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第20話 「貴方は私を選ばなかった」
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南へと続く街道には、雨が降っていた。
雲は重く、空の端まで灰色に覆われ、馬の蹄がぬかるみを叩く音だけが響いていた。
冷たく濡れた風に吹かれながら、ルシアン・フェルナンドはひとり、王家の封書を胸に抱いて馬を走らせていた。
――家と決別する。
その決意を胸に刻みつけてから、もう三日が経つ。
食も眠りも取らず、ただ王命を果たすために南部へ向かい続けた。
背後から追う兵はない。だが、どこかで父の部下たちが動き出している気配がある。
「父上……なぜ、こんなことを。」
呟いた声は雨にかき消される。
彼の中で、幼い日の父の姿が蘇る。
初めて剣を持たせてくれた日。
誇りを説いた顔で「王に仕えよ」と言った父の声。
その人が、今、王に刃を向けている。
馬を走らせるうち、遠くに家門の砦の影が見えてきた。
懐かしいはずのその光景が、今はまるで異国のように見える。
「ルシアン様!」
守兵が叫び、門が開かれた。
だが、その目に当主の息子を見る敬意はない。
敵か味方か――そんな色だけが浮かんでいる。
館の奥、かつての父の執務室。
厚い扉の向こうに、その人影があった。
「遅かったな、ルシアン。」
低いが力のある声。
銀に光る髪、そして老練な瞳がゆっくりと息子を見上げた。
「父上……」
「王からの使いだそうだな。王命を受けた顔がその誇りか。」
「この書簡をお届けに参りました。――王家は戦を望んでおられません。無用な血を流す前に、兵を退くようにと。」
ルシアンは封書を差し出した。
だが父は受け取ろうともせず、静かに首を振る。
「王太子は理想家だ。民を守るためと称して、我ら古き貴族の誇りを削いできた。力ではなく信頼で国を治めるなど、幻想だ。」
「それでも、殿下は民から信じられています。」
「信じられる者ほど脆い。お前も知っているだろう、ルシアン。人は誰より信じた者に裏切られる。」
その言葉に、胸の奥が疼いた。
クロエの姿が過った。
父の口から語られる言葉が、自分の過去の罪と重なる。
「父上、その理屈は、敗者の言葉です。権力ではなく心で治める殿下を、私は尊敬します。」
「……ルシアン、貴様、王太子に心を売ったか。」
「売ってはいません。あの方は、人の痛みを理解していました。かつての私にはできなかったことを、殿下はしていた。」
「愚か者め。情に流される支配者など長くは続かぬ。お前がその侍女を手放したようにな。」
クロエの名を出さぬまでも、その意図は明白だった。
その言葉に、ルシアンの拳が震える。
「確かに、私は失いました。愛も誇りも……。でも、その過ちはこの手で償うと決めたのです!」
父の目が細まり、かすかに笑みを浮かべる。
「息子よ、貴様も王太子も同じだな。愛に溺れる愚か者だ。」
「……父上。」
「私が剣を取るのは、愛のためではない。代々の家を守るためだ。私が王に仕えた日々を、貴様は知らぬ。」
その瞬間、父の背後から家臣が駆け込んだ。
「閣下、王国軍が北から進軍中です! すでに境界を越えました!」
「何だと……。」
ルシアンは息をのみ、すぐに叫んだ。
「父上、無駄な戦だ! 王太子殿下は交渉の余地を残しています。降伏すれば――」
「黙れ!」
雷鳴のような怒声が響く。
「お前はフェルナンドの名を捨てるのか!」
「名に忠を尽くしても、人が死ぬだけです!」
「それが誇りだ!」
「誇りなら、私は人を生かす誇りを選びます!」
刹那、父の頬を何かが掠めた。
それは涙ではなかった。
瞳に宿るものは怒りと、どこかに押し殺した悲しみの光。
