派手にしない工房は、今日もちゃんと続いている

ふわふわ

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第九話 夜の仕込みと、縮まる距離

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第九話 夜の仕込みと、縮まる距離

 店の扉が閉まり、裏通りに静けさが戻る頃。
 菓子店の中だけは、まだ一日の終わりを迎えていなかった。

 オーブンの余熱が残る空間に、ほのかに甘い香りが漂っている。
 昼の喧騒が嘘のように、今は二人きりだ。

「……今日は、少し疲れましたわね」

 リリカは外套を脱ぎ、椅子に腰を下ろした。
 帳簿はすでにまとめ終えているが、肩に溜まった緊張までは数字に書き出せない。

「ああ」

 シオンは短く答えながら、夜の仕込みに取りかかっていた。
 昼間とは違い、動きはより慎重で、静かだ。

「王城の人間が来るとは思っていましたが……」

「想定より、早かったな」

「ええ」

 リリカは頷いた。

「ですが、まだ“敵”ではありません。興味と警戒、その程度ですわ」

 シオンは粉を量りながら、ちらりと彼女を見た。

「……怖くないのか」

「何がですの?」

「立場がばれたら、すべて終わる」

 その言葉に、リリカは一瞬だけ沈黙した。

「……怖くないと言えば、嘘になりますわ」

 正直な答えだった。

「ですが、止める理由にはなりません」

 そう言って、彼女は立ち上がり、カウンターの内側へ入る。

「何をしている」

「お手伝いです」

 当然のように言い、エプロンを手に取る。

「今日は、何を?」

「明日の“特別な菓子”だ」

 シオンは少し迷い、続けた。

「……工程が多い。面倒だぞ」

「結構ですわ」

 リリカは微笑んだ。

「面倒なことほど、価値があるものです」

 そう言って袖をまくる姿は、王女とは思えないほど自然だった。

 夜の仕込みは、昼とは違う空気を持っている。
 言葉は少なく、音も少ない。ただ、互いの存在だけが、静かにそこにある。

「……慣れているな」

 しばらくして、シオンがぽつりと言った。

「厨房に立つのが」

「見様見真似ですわ」

 リリカは生地を混ぜながら答える。

「数字も料理も、段取りがすべて。似たようなものです」

「……王女なのに?」

 何気ない問いだった。

 リリカの手が、一瞬だけ止まる。

「王女だから、です」

 そう言って、彼女は続けた。

「誰かがやってくれる、では国は回りません。見えないところを知る必要があります」

 シオンはそれ以上、何も言わなかった。

 オーブンに菓子を入れ、焼き上がりを待つ間。
 二人はカウンター越しに向かい合い、湯気の立つ茶を飲んでいた。

「……聞いていいか」

「どうぞ」

「なぜ、俺を選んだ」

 その問いは、これまで避けられてきたものだった。

「他にも、優れた職人はいるだろう」

 リリカはカップを置き、少しだけ考える。

「理由は、三つあります」

「……三つも?」

「ええ」

 彼女は指を一本立てた。

「一つ。あなたの菓子は、本当に美味しい」

 次に、二本目。

「二つ。あなたは、儲けよりも人を優先する。それは、長く続けるために必要な資質です」

 そして、三本目。

「三つ目は……」

 一瞬、言葉を選ぶ。

「逃げない人だと思ったから」

 シオンは目を伏せた。

「……買いかぶりだ」

「いいえ」

 リリカは静かに言った。

「逃げる人は、最初から店を持ちません」

 その言葉に、シオンは何も返せなかった。

 やがて、オーブンが静かに音を立てる。

「……焼けた」

 二人で並んで菓子を取り出す。
 黄金色に焼き上がったそれは、昼間の喧騒を忘れさせるほど美しかった。

「……成功ですわね」

「ああ」

 シオンは、珍しく穏やかな表情をしていた。

 その横顔を見て、リリカは胸の奥が少しだけ温かくなるのを感じた。

(距離が、縮んでいますわ)

 だがそれは、恋と呼ぶにはまだ早い。
 信頼と、安心と、ほんのわずかな予感。

 夜も更け、仕込みが終わる。

「今日は、ここまでですわね」

「ああ。送る」

「結構です――」

 言いかけて、リリカは口を閉じた。

 外はもう暗い。
 王城の人間が動き始めている今、用心に越したことはない。

「……お願いしますわ」

 短く答えると、シオンは何も言わず、外套を取った。

 裏通りを並んで歩く。
 昼とは違い、人影はほとんどない。

「……静かだ」

「ええ」

 その沈黙が、不思議と心地よかった。

 別れ際、リリカは足を止める。

「シオン」

「どうした」

「今日は……ありがとう」

 彼は一瞬驚いたように目を瞬かせ、すぐに視線を逸らした。

「……礼を言われることは、していない」

「それでも、です」

 リリカは微笑んだ。

 その笑顔を見つめ、シオンは小さく頷いた。

「……おやすみ、リリカ」

「ええ。おやすみなさい」

 扉が閉まり、夜が戻る。

 だが、二人の間には確かに何かが残っていた。
 甘い香りよりも、長く消えないものが。

 それはまだ名前のない感情。
 だが、確実に芽吹き始めていた。
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