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第28話 プロポーズの朝
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夜が明け始めたころ、屋敷の回廊を静かな風が通り抜けた。
新しい朝の光が石畳を照らし、青い空が広がっていく。
鳥たちの囀りと、遠くで鳴る鐘の音が混ざり合い、
一日が始まる合図を告げていた。
グレイスはいつもより早く目を覚ました。
昨夜はほとんど眠れなかった。
婚約の発表の翌朝――記憶が鮮やかに蘇る。
人々の祝福、笑顔、そして隣にいた一人の男の存在。
「……夢じゃないのよね。」
呟いた声が小さく響く。
まだ信じられなかった。
生き抜くことだけを目標にしていた自分が、
誰かに愛され、共に生きる未来を与えられるなんて。
窓を少し開けると、冷たい空気が頬を撫でた。
庭では子どもたちが花に水をやり、執事が朝の点検をしている。
穏やかで静かな時間。
けれど、その穏やかさの中に胸が少しだけ高鳴るのを感じた。
リーナのノックが響く。
「おはようございます、グレイス様。朝食の用意ができております。」
「ありがとう。……あ、公爵様は?」
「庭にいらっしゃいますよ。今日は、少し特別なご様子で。」
「特別?」
その言葉に首を傾げながらも、グレイスはすぐに支度を整えた。
鏡に映る自分の姿を見て、思わず小さく笑う。
褐色の髪をゆるく結い上げ、地味になりすぎないように淡い薄青のドレスを選んだ。
まるで、この日を予感していたかのようだった。
***
庭に出ると、朝露が光の粒のように輝いていた。
薔薇の香りが風に乗って漂い、夏の始まりを告げている。
数歩先に、背の高い背中が見えた。
「公爵様。」
振り向いたレオンの口元に、静かな微笑が宿っていた。
「おはよう。早いな。」
「公爵様こそ。朝のお散歩、ですか?」
「庭を歩くのも悪くない。……昨夜はよく眠れたか。」
「ええ。少しだけ、ですが。」
微妙な距離を保ちながら会話を交わす。
彼の横顔を見るたびに胸の鼓動が早くなる。
昨日とは違う。
言葉を交わすだけで、世界の色が変わったように感じられる。
レオンはしばらく沈黙したまま歩き出した。
彼の後をついていくと、庭の奥の小道に出た。
そこには新しく植えられた小さな花々が一面に咲いていた。
「この花たち……いつの間に?」
「お前が温室で世話していた苗だ。領民が運んでくれた。」
「全部……?」
「そうだ。皆、お前を祝福したいと願っていた。」
グレイスの目に涙が滲む。
言葉が出てこなかった。
レオンはそれを見て、静かに微笑む。
「嬉しいか?」
「ええ……ほんとうに。」
「なら、よかった。」
彼はゆっくりと頷くと、懐から小さな箱を取り出した。
「……公爵様?」
「まだ“公爵様”と呼ぶのか。」
「え?」
「この先ずっと、そう呼ばれても構わんが……できれば、違う名で呼んでほしい。」
箱が開かれ、中に銀色の指輪が見えた。
中央には淡く青い宝石が輝いている。
それは、冬の空と春の花の色を写したような美しさだった。
「これは……?」
「北の山で採れる鉱石を使った。この領の象徴だ。」
彼は静かに膝をつき、彼女を見上げる。
「グレイス。俺は感情を言葉にするのが下手だ。
戦の世界で生き、心を閉ざしてきた。
だが、お前を見ていると、胸の奥の氷が溶けていくようだった。
生きる意味を教えてくれたのは――お前だ。」
グレイスの手が震える。
彼の瞳が、まっすぐに自分を映していた。
「アルドレッド公爵としてではなく、
ひとりの男として――お前に頼みたい。
これからの生涯を、共に生きてくれ。」
「……っ」
風が吹いた。花びらが風に乗ってふわりと舞い上がる。
涙が視界をぼかす。
彼が笑って見せる。
「泣かせるつもりはなかった。」
「これは、嬉しい涙です。」
涙をこぼしながら、彼の差し出した手を取った。
その瞬間、静かな時間が流れた。
