ふたりのアラベスク  ──あなたに心、奪われていく

香月よう子

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Frohe Weihnachten !

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やがて陽が落ち、辺りは漆黒の夕闇に姿を変えた。
 その人通りのない散歩道はひっそりと静寂に包まれている。
 清志郎の腕の力が緩まり、奏子の躰から力が抜けた。
 奏子は清志郎の胸に伏せていた顔を上げ、ふたりは初めて見つめ合った。
 清志郎の瞳が微妙に揺らぐ。
 奏子はその深い瞳の色に吸い込まれていった。
 清志郎の口唇くちびるが奏子の口唇に近づいてきて、奏子は再び身を固くし、瞳を閉じた。

 しかし。

 奏子と清志郎の唇と唇が触れあう寸前。
 ふっと清志郎の動きが止まった。
 恐る恐る奏子が目を開けると、まさにほんの目の前に清志朗の顔があった。
 清志朗は実に微妙な切なげな表情かおで奏子を見つめていたが、やがてゆっくりと奏子から躰を離した。

「帰りましょう、奏子さん。家まで送ります」

 そう言うと清志郎は、奏子の右手をその大きな左の掌でそっと包んだ。
 奏子はその掌を握り返し、ふたりは黙って歩き始めた。

 清志朗さん……。
 とくとくと奏子の心臓むねが鳴る。  
 清志朗から抱き締められた。
 自分もまた清志朗の腕の中で、強く清志朗を抱き締めた。

 ”あなたに抱かれてこの世を去るなら死んでもいい”

 紛れもなく清志郎に肌を許し、抱かれるのと同じ重みを持った瞬間だった。
 私は遂に越えてはならない一線を越えてしまったんだろうか……。
 身悶えに奏子の心が惑う内に、しかし奏子のマンションの前まで何事もなくたどり着くと、清志朗は奏子の右手を解放した。

「奏子さん。元気で」

 そう呟き、清志朗は奏子に背を向けた。
 その後ろ姿を見送りながら奏子はいつまでもその場に立ち尽くし、右手に残る清志郎の手の温もりを感じていた。


 ***


 その出来事は奏子と清志郎、ふたりの関係を結することになった。

『病気療養の為、暫く旅に出ます』

 その一言のメールを清志郎は奏子に寄越し、以来、消息を絶った。
 奏子の許に彼からメールが来ることも、彼が『PRIMEVEREプリムヴェール』に姿を見せることもなかった。
 奏子は、彼が精神疾患者だったことを改めて思い出し、自分を心底責めた。

 ”死ね……” 
 ”死んでしまえ”

 その頃から奏子には、そんな声がどこからともなく聞こえてくるようになっていた。
 自分もまた狂っていくのではないか。
 静かに。
 それは奏子の躰も心も犯していった。


 ***


 清志郎が奏子の前から消えてから二週間以上経つ夕暮れのこと。
 奏子は『PRIMEVEREプリムヴェール』の西隣にある瀟洒な建物を訪れていた。
 そこは清志郎の住むマンション。奏子はそれはありったけの勇気を持って、勿論初めてのことだった。

 しかし、
「佐伯様は先日、引き払われました」
 受付のコンシェルジェの女性が奏子にそう伝えた。
「引っ越され、たんですか……?」
「さようです」
 彼女の事務的な声が耳の遠くに響く。

 もう清志郎はここにはいない。
 もう彼に逢うことは二度と出来ない。

 あの日と同じ橙色の大きな夕陽が沈んだ後の空を奏子は見つめている。刻一刻とそれは蒼い薄暮へと、そして濃い漆黒の闇へと姿を変えてゆく。
 その空の色は僅かに滲んでぼやけていた。


 ***


「なんだ、かなちゃん。ケーキ作ったのか」
 帰宅してダイニングテーブルの上を見て、旭良は言った。
 今日はクリスマスイブ。
 奏子は大粒のあまおう苺を乗せた得意の白いオリジナルのブッシュドノエルを作って旭良を待っていた。
 しかし、旭良は奏子の好きな洋菓子店に予約してあった5号の生チョコレートクリームのクリスマスケーキを手にしている。
「気分転換になった?」
「うん……」

 奏子がお菓子を作るのは、気分がいい時か悪い時か。そのどちらかを旭良は判断しかねたが、この頃、朝も起きられず、終日、寝室に閉じこもっているらしい奏子がケーキの材料を買いに行き、その腕を振るったことはとりあえず喜ばしいことだろう。

「かなちゃん、飯は済ませた?」
「うん。ケンタのチキンの宅配で」
「ごめんな。イブなのに一緒に食事も出来なくて」
 旭良が顔を曇らせる。
「私こそごめんね。あらくん」
「何が?」
「だって……。このところまともにご飯も用意できなくて」
「そんなこと気にしなくていいよ。野菜はちゃんと摂るようにしているし、塩分にも気をつけてる」
「でも、外食ばっかりじゃ……」
「今抱えてる仕事がもうすぐ一段落するんだ。そしたらデパ地下で惣菜や弁当買って帰るから、一緒に食べよう」

 こんなに……。こんなにも旭良は優しい。
 なのに、何を自分は惑っているのだろう。
 そう思うのに。清志郎はもういないのに……。 
 なのに、喉の奥に刺さった取れない魚の小骨のように、未だなお清志郎の存在は奏子を苦しめている。

「それよりケーキ食おう。アンリのクリスマスケーキは美味いけど、かなちゃんのブッシュドノエルも食いたいよ」
「飲み物は珈琲とお紅茶、どっちがいい?」
「そうだな。やっぱり紅茶」
「レモン、ミルク、ストレート?」
「すっきりしたストレート」
「じゃあ、ダージリン淹れるわね。今日、ケーキの材料と一緒にフォーション、買ってきたの」
 奏子は嬉しそうにキッチンに立ち、お茶の準備を始めた。

 こんなに調子の良さそうな奏子を見るのは久しぶりだと旭良は思う。そう、いつ頃からか奏子は調子を大きく崩している。それは目に見えて体重が減り、情緒も極めて不安定だ。かかりつけの内科か信頼できる心療内科に連れて行った方がいいかもしれないと密かに旭良は考えていた。しかし、今夜の奏子はいつになく元気そうで、それはイブという華やいだ特別な日のせいかもしれないが、自分の心配も杞憂だったかもしれないと旭良は安堵する。

 その時。
 奏子の携帯の着信音が鳴った。
 スマホを何気なく確認した奏子の顔色が一瞬で変わった。それを旭良には絶対気づかれてはいけないと、奏子は懸命に平静を装う。

Froheフローエ  Weihnachtenヴァイナハテン !』※   

 奏子さん、毎日貴女の夢ばかり見ています。貴女と抱き合ってどこまでも溺れていく夢です。苦しくて苦しくてたまらないのです。こんな夢ばかり見てしまって、貴女には本当に申し訳ないと思っています。

 毎晩貴女を想い、貴女を胸に抱きしめています。

 奏子さん、新しい星の恵みあふれる聖夜に、愛する貴女の幸せを祈ります。

 佐伯清志郎』
 (※ ドイツ語のメリー・クリスマス)    

 それは、あれ以来初めての清志郎からのメールだった。
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