『働いたら負けだと思ったので、何もしなかったら勝手に勝ちました』

ふわふわ

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第4話「何もしない」のを、一番近くで見ていた人

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第4話「何もしない」のを、一番近くで見ていた人


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 ファワーリス・シグナスの一日は、驚くほど規則正しい。

 起床。
 軽い身支度。
 朝食と紅茶。
 そして、読書。

 婚約破棄の翌日も、その流れは何ひとつ変わらなかった。

「……お嬢様」

 控えめな声で呼びかけたのは、専属侍女のマリエだった。
 彼女はまだ若いが、ファワーリスに仕えて三年になる。

「どうかしました?」

 穏やかな問いかけに、マリエは一瞬言葉を詰まらせた。

「その……王宮のことで、皆さま大騒ぎだと噂で……」

「そう」

 それだけの返事だった。

 マリエは、勇気を振り絞るように続ける。

「……お嬢様は、本当に、何もなさらないのですね」

 責める調子ではなかった。
 ただ、純粋な疑問だった。

 ファワーリスは本から目を離し、マリエを見つめる。

「何か、するべきことがあるかしら?」

「い、いえ……」

 マリエは首を振る。
 だが、その表情には迷いがあった。

「ただ……皆さま、“ファワーリス様は何もなさらなかった”と……」

「ええ」

 ファワーリスは、あっさりと肯定した。

「その通りですわ」

 マリエは思わず声を上げそうになり、慌てて口を押さえた。

「でも……!」

「マリエ」

 柔らかく名を呼ばれ、彼女は背筋を伸ばす。

「王宮で問題が起きているとして、
 それを解決するのは、誰の仕事だと思う?」

「……宰相様や、官僚の方々、でしょうか」

「そう」

 ファワーリスは頷いた。

「では、私は?」

「……王太子妃候補、でした」

「“でした”ですわね」

 その言葉に、マリエははっとする。

「私は、すでにその立場ではありません。
 それでもなお私が動くとしたら――」

 ファワーリスは、静かに続けた。

「それは“余計な真似”になりますわ」

 マリエは息を呑んだ。

「素人が、専門家の領分に踏み込む理由はありません。
 まして、責任も権限もない立場で」

 それは、叱責でも言い訳でもない。
 ただの事実だった。

 マリエは、ふと過去を思い出す。

 王宮での茶会。
 官僚同士の険悪な空気。
 書類の行き違い。

 そのたびに、ファワーリスは前に出なかった。
 ただ、適切な人間を呼び、
 適切な場を整え、
 適切なタイミングで席を外していた。

(……あれは)

 何もしないのではなかった。
 “やらせていた”のだ。

「お嬢様は……」

 マリエは、ようやく言葉を見つける。

「何もしないふりをして、
 全部、正しい場所に戻していただけなのですね」

 ファワーリスは、少しだけ目を細めた。

「ふり、ではありませんわ。
 本当に、私は何もしていません」

 くすり、と微笑む。

「ただ、やるべき人がやるのを、邪魔しなかっただけ」

 その言葉に、マリエは胸の奥がすっと軽くなるのを感じた。

(……そうか)

 “何もしない”とは、逃げではない。
 信頼なのだ。

 役割を理解し、
 責任の所在を尊重し、
 無用な善意を押し付けない。

 それができる人は、案外少ない。

「お嬢様」

 マリエは、深く頭を下げた。

「私、誤解しておりました」

「そう?」

「はい。でも……」

 顔を上げ、はっきりと言う。

「私は、お嬢様が“何もしない”ことを、誇りに思います」

 ファワーリスは一瞬だけ驚いた顔をし、
 すぐにいつもの穏やかな表情に戻った。

「ありがとう」

 そして、本を手に取る。

「さて。
 今日も、何もしない一日になりそうですわね」

 庭園には、変わらぬ陽光が降り注いでいた。
 嵐が近づいていることなど、まるで嘘のように。
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