冷遇された公爵令嬢ですが、敵国の皇太子に溺愛されています

ふわふわ

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第三章 ― 王国の崩壊と、後悔する元婚約者たち ―

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 ラグナ帝国の皇太子妃候補として迎えられ、日々を過ごすようになった フローラ・フォン・リヴェール は、以前の「捨てられた公爵令嬢」という立場を思えば信じられないほど、安定した暮らしを手に入れ始めていた。
 もちろん、すべてが円満というわけではない。ラグナ帝国の中にも、敵国出身の娘を皇太子妃として迎えることに難色を示す勢力が存在する。だが、皇帝の鷹揚な態度と、何より皇太子 クラウス・イーグレッド・ラグナ 本人の厚い庇護があるおかげで、あからさまにフローラを追い詰めようとする者はそう多くはない。
 それに加え、フローラは「逃げ場のない王国での生活」に比べれば、遥かに自由な時間と環境を与えられていた。自分の意思で学びたいことを学び、行きたい場所を訪れられる。それらは王国にいた頃、想像すらできなかった幸福だった。

 そのような新生活を送る中で、フローラは意識的に忙しさを求めるようになっていた。皇太子妃として、少しずつでも国の慣習や貴族社会を理解し、クラウスの手助けをしたい――その思いが日に日に増しているのだ。
 同時に、王国での陰鬱な記憶や、アルベルトに捨てられた苦しみから、やっと前へ進むことができたという安堵もある。だが、その一方で「王国が今後どうなっていくのか」という不安を、フローラは完全に拭い去ることができなかった。
 なにしろ、ラグナ帝国と王国は長年の対立関係にある。フローラ自身が捨てられた経緯を考えれば、いつか両国が正面から衝突する可能性もあるだろう。しかも、その引き金を引くのが自分――フローラの存在ということがあってもおかしくはない。

 しかし、そうした漠然とした危惧は、しだいに現実味を帯びてフローラの前に現れることになる。


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王国で起こる混乱

 一方、その頃の王国では、あからさまな混乱が広がっていた。
 第一の原因は、王太子 アルベルト とその正妃に迎えられた カトリーナ の無能ぶりが、すでに目に余る状態になっていたことだ。
 アルベルトは表向きこそ「新しい王太子妃を得た」「フローラを捨ててカトリーナを選んだ」と堂々と口にしていたものの、その実態はまったくのデタラメだった。カトリーナは平民出身で宮廷教育もなく、貴族社会のマナーや政治の知識にはまるで縁がない。夜会や行事のたびに失態を繰り返し、王侯貴族たちから苦々しい視線を浴び続けていた。
 さらに、アルベルト本人も「フローラは何もできない」と嘲ったわりには、まともな政務を行っていない。彼は若い頃から王子として甘やかされ、実質的に政治に関わることなく過ごしてきた結果、何をどう改革していいかも分からないのだ。
 そのため、王国は過去の慣例や旧来的な政治体制に固執する一方で、隣国ラグナ帝国が軍事力・経済力ともに成長を遂げているのを傍観するしかない状況に陥りつつあった。

 第二の原因は、王国の 国王夫妻 がすでに高齢で、アルベルトのやり方を強く諫める力がないこと。表立ってはアルベルトをフォローするふりをしているが、実際には「早く王位を譲って安泰な老後を送りたい」と願っているようにも見える。アルベルトの失態を真正面から正そうとせず、曖昧にやり過ごしているうちに、宮廷内の権力闘争や腐敗が加速していた。
 かつて「フローラが王太子妃になる」ことで得られるはずだったリヴェール公爵家との政治的安定や、大貴族同士の協力関係は、婚約破棄によって崩れ去ったままだ。そこを立て直すどころか、アルベルトはカトリーナにのぼせ上がって、王国の将来をまるで見ていない状態に陥っている。

 第三の原因は、王国とラグナ帝国の間に再燃しつつある国境紛争だ。元々両国の国境付近では衝突が絶えなかったが、ラグナ帝国が近年になって圧倒的な軍事的優位を確立し、その勢いのまま王国との休戦協定を見直そうと仕掛けてきている。
 王国は領土や交易路の安全を守る手立てを急いで打たねばならないが、アルベルトには有効な対策を講じる力も意欲もない。大貴族たちは焦燥感を募らせるものの、結局どの勢力も「王太子を説得する」あるいは「クーデターじみた動きをする」など大胆な行為に踏み切れず、刻々と情勢は悪化しているのだった。

