7 / 25
下弦の月(前編)
しおりを挟む
「あー、もうダメ! 死ぬ」
守屋君が、シャーペンを投げ出した。
「もうギブアップ? 根気がないなあ」
私は軽い溜息をついた。
八月──────
守屋君とつきあい始めて三週間が過ぎた。
私達は毎日、午前中は予備校の授業を受け、午後はセルフカフェでお昼を食べた後、守屋君の部屋で私が彼の勉強を見ている。
パッとしない成績の彼なのに、本当はすごく頭がいいことに私は驚いた。
教える内容をどんどん吸収する、その理解の早さには舌を巻く。
知的好奇心も強い彼は、時々ハッとするような質問も投げかけてくる。
しかし、欠点は集中力がないことだった。
私が教えていてもすぐ欠伸。つまらなさそうに、横を向く。
それで仕方なく時々、彼が淹れてくれる珈琲でブレイクタイムを挟み、彼の趣味の洋楽をBGMに他愛ないお喋りに興じながら、真夏の午後を過ごしている。
「今日はここまでにしましょう」
私は、予備校の数学の問題集をパタンと閉じた。
「珈琲、淹れなおしてくるな」
守屋君は空になったグラスをトレーに乗せると嬉しそうに席を立ち、部屋を出て行った。
もう夕方だ。
ベランダから見える西の山の端の空が赤い。
今日はこれから、どうしようかな。何時に帰ろう。
あれ以来、サキさんの美味しい夕食をご馳走になることも多い。
私は本当に毎日、守屋君と朝から晩まで一緒に過ごしている。
考えもしなかったことなのに。
未だに信じられない。
でも、ふとした瞬間、面映く頰が緩んでいる自分に気づく。
幸せな恋……それは、十七年間の人生の中で生まれて初めての経験だった。
「おまたせ」
感慨に耽っていると程なく彼が部屋に戻ってきた。
テーブルに新しい珈琲グラスとポテチの袋が並ぶ。
「美味し……」
水滴のついたグラスを片手に、呟いた。
「珈琲、好きだよな。神崎」
「大好き」
「俺も」
彼が柔らかく笑う。
そんな穏やかな夕暮れのひとときを過ごしていたはずの、その時だったのだ──────
「神崎」
急に守屋君が真剣な瞳で私を見つめた。
「守屋君……?」
次の瞬間。
私は、あっ…!と軽い叫び声をあげていた。
彼に手を取られ、強引に押し倒されたのだ。
私は真上に彼の顔を見上げていた。
彼は切なげにまなじりを歪め、私を見る。
「今夜は……帰したくない」
彼はそう呟き、そして、私を強く抱き締めた。
彼が激しく口づけてくる。
「あ……」
胸元に指が這う。
彼の狂おしげな息遣いを耳元で感じながら、私はどうしていいかわからない。
こんな……こんなこと。
あの八月初日に性急に求められて以来、こんなことは初めてだった。
毎日、部屋で二人きりで勉強していても、守屋君、軽くキスするくらいでそれ以上は何もしない。
時折、ただ優しくハグしてくれるだけ。
きっと、あの日。
私が……怯えたから……。
それなのに。
何故。
どうして、突然……?!
──────苦しい。
そんなにきつく抱き締めないで、守屋君……!
「離し……」
のけぞろうとして、その手首を掴まれ、また口唇を塞がれる。
「帰したくない」
耳元で囁く彼は尚、私を固く抱き締め離さない。
「たまらないんだ。お前見てると。どうしたって、触れたくなる。本当は大切に、そっと大事に守ってやりたいのに……時々、この手でメチャメチャにしたくなる。俺の……この手で……」
守屋君、どうして。
いつもの守屋君らしくない。
いつもの静かな彼じゃない。
激しい……。
激しくて、怖い。
たまらなく。
──────守屋君が怖い……!
幾度も口唇を塞ぎ、私の髪をくしゃくしゃに掴み、彼は闇雲に私を抱き締める。
「初めてだよ、こんなの……。女なんて誰も同じだと思ってた。一枚脱がせば後は変わらない。抱けば抱く程つまらなくなって……ほとんど惰性だった。ちょっと優しくすれば、すぐひっかかる。自分から脱いでくる」
守屋君……私を見つめた。
「初めてだよ、玲美以外の女で……本気で好きになったのは」
守屋君……!
「手を出すまいと思った。何があっても。あの日、泣き出しそうになったお前を見て、いつか自然とそうなる時を、待とうと思った。──────けれど、ダメなんだ……。どうしても。もう限界だよ」
耳元で囁いた。
「今夜は、帰さない」
守屋君、守屋君……!
苦しい。
激し過ぎる。
守屋君は。
いつも静かで。
いつも優しくて……。
本当の守屋君はこうじゃない。
こんな守屋君じゃない……!