「……行け。もうお前の居場所はない。」
「父上。」
「フェルナンド家から出て行け。お前のような息子は二度と要らぬ。」
「……分かりました。」
ルシアンは深く頭を下げ、後ろ髪を振り払うように部屋を出た。
廊下を歩きながら、心の奥が静かに壊れていくのを感じる。
父に見捨てられたはずなのに、不思議と涙は流れなかった。
ただ胸の奥に残ったのは、あの日別れたクロエの言葉だった。
――貴方は私を選ばなかった。
――でも、貴方が誰かを選べる日が来るなら、それを祝ってあげたい。
「……クロエ。」
雨の音の中で、彼はその名を呟く。
「もう一度、誰かを信じる覚悟を選びたい。」
馬に跨がり砦を後にする頃、南の空に稲光が走った。
遠くの雲の向こう、戦の気配が迫る。
だがルシアンの眼差しには、もはや怯えはなかった。
彼の中には、失ってなお燃え続ける願いがあった。
――この血で、罪を終わらせる。
彼が父を止めるために進むなら、それは破滅かもしれない。
それでも、彼の中で何かが確かに変わり始めていた。
同じ頃、王城の庭ではクロエが王妃と共に祈りを捧げていた。
風に揺れる白百合。その香りが彼女の記憶を掠める。
「クロエ、あなたは強い娘ですね。」セレーネ王妃の声が優しい。
「いいえ、私はただ、信じたい人がいるだけです。」
「ノエルのことね。」
クロエは微笑した。
「殿下はいつだって、孤独を抱えておられる。だから私は、その孤独を支えることができれば、それでいいんです。」
王妃はゆっくり頷いた。
「愛とは、守るための強さを与えてくれるものよ。たとえ離れていても、その絆は消えない。」
遠い南の空を見上げて、クロエは小さく祈る。
戦いの先に待つ未来が、愛と信念で照らされるようにと。
そして、遠く離れた場所で馬を駆る一人の男もまた、同じ祈りを抱えていた。
――もう一度、選びたい。心で、正しい道を。
その祈りが空を越え、風に乗って届くことを、その時の彼はまだ知らなかった。
続く
雲は重く、空の端まで灰色に覆われ、馬の蹄がぬかるみを叩く音だけが響いていた。
冷たく濡れた風に吹かれながら、ルシアン・フェルナンドはひとり、王家の封書を胸に抱いて馬を走らせていた。
――家と決別する。
その決意を胸に刻みつけてから、もう三日が経つ。
食も眠りも取らず、ただ王命を果たすために南部へ向かい続けた。
背後から追う兵はない。だが、どこかで父の部下たちが動き出している気配がある。
「父上……なぜ、こんなことを。」
呟いた声は雨にかき消される。
彼の中で、幼い日の父の姿が蘇る。
初めて剣を持たせてくれた日。
誇りを説いた顔で「王に仕えよ」と言った父の声。
その人が、今、王に刃を向けている。
馬を走らせるうち、遠くに家門の砦の影が見えてきた。
懐かしいはずのその光景が、今はまるで異国のように見える。
「ルシアン様!」
守兵が叫び、門が開かれた。
だが、その目に当主の息子を見る敬意はない。
敵か味方か――そんな色だけが浮かんでいる。
館の奥、かつての父の執務室。
厚い扉の向こうに、その人影があった。
「遅かったな、ルシアン。」
低いが力のある声。
銀に光る髪、そして老練な瞳がゆっくりと息子を見上げた。
「父上……」
「王からの使いだそうだな。王命を受けた顔がその誇りか。」
「この書簡をお届けに参りました。――王家は戦を望んでおられません。無用な血を流す前に、兵を退くようにと。」
ルシアンは封書を差し出した。
だが父は受け取ろうともせず、静かに首を振る。
「王太子は理想家だ。民を守るためと称して、我ら古き貴族の誇りを削いできた。力ではなく信頼で国を治めるなど、幻想だ。」
「それでも、殿下は民から信じられています。」
「信じられる者ほど脆い。お前も知っているだろう、ルシアン。人は誰より信じた者に裏切られる。」