「……はい。わたしでよければ、喜んで。」
「ありがとう。」
レオンは彼女の手を取って立ち上がると、そっと指輪をはめた。
指に触れた金属の冷たさが、次第に温もりへと変わっていく。
「似合うな。」
「そんなこと……」
「嘘は言わん。」
お互いの笑みがほころび、笑い声が混ざった瞬間、
風がまた、一面の花畑を揺らした。
太陽が空に昇り、二人を照らす。
「……レオン。」
「今、なんと?」
「レオン。貴方の名、ちゃんと呼べました。」
「ようやく、だな。」
彼は嬉しそうに一歩近づき、静かに囁いた。
「これからも、呼び捨てにしてくれ。」
「ふふ、考えておきます。」
柔らかな笑顔がこぼれ、二人は視線を交わした。
何も言わずとも伝わってくるぬくもりがあった。
***
後日。
領民の前で改めて二人の婚約が正式に発表された。
広場には花が飾られ、人々が拍手を送る。
民の笑顔、穏やかな風、そして金色に燃える陽光。
壇上から人々を見渡し、グレイスが一歩進み出た。
「皆さん、どうか聞いてください。
わたしはこの地に命を救われました。
そして、この地に与えられた新しい名と、皆の温もりに支えられました。
今度はこの場所を――わたしが守ります。」
拍手が湧き起こり、涙ぐむ人々の中に、レオンの姿があった。
彼は何も言わず、穏やかな微笑を浮かべていた。
その瞳にはただ、揺るぎない誇りと、ひとりの女性への愛が宿っていた。
***
夕暮れ、屋敷の塔の上。
二人は肩を並べ、赤く染まる空を見上げていた。
沈みゆく太陽が海の彼方へ消えていく。
「……長い道でしたね。」
「そうだな。けれど、これからが本当の始まりだ。」
「ええ。」
グレイスが彼の手を取る。
その指には朝に贈られた指輪が光っていた。
「レオン。あの日わたしを拾ってくれて、ありがとう。」
「俺の方こそ、来てくれてありがとう。」
二人の手が重なり、空の灯りが消えるころ、
ひとつの願いが心に浮かんだ。
――この時が永遠に続きますように。
そして、静かな夜が訪れた。
もう涙はない。
あるのは、互いに誓った未来だけ。
(第28話 プロポーズの朝 了)
新しい朝の光が石畳を照らし、青い空が広がっていく。
鳥たちの囀りと、遠くで鳴る鐘の音が混ざり合い、
一日が始まる合図を告げていた。
グレイスはいつもより早く目を覚ました。
昨夜はほとんど眠れなかった。
婚約の発表の翌朝――記憶が鮮やかに蘇る。
人々の祝福、笑顔、そして隣にいた一人の男の存在。
「……夢じゃないのよね。」
呟いた声が小さく響く。
まだ信じられなかった。
生き抜くことだけを目標にしていた自分が、
誰かに愛され、共に生きる未来を与えられるなんて。
窓を少し開けると、冷たい空気が頬を撫でた。
庭では子どもたちが花に水をやり、執事が朝の点検をしている。
穏やかで静かな時間。
けれど、その穏やかさの中に胸が少しだけ高鳴るのを感じた。
リーナのノックが響く。
「おはようございます、グレイス様。朝食の用意ができております。」
「ありがとう。……あ、公爵様は?」
「庭にいらっしゃいますよ。今日は、少し特別なご様子で。」
「特別?」
その言葉に首を傾げながらも、グレイスはすぐに支度を整えた。
鏡に映る自分の姿を見て、思わず小さく笑う。
褐色の髪をゆるく結い上げ、地味になりすぎないように淡い薄青のドレスを選んだ。
まるで、この日を予感していたかのようだった。
***
庭に出ると、朝露が光の粒のように輝いていた。
薔薇の香りが風に乗って漂い、夏の始まりを告げている。
数歩先に、背の高い背中が見えた。
「公爵様。」
振り向いたレオンの口元に、静かな微笑が宿っていた。
「おはよう。早いな。」
「公爵様こそ。朝のお散歩、ですか?」
「庭を歩くのも悪くない。……昨夜はよく眠れたか。」
「ええ。少しだけ、ですが。」
微妙な距離を保ちながら会話を交わす。
彼の横顔を見るたびに胸の鼓動が早くなる。
昨日とは違う。
言葉を交わすだけで、世界の色が変わったように感じられる。