 そんな王国の事情を表すかのように、リヴェール公爵家もまた、きな臭い動きを見せていた。
 公爵本人――つまりフローラの実父は、フローラをラグナ帝国に送り出した当初、「あちらから有利な話を引き出せるかもしれない」と淡い期待を抱いていたものの、その後まったく音沙汰はない。むしろ、こちらが一方的に連絡を送っても、ラグナ帝国からは何の反応も得られない状況が続いていた。
 さらに、国内においては「フローラを敵国に渡した公爵家は失敗だったのでは」「結局、アルベルトとカトリーナを擁立したがうまくいっていない。ならばフローラを呼び戻したほうがよかったのではないか」などという噂が絶えない。
 公爵の継妻や異母妹に至っては、フローラが敵国でどう扱われているのか知らないまま、「まさかこのまま皇太子妃になるなんてあるわけない」「身ぐるみ剥がされて、遠からず王国に戻ってくるわよ」などと侮っていた。だが、実際にフローラから戻ってくる連絡は一切なく、逆に不安ばかりが募っている。

 誰もが、この王国の行く末にうっすらと暗い影を感じ始めていた。しかし、アルベルトも公爵も、その本質的な危機に向き合おうとせず、曖昧なまま時間を浪費する。
 ――そして、ある出来事をきっかけに、王国はラグナ帝国に対して「和平交渉」という名目で“哀願”を迫らざるを得ない状況へと転がり落ちるのだった。


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ラグナ帝国で聞こえてくる王国の風評

 ラグナ帝国の皇宮で新生活を送るフローラは、ある日、皇太子クラウスの執務室に呼ばれた。
「お前に話しておきたいことがある」
 そう告げるクラウスの表情は、いつになく真剣で、どこか硬さすら感じる。
 フローラが部屋に入ると、クラウスは机の上に広げられた書簡を手渡した。そこには、王国との国境付近に駐屯するラグナ帝国軍の将官からの報告が詳細に書かれている。
「……これは、国境での小競り合いに関する報告……?」
「そうだ。お前も知ってのとおり、王国との間には長年不安定な境界線があってな。最近になって、さらに緊張が高まっている。向こうが我々の領地に侵入してきたとか、あるいはこちらの偵察隊が国境を越えたとか、いろいろ言い分はあるが……真相は王国の内乱じみた混乱に起因しているらしい」
 フローラは息を呑む。
 王国が混乱していることは、噂で少しは耳にしていた。アルベルトとカトリーナが政務を乱し、公爵や貴族の間で権力争いが起きている――そんな話を、ときどき宮廷の人々が「敵国の笑い話」として口にしていたのだ。
 だが、それはあくまでもうわさ話。実際にはどれほど深刻なのか、フローラは実感を持てずにいた。
「そしてこれは、もうひとつの報告書だが……」
 クラウスが指先で示したのは、先ほどより厚みのある書類の束だった。そこには「王国からの極秘要請」について記されている。
「極秘……要請、ですか?」
「ああ。要するに、『ラグナ帝国との和平交渉をしたいが、公式にはまだ大々的に発表できない。そのため、こっそり話し合いの場を設けられないか』という話が向こうから来ているんだ。国王夫妻の名で出されているが、実質的にはアルベルトや貴族たちの足並みが全然揃っていない状態らしい」
 フローラは思わず眉を寄せる。
「そんな……。どうして彼らは今さら……?」
「恐らく、王国内部での不満が高まっているんだろう。ラグナ帝国との国境紛争を放置すれば、いつ我々が侵攻してくるか分からない。それを考えたら、一刻も早く『形だけの和平』でも結んで安心材料にしなければ、王家や貴族たちの地位が危うい。……そう言ってはなんだが、自分たちの保身のためだけに必死になっているようだ」
 そのクラウスの解説を聞き、フローラの胸には複雑な感情がうずまく。自分を捨て去った王国が、今度は国を守るために必死になってラグナ帝国へ頭を下げようとしている……。
 思わず「ざまあみろ」と思いたくなる気持ちと、「それほどまでに王国が追い詰められているのか」という悲哀めいた思いが交錯する。
「フローラ、お前はどう考える?」
 クラウスは、まるで彼女の意見を尊重するかのように問いかける。その声音は、単なる確認ではなく、重要な参考意見を求めているように感じられた。
「……わたくしは、王国の事情を細部まで把握しているわけではないので、偉そうなことは言えません。でも、今のままでは、たとえ和平交渉をしたところで王国が本質的に立ち直るのかどうか……正直、疑問です」
 フローラは胸の奥の思いを、慎重に言葉にする。
「アルベルト殿下は、きっと自分の立場を守るためだけに動いている。貴族たちも、ラグナ帝国と友好を結びたいというよりは、『一方的に助けてほしい』という意識しか持っていない気がします。そういう関係で結ばれた和平が、長く続くでしょうか……」
 言いながら、フローラは辛辣になりすぎていないかと気がかりになる。しかし、クラウスはむしろ満足げにうなずいた。
「俺も同感だ。王国は自業自得で行き詰まっている。なのに、今さら虫のいい話を持ち込んでくるというのは『保身以外に理由がない』としか思えない。……だからこそ、皇帝や重臣たちはどう対応すべきか議論を重ねている最中だ」
「……わたくしに、できることはあるでしょうか」
 言葉を発した直後、フローラは自分の胸が少し高鳴るのを感じた。王国で虐げられてきた自分が、いまやラグナ帝国側の立場として、王国との和平交渉に関わるなど、想像もしなかった立場だ。
 クラウスはほんの少し口角を上げて、彼女を見つめる。
「お前の存在は、王国との交渉において非常に大きな意味を持つ。……だが、無理強いはしたくない。もし王国の連中と顔を合わせるのが嫌だというなら、俺たちだけで話を進める。お前自身の気持ちを尊重したいんだ」
 フローラの瞳に、一瞬戸惑いの色が宿る。確かに、顔も見たくない相手ではある。アルベルトや公爵家の面々を思い出すと、今でも胸がざわつくし、できれば関わりたくないという気持ちもある。
 しかし――。
「いいえ。わたくしは、いずれあの人たちと向き合わなければならないと思います。……ラグナ帝国は、わたくしを受け入れてくださった大切な国。ここでまた逃げるのは、もう嫌なんです」
 静かではあるが、確信を持った声だった。クラウスはその言葉を聞いて、まぶしそうにフローラを見つめる。
「分かった。ならば、お前に協力を頼むことになると思う。父上(皇帝)にも伝えておくよ。……遠からず、王国から特使が来るはずだ。そのときが、いわば『再会のとき』になるだろう」
 フローラはこくりと頷いた。アルベルトたちがどんな形で姿を現そうと、逃げずに受け止めてみせよう――そんな決意が、彼女の中で確かに芽生えていた。


