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恋は堕ちるもの
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「佐伯さん。お水です」
奏子はセルフの給水器から戻ると何事もなかった風を装い、清志郎の前に新しいコップを置いた。それからオムライスの残りに口をつけたが、それはもう冷めていて、仕方なく奏子はスプーンを置いた。
「食欲がありませんか?」
「いえ。そういうわけでは……」
奏子は何故だかわからない胸の不安を覚え、
「すみません。これで失礼します」
と、席を立とうとした。
「阪井さん、これを」
「これは……」
「貴女さえよければいつでも連絡して下さい」
それは、テーブルに常備されている小さな薄い長方形の紙ナプキンに、濃く青いインクの万年筆の静謐な筆致でしたためられた清志郎の個人情報だった。
「受け取ってください」
清志郎の口調は奏子に有無を言わせず、そのまなざしは強い光を宿していた。
奏子の手の指が微かに揺れた。一瞬の躊躇い。
「失礼します」
奏子はそれを受け取ると逃げるようにその場を立ち去った。
***
どうして。
どうして、あの人は私にあんなものを渡したんだろう。
帰宅してすぐリビングに冷房を強風でいれ、それからバスルームで37度のぬるいシャワーを浴びながら、奏子は考える。
私に電話番号や、メアドを渡して……私が連絡すると思っているんだろうか。
そんな女に見られたなんて……。
奏子は自分が恥ずかしかった。
こんな。
こんな胸焼ける気持ちは……。
あらくん……あらくんに出逢った頃そうだった。
奏子は過去に意識を馳せる。
旭良は、それまで人を本気で好きになった経験などなかった奏子が、一目で惹かれた相手だ。
身長は165㎝と高くはないが、そう見た目は悪くなく、優しくて頭の回転も速く、気配りもさりげない。それは、見合いの席での旭良の振る舞いですぐにわかった。そして、旭良もまた奏子に好印象を抱いてくれたことも。
その席で次に会う約束を交わし、それはその次の約束へと続いて、見合い半年後に結納を交わし、その半年後の季候の良い五月の大安吉日に結婚式を挙げた。
それは、こじんまりとした小さなホテルの教会での挙式、控えめな披露宴だった。父・功造に母・淑子は会社の関係者も招き、盛大な華燭の典にしたかったようだが、当の奏子が首を縦に振らなかった。
それでも、二人がよく食事を重ね、雰囲気をとても気に入っていたホテルでの厳かなチャペルウエディングは奏子の期待通りのものだったし、親族・友人メインのその披露宴はとても心のこもった温かい良い結婚式だったと奏子は今でも懐かしく思い出す。
バスルームから出て、今治の白いバスタオルで髪の滴をよく拭いながら、奏子は書斎の本棚からアルバムを取り出した。
見事な刺繍の施された長いベールを靡かせ、肘までくるシルクのグローブを身につけた両手で、白薔薇のラウンドブーケを持ち微笑んでいる純白のウエディングドレス姿の奏子。オフショルダーの王道クラシカルなそのドレスは、露出も控えめでいかにも奏子らしく、そして奏子の華奢な鎖骨を一層綺麗に見せ、とても上品な印象を与えている。
一方、お色直しでは大胆にデコルテを見せているが、柔らかいオーガンジーのふんわりとしたピンクのカクテルドレスはやはり奏子の優しい雰囲気に合っている。
あの頃は奏子の髪も長かった。
ウエディングドレスの時にはアップに結い、白銀に輝くティアラを冠し、カクテルドレスの時には胸元より長い髪をハーフアップに白とピンクの花飾りで丹念に編み込みあしらっている。
新婚旅行には五泊六日でフランス・ドイツ・スイスに行った。ルーブル美術館でドラクロワの『民衆を導く自由の女神』を生で見た時の衝撃。雨に煙ったレーゲンスブルクの煉瓦敷きの街並みの美しさ。チロル地方の山間部の静かでのどかな風景……チューリッヒからシンガポール航空で帰途に就く時、絶対もう一度、旭良と共に訪れようと思った。
あの頃から自分の旭良に対する愛情は全く変わらない。
それなのに……。
何故、この紙ナプキンを受け取ってしまったんだろう。
手元には、長方形の白い紙片。
それを丸めて部屋の隅の屑籠へ捨ててしまえばいい。
握りつぶそうとして、しかし。
奏子はそれをドレッサーの引き出しに収めた。
それは自分の心をも秘密の小箱にしまい込むかのように……。
***
例年より短かった梅雨が明け、本格的な夏が訪れた。
今年は記録的な猛暑で、体が弱い奏子には殊に堪え、奏子は日中、外出しない日が続いていた。食品や日用品は生協の宅配を利用し、買い物に出かけることもほとんどしない。
あの日以来、『PRIMEVERE』にも行っていない。
リビングのソファに横たわり、好きな音楽を聴きながら静かに気怠い夏の一日をやり過ごす。
自分の気持ちを見つめながら。
清志郎のことを考えている自分に戸惑いながら。
毎朝メイクをする度に、ドレッサーの引き出しの奥にしまい込んだあの紙ナプキンの存在が奏子を苦しめている。
捨ててしまえばいいのに。それができない。
何故。連絡をするわけではないのに。
元々、奏子は物に執着するタイプではない。断捨離もできるし、家の中は整然と片付いている。
それなのに、あれだけが捨てられない。
それは……。
奏子の心の奥底を徐々に浸食していく想い。
奏子の好きな作家・白石雄のエッセイにあった一節を奏子は思い出していた。
“恋はするものではない。恋は堕ちるものです”
その言葉の意味を奏子は考える。
奏子はドレッサーから白い紙片を取り出した。