レオンはしばらく沈黙したまま歩き出した。
彼の後をついていくと、庭の奥の小道に出た。
そこには新しく植えられた小さな花々が一面に咲いていた。
「この花たち……いつの間に?」
「お前が温室で世話していた苗だ。領民が運んでくれた。」
「全部……?」
「そうだ。皆、お前を祝福したいと願っていた。」
グレイスの目に涙が滲む。
言葉が出てこなかった。
レオンはそれを見て、静かに微笑む。
「嬉しいか?」
「ええ……ほんとうに。」
「なら、よかった。」
彼はゆっくりと頷くと、懐から小さな箱を取り出した。
「……公爵様?」
「まだ“公爵様”と呼ぶのか。」
「え?」
「この先ずっと、そう呼ばれても構わんが……できれば、違う名で呼んでほしい。」
箱が開かれ、中に銀色の指輪が見えた。
中央には淡く青い宝石が輝いている。
それは、冬の空と春の花の色を写したような美しさだった。
「これは……?」
「北の山で採れる鉱石を使った。この領の象徴だ。」
彼は静かに膝をつき、彼女を見上げる。
「グレイス。俺は感情を言葉にするのが下手だ。
戦の世界で生き、心を閉ざしてきた。
だが、お前を見ていると、胸の奥の氷が溶けていくようだった。
生きる意味を教えてくれたのは――お前だ。」
グレイスの手が震える。
彼の瞳が、まっすぐに自分を映していた。
「アルドレッド公爵としてではなく、
ひとりの男として――お前に頼みたい。
これからの生涯を、共に生きてくれ。」
「……っ」
風が吹いた。花びらが風に乗ってふわりと舞い上がる。
涙が視界をぼかす。
彼が笑って見せる。
「泣かせるつもりはなかった。」
「これは、嬉しい涙です。」
涙をこぼしながら、彼の差し出した手を取った。
その瞬間、静かな時間が流れた。
「……はい。わたしでよければ、喜んで。」
「ありがとう。」
レオンは彼女の手を取って立ち上がると、そっと指輪をはめた。
指に触れた金属の冷たさが、次第に温もりへと変わっていく。
「似合うな。」
「そんなこと……」
「嘘は言わん。」
お互いの笑みがほころび、笑い声が混ざった瞬間、
風がまた、一面の花畑を揺らした。
太陽が空に昇り、二人を照らす。
「……レオン。」
「今、なんと?」
「レオン。貴方の名、ちゃんと呼べました。」
「ようやく、だな。」
彼は嬉しそうに一歩近づき、静かに囁いた。
「これからも、呼び捨てにしてくれ。」
「ふふ、考えておきます。」
柔らかな笑顔がこぼれ、二人は視線を交わした。
何も言わずとも伝わってくるぬくもりがあった。
***
後日。
領民の前で改めて二人の婚約が正式に発表された。
広場には花が飾られ、人々が拍手を送る。
民の笑顔、穏やかな風、そして金色に燃える陽光。
壇上から人々を見渡し、グレイスが一歩進み出た。
「皆さん、どうか聞いてください。
わたしはこの地に命を救われました。
そして、この地に与えられた新しい名と、皆の温もりに支えられました。
今度はこの場所を――わたしが守ります。」
拍手が湧き起こり、涙ぐむ人々の中に、レオンの姿があった。
彼は何も言わず、穏やかな微笑を浮かべていた。
その瞳にはただ、揺るぎない誇りと、ひとりの女性への愛が宿っていた。
***
夕暮れ、屋敷の塔の上。
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沈みゆく太陽が海の彼方へ消えていく。
「……長い道でしたね。」
「そうだな。けれど、これからが本当の始まりだ。」
「ええ。」
グレイスが彼の手を取る。
その指には朝に贈られた指輪が光っていた。
「レオン。あの日わたしを拾ってくれて、ありがとう。」
「俺の方こそ、来てくれてありがとう。」
二人の手が重なり、空の灯りが消えるころ、
ひとつの願いが心に浮かんだ。
――この時が永遠に続きますように。
そして、静かな夜が訪れた。
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