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破綻寸前の王国、そして迫る特使派遣

 一方、王国では日増しに混乱が深まっていた。アルベルトが「ラグナ帝国との和平交渉は任せておけ」と啖呵を切ったものの、具体策は何も出せず、カトリーナは相変わらず宮廷の行事で失態を繰り返す。
 貴族たちは絶望と焦燥を隠せない。中でもリヴェール公爵は、ここでラグナ帝国から有力な譲歩を引き出すことで、自分の家名を再び高めようと画策していた。
(フローラがラグナ帝国に渡ったのだから、奴らも少しくらいは我々に恩を返してくるはずだ……)
 そんな思惑で、水面下でラグナ帝国に「極秘交渉」を持ちかけたのが公爵たちである。だが、ラグナ帝国側の返答は「特使の派遣を歓迎する」という無難なものに留まり、具体的な取り決めには一切応じていない。
 さらに、国境地帯ではラグナ帝国の軍勢がますます強固な布陣を整えているとの報が入る。まるで「交渉をするか、さもなくば武力行使か」と言わんばかりだ――その圧力に、王国は激しく動揺した。
 アルベルトはさすがにまずいと感じたのか、「特使」を派遣して直談判することを決断する。だが、その特使に誰を送るかを巡って宮廷は紛糾した。
「我が家の者を出すべきだ」「いえ、ここは王家の血筋を送るべきだ」――そんな議論が続く中、最終的にアルベルトが下した決定は、当の公爵を含めた数名の貴族連合に特使を務めさせるというものだった。
 ちなみに、アルベルト自身やカトリーナは、身の危険を理由に同行を拒否。王太子としての責務を果たそうともせず、実質的に「公爵たちにすべてを丸投げ」する形になった。
 公爵にしてみれば、これは願ってもない機会でもある。自分がラグナ帝国との交渉をうまくまとめれば、一躍王国の英雄として地位を確立できるからだ。
 それでも、公爵の胸には不安が渦巻いていた。
(フローラは果たしてどうしている……。まさかとは思うが、皇太子に気に入られて本当に皇太子妃などということにはなっていまいな……?)
 フローラはもうとっくに切り捨てたはずの存在、冷遇されて当然の娘――そう何度も自分に言い聞かせても、頭から離れない不安があった。
 だが、王国の危機を前に、そんな私情は二の次。公爵は特使団を率い、帝国へ向けて出発するのだった。