そして。
震える指で、清志郎のアドレスをスマホのアドレス帳に入力した。
奏子はセルフの給水器から戻ると何事もなかった風を装い、清志郎の前に新しいコップを置いた。それからオムライスの残りに口をつけたが、それはもう冷めていて、仕方なく奏子はスプーンを置いた。
「食欲がありませんか?」
「いえ。そういうわけでは……」
奏子は何故だかわからない胸の不安を覚え、
「すみません。これで失礼します」
と、席を立とうとした。
「阪井さん、これを」
「これは……」
「貴女さえよければいつでも連絡して下さい」
それは、テーブルに常備されている小さな薄い長方形の紙ナプキンに、濃く青いインクの万年筆の静謐な筆致でしたためられた清志郎の個人情報だった。
「受け取ってください」
清志郎の口調は奏子に有無を言わせず、そのまなざしは強い光を宿していた。
奏子の手の指が微かに揺れた。一瞬の躊躇い。
「失礼します」
奏子はそれを受け取ると逃げるようにその場を立ち去った。
***
どうして。
どうして、あの人は私にあんなものを渡したんだろう。
帰宅してすぐリビングに冷房を強風でいれ、それからバスルームで37度のぬるいシャワーを浴びながら、奏子は考える。
私に電話番号や、メアドを渡して……私が連絡すると思っているんだろうか。
そんな女に見られたなんて……。
奏子は自分が恥ずかしかった。
こんな。
こんな胸焼ける気持ちは……。
あらくん……あらくんに出逢った頃そうだった。
奏子は過去に意識を馳せる。
旭良は、それまで人を本気で好きになった経験などなかった奏子が、一目で惹かれた相手だ。
身長は165㎝と高くはないが、そう見た目は悪くなく、優しくて頭の回転も速く、気配りもさりげない。それは、見合いの席での旭良の振る舞いですぐにわかった。そして、旭良もまた奏子に好印象を抱いてくれたことも。
その席で次に会う約束を交わし、それはその次の約束へと続いて、見合い半年後に結納を交わし、その半年後の季候の良い五月の大安吉日に結婚式を挙げた。
それは、こじんまりとした小さなホテルの教会での挙式、控えめな披露宴だった。父・功造に母・淑子は会社の関係者も招き、盛大な華燭の典にしたかったようだが、当の奏子が首を縦に振らなかった。
それでも、二人がよく食事を重ね、雰囲気をとても気に入っていたホテルでの厳かなチャペルウエディングは奏子の期待通りのものだったし、親族・友人メインのその披露宴はとても心のこもった温かい良い結婚式だったと奏子は今でも懐かしく思い出す。
バスルームから出て、今治の白いバスタオルで髪の滴をよく拭いながら、奏子は書斎の本棚からアルバムを取り出した。
見事な刺繍の施された長いベールを靡かせ、肘までくるシルクのグローブを身につけた両手で、白薔薇のラウンドブーケを持ち微笑んでいる純白のウエディングドレス姿の奏子。オフショルダーの王道クラシカルなそのドレスは、露出も控えめでいかにも奏子らしく、そして奏子の華奢な鎖骨を一層綺麗に見せ、とても上品な印象を与えている。
一方、お色直しでは大胆にデコルテを見せているが、柔らかいオーガンジーのふんわりとしたピンクのカクテルドレスはやはり奏子の優しい雰囲気に合っている。
あの頃は奏子の髪も長かった。
ウエディングドレスの時にはアップに結い、白銀に輝くティアラを冠し、カクテルドレスの時には胸元より長い髪をハーフアップに白とピンクの花飾りで丹念に編み込みあしらっている。
新婚旅行には五泊六日でフランス・ドイツ・スイスに行った。ルーブル美術館でドラクロワの『民衆を導く自由の女神』を生で見た時の衝撃。雨に煙ったレーゲンスブルクの煉瓦敷きの街並みの美しさ。チロル地方の山間部の静かでのどかな風景……チューリッヒからシンガポール航空で帰途に就く時、絶対もう一度、旭良と共に訪れようと思った。
あの頃から自分の旭良に対する愛情は全く変わらない。
それなのに……。
何故、この紙ナプキンを受け取ってしまったんだろう。
手元には、長方形の白い紙片。
それを丸めて部屋の隅の屑籠へ捨ててしまえばいい。
握りつぶそうとして、しかし。
奏子はそれをドレッサーの引き出しに収めた。
それは自分の心をも秘密の小箱にしまい込むかのように……。
***
例年より短かった梅雨が明け、本格的な夏が訪れた。
今年は記録的な猛暑で、体が弱い奏子には殊に堪え、奏子は日中、外出しない日が続いていた。食品や日用品は生協の宅配を利用し、買い物に出かけることもほとんどしない。
あの日以来、『PRIMEVERE』にも行っていない。
リビングのソファに横たわり、好きな音楽を聴きながら静かに気怠い夏の一日をやり過ごす。
自分の気持ちを見つめながら。
清志郎のことを考えている自分に戸惑いながら。
毎朝メイクをする度に、ドレッサーの引き出しの奥にしまい込んだあの紙ナプキンの存在が奏子を苦しめている。
捨ててしまえばいいのに。それができない。
何故。連絡をするわけではないのに。
元々、奏子は物に執着するタイプではない。断捨離もできるし、家の中は整然と片付いている。
それなのに、あれだけが捨てられない。
それは……。
奏子の心の奥底を徐々に浸食していく想い。
奏子の好きな作家・白石雄のエッセイにあった一節を奏子は思い出していた。
“恋はするものではない。恋は堕ちるものです”
その言葉の意味を奏子は考える。
奏子はドレッサーから白い紙片を取り出した。
そして。
震える指で、清志郎のアドレスをスマホのアドレス帳に入力した。
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