こんな。こんな守屋君、は……。
いやよ……。
その時、ハッとしたように彼の顔色が変わった。
「ごめん……。悪かった」
私を固く抱き締め離さなかった腕の力がようやく弱まり、
「とうとう、泣かせちまったな……。俺」
頭上で掠れた声がした。
背けた目から止め処なく溢れる涙で、守屋君の姿がぼやける。
「でも……。俺は、おまえを……」
しかし彼の手が再び、私に触れた時。
「神崎……!!」
私は反射的に身を起こすと素早く傍らのトートバッグを手に取って、彼の部屋から飛び出していた。
***
ウォーン……ウォーン……
どこかで遠く犬が鳴いている。
私は、陽も落ちかけている黄昏時、知らない住宅街を歩いていた。
気がついた時には、守屋君の家から、遠く、遠く離れていた。
とぼとぼとひとり、重い足取りでただ歩く。
辺りには香ばしい夕餉の匂いが漂っている。
どこからかモーッアルトのソナチネのまだ拙い小さなピアノの音色が響いてくる。
雨……?
ふと、頭上を仰ぎ見ると、一転して空が暗い。
ポツ、ポツリ……
真夏特有の夕立ち。
たちまち大きな雨粒が落ちてくる。
大きな家ばかりが並ぶ御屋敷町を通り抜け、行き交う人で賑わう大通りに出た。
擦れ違う人が時折、物珍しげに私を振り返り、通り過ぎてゆく。
いいんだ、濡れたって。
心で呟きながら、私は肩を落として歩く。
いいんだ。濡れたって……。
涙、隠してくれる───
守屋君が、シャーペンを投げ出した。
「もうギブアップ? 根気がないなあ」
私は軽い溜息をついた。
八月──────
守屋君とつきあい始めて三週間が過ぎた。
私達は毎日、午前中は予備校の授業を受け、午後はセルフカフェでお昼を食べた後、守屋君の部屋で私が彼の勉強を見ている。
パッとしない成績の彼なのに、本当はすごく頭がいいことに私は驚いた。
教える内容をどんどん吸収する、その理解の早さには舌を巻く。
知的好奇心も強い彼は、時々ハッとするような質問も投げかけてくる。
しかし、欠点は集中力がないことだった。
私が教えていてもすぐ欠伸。つまらなさそうに、横を向く。
それで仕方なく時々、彼が淹れてくれる珈琲でブレイクタイムを挟み、彼の趣味の洋楽をBGMに他愛ないお喋りに興じながら、真夏の午後を過ごしている。
「今日はここまでにしましょう」
私は、予備校の数学の問題集をパタンと閉じた。
「珈琲、淹れなおしてくるな」
守屋君は空になったグラスをトレーに乗せると嬉しそうに席を立ち、部屋を出て行った。
もう夕方だ。
ベランダから見える西の山の端の空が赤い。
今日はこれから、どうしようかな。何時に帰ろう。
あれ以来、サキさんの美味しい夕食をご馳走になることも多い。
私は本当に毎日、守屋君と朝から晩まで一緒に過ごしている。
考えもしなかったことなのに。
未だに信じられない。
でも、ふとした瞬間、面映く頰が緩んでいる自分に気づく。
幸せな恋……それは、十七年間の人生の中で生まれて初めての経験だった。
「おまたせ」
感慨に耽っていると程なく彼が部屋に戻ってきた。
テーブルに新しい珈琲グラスとポテチの袋が並ぶ。
「美味し……」
水滴のついたグラスを片手に、呟いた。
「珈琲、好きだよな。神崎」
「大好き」
「俺も」
彼が柔らかく笑う。
そんな穏やかな夕暮れのひとときを過ごしていたはずの、その時だったのだ──────
「神崎」
急に守屋君が真剣な瞳で私を見つめた。
「守屋君……?」
次の瞬間。
私は、あっ…!と軽い叫び声をあげていた。
彼に手を取られ、強引に押し倒されたのだ。
私は真上に彼の顔を見上げていた。
彼は切なげにまなじりを歪め、私を見る。
「今夜は……帰したくない」
彼はそう呟き、そして、私を強く抱き締めた。
彼が激しく口づけてくる。
「あ……」
胸元に指が這う。
彼の狂おしげな息遣いを耳元で感じながら、私はどうしていいかわからない。
こんな……こんなこと。
あの八月初日に性急に求められて以来、こんなことは初めてだった。
毎日、部屋で二人きりで勉強していても、守屋君、軽くキスするくらいでそれ以上は何もしない。
時折、ただ優しくハグしてくれるだけ。
きっと、あの日。
私が……怯えたから……。
それなのに。
何故。
どうして、突然……?!
──────苦しい。
そんなにきつく抱き締めないで、守屋君……!