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特使団の到着、そして予想外の展開

 数日後、ラグナ帝国の首都 グラナート には、王国の特使団到着の報が伝えられた。
 皇宮の外で待機していた帝国の衛兵や案内役が、王国の特使を迎え入れる。彼らは豪奢な衣装を身にまとっているが、その顔には明らかな疲労と緊張がにじんでいた。
「遠路お疲れであった。お前たちはこれより皇宮内に通されることになるが、陛下のご許可が下りるまで、しばし控えの間で待機願いたい」
 淡々と告げる帝国側の係官の態度は、礼儀正しいがどこか冷ややかだ。王国の特使たちは、その扱いに苛立ちを覚えつつも、どうにか笑みを保とうと努力する。
 特使団の中心には、リヴェール公爵の姿があった。彼は長旅でくたびれていながらも、威厳を保つために懸命に背筋を伸ばしている。
(何としてでも、今回の交渉を有利に進めなくては……。ラグナ帝国だろうと、こちらには王族と貴族の威光があるんだ。簡単に侮られたままで終わるわけにはいかない)
 そんな思いを胸に、彼は周囲を睥睨する。しかし同時に、フローラの存在が脳裏をちらついて離れない。もし本当にフローラが皇太子妃として認められているのだとすれば、自分たちが優位に立てる可能性もある。だが、何も分からないままここまで来てしまった。

 やがて、準備が整ったらしく、特使団は皇宮内の謁見の間へ案内される。豪奢な造りの廊下を進み、荘厳な扉をくぐると、その奥にはすでに ラグナ帝国の皇帝 が鎮座していた。
 その隣、ほんの少し後ろの席――おそらくは皇太子の定位置であろう場所には、クラウスの姿もある。
 特使団は帝国の慣例に則って膝をつき、まずは国王夫妻からの親書を提出する。すると、皇帝はそれを無言で受け取り、軽く目を通した後、淡々とした声で言い放つ。
「――お前たちは、王国を代表して和平を求めるために来たのだな?」
 公爵を含めた特使たちは、少し迷いつつも肯定するしかない。国王夫妻や王太子の名において、ラグナ帝国との平和的な関係を望む――と書かれた親書がある以上、それ以外の選択肢はない。
 しかし、その反応があまりにも素っ気なく、特使の面々は居心地の悪さを感じる。一歩間違えれば、このまま突っぱねられそうな空気すら漂っていた。
 そんな中、クラウスが口を開く。
「王国は、先日まで我々を侮り続けていたと聞く。にもかかわらず、ここへ来た理由はただひとつ――『自分たちが危なくなったから助けてほしい』ということだろう?」
 冷酷とも言える指摘だが、事実なだけに特使たちは反論できない。口ごもっていると、クラウスはさらに続ける。
「我が父、皇帝陛下は寛大だ。今ここで即座に交渉を打ち切るような無益なことはしない。……だが、条件次第ではこちらも対応を考えざるを得ない。その辺りは理解しているか?」
 明らかにこれは「ラグナ帝国が圧倒的に優勢な立場である」ことを見せつける発言だ。特使たちは焦りを隠せない。
 そこで、リヴェール公爵が意を決して前に進み出る。
「恐れながら、陛下と皇太子殿下に申し上げます。我々王国は、真にラグナ帝国との友好を望んでおります。かつては行き違いがありましたが、今こそ両国の協力を深めるべきではないでしょうか。……その証として、わたくし共の家からも捧げられるものがあるかもしれません。例えば――」
 そこで、一瞬言葉を切る公爵。意を決して放とうとしている言葉は、おそらく「フローラに関する何か」だろう。彼には「フローラはもう用済みだが、もし彼女がこの宮廷で健在なら、その存在を交渉材料に使えるのでは」という打算がある。
 しかし、彼が言葉を継ぐ前に、クラウスは面白そうに口を開いた。
「捧げられるもの……ね。そう言えば、お前たち王国は、かつて我々ラグナ帝国に『公爵令嬢』を送り込んできたそうだが――その娘の名を、確か フローラ・フォン・リヴェール と言ったな?」
 その瞬間、公爵は明らかに動揺を見せる。
「――は、はい。フローラは……わたくしの娘でございますが、いまどうしておられるのでしょうか……?」
 答える声は震えを含み、周囲の特使たちも「まさか本題はそこか」とざわめく。フローラは父親に捨てられたも同然だったことを知る者もいれば、そうでない者もいるが、「リヴェール公爵の令嬢がラグナ帝国の皇太子妃候補になっている」という噂を知らない者はいない。
 クラウスは薄く笑い、立ち上がって言う。
「公爵、ちょうどいい。――今日は、お前たちに会いたいと言っている者がいる。少しばかり待て」
 そう言って扉の方へ視線を送る。すると、そこから優雅な足取りで歩み出てきたのは――。