その言葉に、胸の奥が疼いた。
クロエの姿が過った。
父の口から語られる言葉が、自分の過去の罪と重なる。
「父上、その理屈は、敗者の言葉です。権力ではなく心で治める殿下を、私は尊敬します。」
「……ルシアン、貴様、王太子に心を売ったか。」
「売ってはいません。あの方は、人の痛みを理解していました。かつての私にはできなかったことを、殿下はしていた。」
「愚か者め。情に流される支配者など長くは続かぬ。お前がその侍女を手放したようにな。」
クロエの名を出さぬまでも、その意図は明白だった。
その言葉に、ルシアンの拳が震える。
「確かに、私は失いました。愛も誇りも……。でも、その過ちはこの手で償うと決めたのです!」
父の目が細まり、かすかに笑みを浮かべる。
「息子よ、貴様も王太子も同じだな。愛に溺れる愚か者だ。」
「……父上。」
「私が剣を取るのは、愛のためではない。代々の家を守るためだ。私が王に仕えた日々を、貴様は知らぬ。」
その瞬間、父の背後から家臣が駆け込んだ。
「閣下、王国軍が北から進軍中です! すでに境界を越えました!」
「何だと……。」
ルシアンは息をのみ、すぐに叫んだ。
「父上、無駄な戦だ! 王太子殿下は交渉の余地を残しています。降伏すれば――」
「黙れ!」
雷鳴のような怒声が響く。
「お前はフェルナンドの名を捨てるのか!」
「名に忠を尽くしても、人が死ぬだけです!」
「それが誇りだ!」
「誇りなら、私は人を生かす誇りを選びます!」
刹那、父の頬を何かが掠めた。
それは涙ではなかった。
瞳に宿るものは怒りと、どこかに押し殺した悲しみの光。
「……行け。もうお前の居場所はない。」
「父上。」
「フェルナンド家から出て行け。お前のような息子は二度と要らぬ。」
「……分かりました。」
ルシアンは深く頭を下げ、後ろ髪を振り払うように部屋を出た。
廊下を歩きながら、心の奥が静かに壊れていくのを感じる。
父に見捨てられたはずなのに、不思議と涙は流れなかった。
ただ胸の奥に残ったのは、あの日別れたクロエの言葉だった。
――貴方は私を選ばなかった。
――でも、貴方が誰かを選べる日が来るなら、それを祝ってあげたい。
「……クロエ。」
雨の音の中で、彼はその名を呟く。
「もう一度、誰かを信じる覚悟を選びたい。」
馬に跨がり砦を後にする頃、南の空に稲光が走った。
遠くの雲の向こう、戦の気配が迫る。
だがルシアンの眼差しには、もはや怯えはなかった。
彼の中には、失ってなお燃え続ける願いがあった。
――この血で、罪を終わらせる。
彼が父を止めるために進むなら、それは破滅かもしれない。
それでも、彼の中で何かが確かに変わり始めていた。
同じ頃、王城の庭ではクロエが王妃と共に祈りを捧げていた。
風に揺れる白百合。その香りが彼女の記憶を掠める。
「クロエ、あなたは強い娘ですね。」セレーネ王妃の声が優しい。
「いいえ、私はただ、信じたい人がいるだけです。」
「ノエルのことね。」
クロエは微笑した。
「殿下はいつだって、孤独を抱えておられる。だから私は、その孤独を支えることができれば、それでいいんです。」
王妃はゆっくり頷いた。
「愛とは、守るための強さを与えてくれるものよ。たとえ離れていても、その絆は消えない。」
遠い南の空を見上げて、クロエは小さく祈る。
戦いの先に待つ未来が、愛と信念で照らされるようにと。
そして、遠く離れた場所で馬を駆る一人の男もまた、同じ祈りを抱えていた。
――もう一度、選びたい。心で、正しい道を。
その祈りが空を越え、風に乗って届くことを、その時の彼はまだ知らなかった。
続く
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