『働いたら負けだと思ったので、何もしなかったら勝手に勝ちました』

ふわふわ

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第35話 それでも、名前は残る

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第35話 それでも、名前は残る


---

 巻き込めないと悟られ、
 干渉されない静けさが完成したあと――
 世界は、もう一つだけ矛盾を抱える。

 関われないのに、忘れられない。


---

「……最近、
 お嬢様のお名前だけが、
 独り歩きしているようです」

 朝の報告で、マリエが少し首を傾げた。

「名前、ですか?」

「はい。
 “あの方なら関わらないだろう”
 “あの方は動かないから安心だ”
 と……基準のように」

 ファワーリスは、
 一瞬だけ目を伏せ、
 それから静かに言った。

「それは、
 よくあることですわ」


---

 関われない存在は、
 やがて比較対象になる。

 誰かが前に出れば、
 必ずこう言われる。

「……あの方は、
 そんなことはしなかった」

 誰かが責任を押し付ければ、
 こう囁かれる。

「ファワーリス様なら、
 引き受けなかったでしょうね」

 それは称賛でも、批判でもない。

 基準だ。


---

「……基準にされるのは、
 困りませんか?」

 マリエが、遠慮がちに尋ねる。

「ええ、困りますわ」

 即答だった。

「基準は、
 いずれ誰かを縛ります」

「では……」

「ですが」

 ファワーリスは、
 穏やかに続ける。

「私が関与しなければ、
 縛る力はありません」

 名は使われても、
 本人はいない。

 それ以上の影響は、
 持ちようがない。


---

 その日の午後、
 領内の若い役人が、
 少しだけ緊張した様子で言った。

「今回の判断ですが……
 “ファワーリス様ならどうするか”
 と考えてみました」

「結果は?」

「……自分で決めました」

 ファワーリスは、
 小さく頷いた。

「それで十分ですわ」

「ご助言は……?」

「不要です」

 迷いのない声。

「“誰かならどうするか”
 という思考は、
 最終的に捨てるものです」


---

 夕方、
 公爵が娘に声をかける。

「……お前の名前が、
 便利に使われている」

「ええ」

「気分は?」

 一瞬の沈黙。

「不快ではありません」

 だが、はっきりと言った。

「嬉しくもありません」

 それが、
 彼女の正直な感情だった。


---

 夜。

 書斎で、
 ファワーリスは日記を開く。

『名前』

 そう書いて、
 しばらくペンを止める。

 名は、
 人が勝手に意味を与えるもの。

 だが、
 意味を引き受けなければ、
 重荷にはならない。


---

 ファワーリス・シグナスは、
 今日も何もしなかった。

 それでも、
 彼女の名前は残る。

 動かない者として。
 引き受けない者として。
 巻き込まれない者として。

 だがそれは、
 彼女自身の足を止めるものではない。

 名前が残っても、
 本人が立ち止まらなければ、
 世界は何も要求できない。

 何もしないのが勝ち。

 その生き方は、
 ついに“本人不在”でも
 成立する段階に入っていた。

 ――それこそが、
 完全な自由の、
 一つの到達点だった。
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