するって?舐めるなよ。俺がケツにぶちこみさえすりゃそれで満足するって本気で思ってんのかよ」
 レイジの手に握力がこもる。髪の毛を掴む力が増す。
 焼き鏝を押し付けられたみたいに頭皮がひりひり疼く。俺はレイジから目を逸らせなかった。レイジはまっすぐに俺の目を覗きこんでいた。
 隻眼を剣呑に細めて、鋭利な眼光を放って、至近距離に顔を近付ける。
 「大間違いだ。性欲のはけ口ならお前にこだわらず他捜すさ、どっかそのへんのヤツに適当にあたるさ。タジマと一緒?どこが一緒だよ。勘違いすんなよロン。俺がお前とヤりたいのはたんなる憂さ晴らしでも暇つぶしでもない」
 口元の笑みが薄れ、レイジが完全に真顔になる。
 「お前のことが好きだからさ。好きで好きで頭がおかしくなりそうだからさ。心も体もひとつになりたくて、お前のことがもっと知りたくて、俺のことをもっと知ってほしくて、それにはセックスがいちばん手っ取り早いからさ。好きなやつと寝たいと思うのがそんなにおかしいか?」
 「…………」
 レイジの胸元では十字架が輝いてる。永遠に色褪せない真実の輝き。
 レイジの眼光と同じ輝き。 
 前髪から手を放し、唇が触れ合う距離に迫る。
 「お前のこと無理矢理犯そうとした連中と一緒にされちゃたまんねえよ。そんな奴ら俺が殺してやる、ロンは俺の物だ、お前を傷付ける奴はみんな殺してやる。八つ裂きにしてやる。ナイフで喉かっさばいてたらふく鉛弾食わせてやる。本領発揮で鏖殺してやる。お前に付き纏う悪夢なんか鼻歌まじりに蹴散らしてやる、地獄に追い払ってやる」
 レイジの目に魅入られる。
 この上なく愛しいものを見るような、聖母みたいな目。
 唇に柔らかい感触。俺の唇に押し付けられたレイジの唇の感触。
 「逃げるな、拒むな、怯えるな。ちゃんと目を開けて俺の顔を見ろ、ロン。俺はタジマか?」
 よわよわしく首を振る。
 「ガキの頃、お前を無理矢理犯そうとした男か」
 今度はきっぱりと首を振る。泣きたくなるのを堪え、次第に速度を上げて、そうじゃないと否定する。
 『Who am I?』
 レイジが訊ねる。深呼吸で勇気をかき集め振り絞り、毅然と顔を上げる。
 レイジの目をまっすぐ見つめる。
 今度は逃げなかった。レイジに怯える必要がないとわかったからだ。レイジはタジマじゃない、昔俺を襲った男じゃない。レイジはレイジだ。俺の大事な相棒だ。
 誰よりも頼りになる、誰よりも心を許せる、俺の自慢の……
 「お前は、レイジだ」
 「そうだよ」
 「英語の『憎しみ』。いつもへらへら笑ってるむかつく奴。本気と冗談の区別がつかねえ紛らわしい奴。サーシャと浮気した尻軽。図書室で借りた聖書で敵を薙ぎ倒すばちあたり」
 「そのとおり」
 「俺の為に、全身ぼろぼろになりながら戦ってくれた。俺の為に何度も死にかけて、今ここにいる」
 レイジに対する恐怖が氷解して、胸の内が温かい感情で満たされた。
 レイジがもう一度、今度は前にも増して優しく俺の唇に触れ、目を閉じて感触を味わう。俺も目を閉じて応える。ぎこちないキス。レイジの唇は温かかった。ちゃんと生きてる証拠、血が通ってる証拠だ。人肌のぬくもりが嬉しくて、俺は自分からレイジの腕にとびこんでいく。
 レイジが今ここにいてくれて、よかった。
 生きててくれてよかった。
 「おかえり」が言えてよかった。また元気な顔が見れてよかった。
 笑ってくれてよかった。
 レイジの胸に倒れこんだ俺は、衣擦れの音に紛れて消えそうな小声で呟く。
 「………いいぜ」
 レイジの胸から顔を起こし、上体を立てなおす。ベッドに座りこみ、大きく二度深呼吸する。暗闇に目を凝らしてレイジの表情を観察すれば、柄にもなく緊張してるらしく顔が強張っていた。
 真摯な光を湛えた隻眼を覗きこみ、俺は言った。
 レイジを受け容れる覚悟を決めて。
 「俺を抱いてくれ」 
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