---

皇太子妃候補の姿をしたフローラ

 光が差し込む扉の前に、フローラが姿を現した。
 王国の夜会で彼女を見たときとは比べものにならないほど、気品漂う佇まい。淡い色合いのドレスは、ラグナ帝国の仕立ての手によるもので、繊細な銀糸と宝石がさりげなく縫い込まれ、彼女の柔らかな雰囲気を引き立てている。
 公爵をはじめ、特使の面々はあっけに取られた。かつては屋敷の奥に閉じ込められていた娘が、今や堂々と皇太子妃候補としてのオーラを放っている――そんな現実を認めたくともすぐには受け入れられない。
 フローラはゆっくりと視線を動かすと、公爵と目が合った。かつての父親、その背後には、フローラを軽蔑していた公爵夫人や異母妹の姿はないが、周囲の貴族の面々が強張った表情で並んでいる。
「ご無沙汰しております……リヴェール公爵閣下」
 静かな声に、公爵は思わず息を詰まらせる。フローラが深々と礼をしたとき、その背筋にはこれまでとはまるで違う、自信と優雅さが宿っていた。
「フ、フローラ……本当に、お前は……」
 クラウスの存在感に押されながら、公爵はなんとか言葉を絞り出す。
「そ、そうか。お前がラグナ帝国で暮らしているという噂は聞いていたが……まさか、ここまで……」
 フローラは微かに微笑し、視線をまっすぐに向けた。過去の辛い記憶を乗り越えた今、彼女の瞳は穏やかでありながら、どこか冷たい光を宿しているようにも見える。
「はい。わたくしは、クラウス殿下……いえ、皇太子殿下のもとで、皇太子妃候補として日々を過ごしております。王国を出て以来、もうかなりの時間が経ちましたね」
 その口調はどこまでも丁寧で礼儀正しいが、かつてのような遠慮深さだけではない。むしろ、公爵に対してもう「娘として」気遣う必要など感じていないかのようだ。
 公爵はさっそく取り繕うように言葉を続ける。
「そ、そうか。ならばお前の身は安泰だな。安心したぞ、フローラ。……実はな、今回の特使派遣には、お前を……ええと、迎え戻すというか、双方で協力し合う糸口を探すという目的もあって――」
「迎え戻す……?」
 フローラは、その言葉にほんの少し苦笑を浮かべた。まるで何か勘違いをしている相手を見るときのようだ。
 一方、クラウスは黙ってフローラを見守っている。彼女がどう立ち振る舞うかを、自分の意思で決めるのを尊重しているのだろう。
 フローラは控えめに息を吐き、皇帝とクラウスへ視線を送ってから、公爵へと向き直る。
「わたくしは、すでにこちらで未来を築こうと決めました。王国の皆さまに見放された身として、ラグナ帝国にお世話になっております。……迎え戻すというのは、どういったご意図でしょうか?」
 その問いは、極めて礼儀正しく、だが明確に「今さら何の用か」と質している。公爵は完全に言葉に詰まった。
「い、いや、その……なに、王国も大変でな。お前が戻ってくれば、王太子妃として……そう、アルベルト殿下とも和解できるだろうし、王国としても……」
 公爵の言葉に、フローラはほんのわずかに顔を曇らせる。だが、その感情はすぐに冷静な色へと変わっていく。
 ――かつて、自分を切り捨てた王国の王太子が、いまさら「和解」などと口にするのか。そんなものは、ただの御都合主義に過ぎない。
 フローラの沈黙が痛々しいほど響いたとき、クラウスがゆっくりと口を開いた。
「公爵。俺が聞きたいのは、ただひとつだ。――『お前たちは、本当にラグナ帝国との和平を望んでいるのか?』 それとも、己の地位を守るためにフローラを利用しようとしているのか?」
 ストレートすぎる物言いに、公爵をはじめ特使の面々は蒼白になる。
「な、何を……」
「お前たちが、どれほどフローラを冷遇してきたのか。それは王国でも噂になっているし、俺たちの耳にも入っている。今さら『戻ってくれば助けてやる』などと虫のいい話をしても、聞き入れられると思うな」
 その鋭利な言葉に、謁見の間は水を打ったような静寂に包まれた。フローラは固唾を呑んで見守っている。

 公爵は震える声で懸命に弁解する。
「ち、違うのだ。わたしはただ、フローラが……その……向こうで不当に扱われているのではないかと心配で……」
「へえ。お前は自分の娘を『無能な令嬢』扱いして捨てておきながら、いまさら心配とな?」
 クラウスの冷笑が、公爵の胸を深く抉る。彼は苦しげに口を開きかけるが、何も言えない。
 フローラは目を伏せて、すっと息を整える。そして、しっかりとした声音で言い放つ。
「公爵閣下、わたくしはもう『あなたの娘』ではありません。あのとき、わたくしを捨てたのはそちらですし、王太子殿下もわたくしを要らないとおっしゃいました。今のわたくしには、ラグナ帝国こそが大事な居場所です。……どうか、そこを誤解なさいませんように」
 その言葉は、フローラが長年味わってきた悲しみや屈辱を消化し、今ここにいるという証のようでもあった。
 公爵は顔を歪め、うめき声のような喘ぎを漏らすが、反論の余地はない。特使の面々も「これでは交渉どころではない」と頭を抱える。彼らの目論見であった「フローラを交渉の切り札にする」戦術は、開始早々に粉砕されたも同然だった。

 クラウスは、そんな公爵らの惨めな様子を一瞥すると、淡々と宣言する。
「我々ラグナ帝国は、王国との和平交渉を拒否するつもりはない。ただし、その条件は我々が定める。国境地帯の再編や、交易ルートの優先権、また軍事行動の制限など、相応に厳しい要求になるだろう。お前たちにそれが飲めないなら、すぐに帰れ」
 その断固たる態度に、特使たちは何も言えなくなる。表向きは交渉と称しているが、実際には「徹底的に譲歩を迫られる」形に他ならない。
 そして、フローラの目を前にして何もできない公爵の姿を見た他の特使は、内心「これでは帰国しても我々はどうなる……」と暗い想像をかき立てられた。


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フローラの決断と、ざまあなる王国の行く末

 かくして、王国の特使団はラグナ帝国の皇宮内で、著しく不利な立場に追い込まれることとなった。
 彼らがいくら「和平を結びたい」と願っても、それはラグナ帝国の意向に沿う形でしか許されない。そもそも、実質的に戦力で勝ち目がない以上、王国には厳しい条件を吞む以外の選択肢などなかった。
 フローラは――というと、皇帝やクラウスの傍らで、この経緯をすべて見届ける立場にあった。かつて憎んだわけではない父を前にしながらも、彼女の心は不思議と冷静だった。
 公爵家の人々に裏切られ、アルベルトに侮辱されてきた記憶が、もう過去の痛みとして胸に残っているだけで、彼らに対して怒りをぶつけようとも思わない。むしろ、ここまで来ると「あわれ」に近い感情を抱くほどだ。
 それでも、あのときの自分に言い聞かせるような思いが湧いてくる。――「逃げるのではなく、今を見据えて進んでよかった」と。

 数日の交渉を経て、王国の特使団はほぼラグナ帝国の要求を丸呑みする形で「新条約案」への仮調印を行う羽目になった。貿易の関税や国境近くの一部領土の管理権など、王国にとっては大幅な譲歩を余儀なくされる内容だ。
 さらに、「万が一、条約に違反するような事態があれば、ラグナ帝国は軍事介入も辞さない」という一文が付け加えられており、もはや王国が帝国の属国のように振る舞わざるを得ない状況になりつつある。
 公爵らは、それでも「国を守るために仕方がない」と自分に言い訳しながら、帰国の途につく。帰国後は、さらに激しい非難や混乱が待ち受けているだろうが、ラグナ帝国の条件を呑む以外に道がなかったのだから仕方ない。

 そして、今回の交渉の過程で、フローラが「皇太子妃候補」として帝国で明確に認知され、ひとかどの地位を築いている事実も、公爵たちの間で痛いほど知らしめられることになった。
 彼らにとっては、まさに「ざまあ」な結果だ。捨てた娘が、より強大な国で高い地位を得て、自分たちに致命的な譲歩を飲ませる原因の一つとなったのだから。
 公爵は帰国の馬車の中で、まるで白髪が増えたかのようにげっそりとしながら、何度も「まさか……まさか……」とつぶやいていた。後悔しても、もう手遅れ――という事実を突きつけられているかのようだ。
 さらに、アルベルトとカトリーナの耳にこの結果が伝われば、どれほど動揺するだろう。彼らは、自分たちが捨てたフローラがラグナ帝国で溺愛されていることすら知らないままだろうし、王国の没落がさらに加速するのは明らかだ。


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クラウスとフローラ、それぞれの想い

 交渉がひと段落した翌日の夕方。フローラは皇宮の中庭で、クラウスと二人きりになっていた。
 池のほとりには白亜の石ベンチが置かれ、フローラはそこに腰を下ろしている。クラウスは隣に立ったまま、そっと彼女の肩に手を添えた。
「……大丈夫か? お前にとっては、きつい時間だっただろう」
 フローラは小さく首を振る。
「いえ。わたくしは、むしろ少し気持ちが整理できたような気がします。……もう、王国の人々が何を言おうと、わたくしはここにいる。それだけで十分なんです」
 そう言ったとき、フローラの瞳には小さな涙が滲んでいた。悲しみというよりは、長年の重荷が解けるような開放感に近い。
「でも、王国の行く末を考えると……残念と言うべきか、胸が痛むような気持ちもあります。あそこには、わたくしの生まれた家や、優しくしてくれた人も僅かですがいたんです。皆が苦しむのは、嫌だなと思ってしまって……」
 それがフローラの優しさであり、悲しさでもある。王国に捨てられた身でありながら、その行く末を案じる気持ちを完全には消せないのだ。
 クラウスは穏やかに頷き、フローラの頭を軽く撫でる。
「お前がそう思えるのは、お前の強さだ。……だが、あの王国が本当に破綻しないよう踏みとどまるかどうかは、結局やつら次第だ。お前が責任を負う必要はないし、お前の優しさを踏みにじるような行動をとるなら、それは自業自得だろう」
 フローラは息を詰め、そして微笑もうとするが、その唇は震えていた。クラウスは少し身を屈め、フローラの目線まで顔を近づける。
「……お前が泣きたいなら、泣いてもいい。俺は、お前の涙を受け止めたいと思ってる」
 その言葉に、フローラは堪えていたものが一気に解けるような感覚を覚えた。頬を伝う涙は、王国で孤立していた頃には誰も受け止めてくれなかった感情の結晶だ。
「ごめんなさい……ありがとうございます……」
 フローラは小さくつぶやきながら、クラウスの胸にそっと顔を埋める。彼はしっかりとその華奢な肩を抱き、優しく背中をさすった。

 ――王国の混乱はまだ収まらないだろう。むしろ、これからが本当の破綻の始まりかもしれない。
 だが、フローラはもはやそこには帰らない。自分を見捨て、捨てた国と家族がどんなに後悔しようと、彼女の居場所は「ラグナ帝国」と「クラウス」のもとにある。
 かつての苦しみを経て、ようやく手に入れた愛と尊厳――それを、もう誰にも奪わせはしない。

 そして、この先どんな波乱が起ころうとも、フローラは逃げずに立ち向かうだろう。ラグナ帝国の皇太子妃候補として、クラウスの隣を歩む覚悟を決めたのだから。
 王国の者たちがどれほど嘆き、歯噛みしようとも、フローラの新しい物語は、彼女の望む形で進んでいく。かつての屈辱はすべて「ざまあ」と言い返すように、優しく、そして凛とした笑みを浮かべながら――。


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