「離し……」
のけぞろうとして、その手首を掴まれ、また口唇を塞がれる。
「帰したくない」
耳元で囁く彼は尚、私を固く抱き締め離さない。
「たまらないんだ。お前見てると。どうしたって、触れたくなる。本当は大切に、そっと大事に守ってやりたいのに……時々、この手でメチャメチャにしたくなる。俺の……この手で……」
守屋君、どうして。
いつもの守屋君らしくない。
いつもの静かな彼じゃない。
激しい……。
激しくて、怖い。
たまらなく。
──────守屋君が怖い……!
幾度も口唇を塞ぎ、私の髪をくしゃくしゃに掴み、彼は闇雲に私を抱き締める。
「初めてだよ、こんなの……。女なんて誰も同じだと思ってた。一枚脱がせば後は変わらない。抱けば抱く程つまらなくなって……ほとんど惰性だった。ちょっと優しくすれば、すぐひっかかる。自分から脱いでくる」
守屋君……私を見つめた。
「初めてだよ、玲美以外の女で……本気で好きになったのは」
守屋君……!
「手を出すまいと思った。何があっても。あの日、泣き出しそうになったお前を見て、いつか自然とそうなる時を、待とうと思った。──────けれど、ダメなんだ……。どうしても。もう限界だよ」
耳元で囁いた。
「今夜は、帰さない」
守屋君、守屋君……!
苦しい。
激し過ぎる。
守屋君は。
いつも静かで。
いつも優しくて……。
本当の守屋君はこうじゃない。
こんな守屋君じゃない……!
こんな。こんな守屋君、は……。
いやよ……。
その時、ハッとしたように彼の顔色が変わった。
「ごめん……。悪かった」
私を固く抱き締め離さなかった腕の力がようやく弱まり、
「とうとう、泣かせちまったな……。俺」
頭上で掠れた声がした。
背けた目から止め処なく溢れる涙で、守屋君の姿がぼやける。
「でも……。俺は、おまえを……」
しかし彼の手が再び、私に触れた時。
「神崎……!!」
私は反射的に身を起こすと素早く傍らのトートバッグを手に取って、彼の部屋から飛び出していた。
***
ウォーン……ウォーン……
どこかで遠く犬が鳴いている。
私は、陽も落ちかけている黄昏時、知らない住宅街を歩いていた。
気がついた時には、守屋君の家から、遠く、遠く離れていた。
とぼとぼとひとり、重い足取りでただ歩く。
辺りには香ばしい夕餉の匂いが漂っている。
どこからかモーッアルトのソナチネのまだ拙い小さなピアノの音色が響いてくる。
雨……?
ふと、頭上を仰ぎ見ると、一転して空が暗い。
ポツ、ポツリ……
真夏特有の夕立ち。
たちまち大きな雨粒が落ちてくる。
大きな家ばかりが並ぶ御屋敷町を通り抜け、行き交う人で賑わう大通りに出た。
擦れ違う人が時折、物珍しげに私を振り返り、通り過ぎてゆく。
いいんだ、濡れたって。
心で呟きながら、私は肩を落として歩く。
いいんだ。濡れたって……。
涙、隠してくれる───
0
あなたにおすすめの小説
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
あるフィギュアスケーターの性事情
蔵屋
恋愛
この小説はフィクションです。
しかし、そのようなことが現実にあったかもしれません。
何故ならどんな人間も、悪魔や邪神や悪神に憑依された偽善者なのですから。
この物語は浅岡結衣(16才)とそのコーチ(25才)の恋の物語。
そのコーチの名前は高木文哉(25才)という。
この物語はフィクションです。
実在の人物、団体等とは、一切関係がありません。
王弟が愛した娘 —音に響く運命—
Aster22
恋愛
村で薬師として過ごしていたセラは、
ハープの音に宿る才を王弟レオに見初められる。
その出会いは、静かな日々を終わらせ、
彼女を王宮の闇と陰謀に引き寄せていく。
【完結】20年後の真実
ゴールデンフィッシュメダル
恋愛
公爵令息のマリウスがが婚約者タチアナに婚約破棄を言い渡した。
マリウスは子爵令嬢のゾフィーとの恋に溺れ、婚約者を蔑ろにしていた。
それから20年。
マリウスはゾフィーと結婚し、タチアナは伯爵夫人となっていた。
そして、娘の恋愛を機にマリウスは婚約破棄騒動の真実を知る。
おじさんが昔を思い出しながらもだもだするだけのお話です。
全4話書き上げ済み。
ちょっと大人な体験談はこちらです
神崎未緒里
恋愛
本当にあった!?かもしれない
ちょっと大人な体験談です。
日常に突然訪れる刺激的な体験。
少し非日常を覗いてみませんか?
あなたにもこんな瞬間が訪れるかもしれませんよ?
※本作品ではGemini PRO、Pixai.artで作成した生成AI画像ならびに
Pixabay並びにUnsplshのロイヤリティフリーの画像を使用しています。
※不定期更新です。
※文章中の人物名・地名・年代・建物名・商品名・設定などはすべて架空のものです。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる