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第9話 天使の皮が剥がれ始める
しおりを挟む王都の昼下がり。
市場の喧騒に混じって、ある噂が火のついたように広まり続けていた。
「リリィ様、また代金を払わなかったって……?」
「昨日は宝飾店で“殿下が必ず払うから”って言ったとか」
「しかも店主が催促に行ったら、殿下が逆ギレされたらしいぞ」
平民たちの間でも、リリィの不穏な行動は徐々に知られ始めていた。
その一方で、エレノアの屋敷はというと――
庭のベンチで昼寝にちょうどよい柔らかな空気が流れていた。
「……ふわぁ……昼寝って、こんなに幸福度が高いものだったのですわね」
ミリアが静かに頷く。
「お嬢様……王都が混乱しているのに、よく眠れますね」
「眠れますわ。なぜ王都の混乱でわたくしの睡眠が乱れますの?」
エレノアは真顔。
ミリアは何も言えなくなる。
そんな中、屋敷の門前がざわついた。
急ぎの使者が駆け込んできたのである。
「エレノア様! 王都でまた大変なことが!」
ミリアが慌てて駆け寄る。
「今度は何かしら?」
「リリィ様が……ついに盗難の疑いをかけられたようです!
しかも、殿下が庇うあまり、側近を全員解任してしまったとか……」
エレノアはまばたきを二度。
(え……あの殿下、そこまで……?)
ミリアが詳細を説明する。
「市場で商品を持ち逃げしたとして、店主が被害を訴えたのですが……
殿下が“リリィを疑うな!”と怒鳴りつけたらしく……
王宮内でも“殿下が常軌を逸している”と……」
「まあ……」
エレノアは優雅に紅茶を飲んだ。
(むしろ今までよく王子が持ちこたえていたものですわね。
盲目的な恋は、破滅の近道ですのに)
使者は続けた。
「その混乱を受けて、国王陛下が再び“エレノア様に戻ってきてほしい”と、
一部の貴族に漏らされたようで……」
ミリアが青ざめる。
「お嬢様、まさか……!」
「戻りませんわよ?」
エレノアは即答した。
「なぜ戻る必要がありますの?
王宮より、わたくしのお昼寝の方が大事ですわ」
ミリアは思わず胸を押さえる。
(この方……本気で言ってますわ……!)
その時、別の侍女が手紙を持って駆け込んだ。
「お嬢様! ノルヴィア公爵家から、さらに続報が!」
エレノアは首をかしげながら受け取る。
先日の文と同じ、力強く整った筆跡。
『王都の情勢は既に調査済み。
あなたが無関係であることも理解した。
近日、直接伺う。
ライナルト』
エレノアは軽く目を見開いた。
「……直接? 公爵様が?」
ミリアが息を呑む。
「とうとう……! ついに動かれたのですね……!」
「わたくし……何もしてませんけれど?」
「それが……逆に、公爵様の興味をそそっているのでは……?」
エレノアは困ったように紅茶を置いた。
(興味……といわれましても。
わたくし、ただ自由を堪能していただけですし……
“泣き崩れる演技”が完璧すぎたことも原因かしら?)
ミリアは静かに頷く。
「お嬢様、あの演技が……公爵様の『変だ』レーダーに引っかかったのだと思います」
「まあ、余計なことを……」
エレノアは額に手を当てた。
(泣かなければよかったわけではありませんわね……
あれはあれで世論が助けてくれましたし)
その頃、王都の城壁の外――
黒い軍馬に乗った男が、部下を従えて進んでいた。
ノルヴィア公爵ライナルトである。
「準備は整った。王都へ向かう」
部下たちは緊張した面持ちで答える。
「承知いたしました、公爵閣下!」
ライナルトの表情は厳しく、そしてどこか鋭い。
「エレノア・アルディナ……。
なぜ泣いた?
なぜあれほど静かに身を引いた?」
その疑問を解くため、
ついに本人のもとへ赴く決意を固めたのだった。
一方その頃のエレノアは、まったく緊張していない。
「ミリア、今日のおやつは蜂蜜ケーキにしましょう。
公爵様が来られるなら、おもてなしの練習にもなりますもの」
「お嬢様……公爵様を“お客様扱い”しているのは多分あなただけです……」
自由を謳歌する令嬢と、
彼女に確信を得たい公爵。
その二人が出会う日は、もうすぐそこだった。
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