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34話 すぐそばの腕の中
しおりを挟む夕暮れの公爵邸。
エレノアは資料を返しに、書庫のある二階へと向かっていた。
昼間の“胸のざわめき”がまだ抜けきらず、
階段を上りながら小さく息をつく。
(……あの文官の方。綺麗な人だったわ……
公爵様と並んで立つ姿、自然だったもの……)
思い出すだけで、また胸がモヤモヤしてくる。
(わたくし、どうしたのかしら)
自分の変化に気づいて戸惑いながら、
階段を下りようと一歩踏み出した――その瞬間。
「きゃっ――!」
足が、滑った。
視界が傾く。
体が宙に浮く感覚。
落ちる――そう思った刹那。
ぐい、と腕に引き寄せられた。
「危ない!」
力強い腕が、エレノアの身体を支えていた。
落下の衝撃はなく、代わりに感じたのは――温かい胸元。
息が止まる。
「……大丈夫か?」
耳元で低い声がした。
エレノアは公爵の胸に抱き込まれる形で、
すっぽりと収まっていた。
(ち、近いっ……!)
頬が一気に熱くなる。
心臓が跳ねるたび、体中がくすぐったい。
「エレノア」
名前を呼ばれただけで心臓が跳ね上がる。
顔を上げると、至近距離でライナルト公爵の瞳があった。
真っ直ぐで、深くて、逃げられない。
「怪我は……ないな?」
「は、はい……」
声が震える。
彼は気づかない。
その腕の中が、どれほど安心する場所か。
どれほど、離れたくないと思ってしまったか。
公爵はゆっくりと腕を緩めながらも、
まだエレノアの肩から手を離そうとしなかった。
「階段は危険だ。君は軽いから、余計に転びやすい」
「そ、そんな……子どもみたいに……」
「子ども扱いなどしていない。
ただ……君が傷つくのは、耐えられない」
「……っ!」
心の奥まで真っ赤になる。
(な、なにを……どうしてそんなこと……)
言葉に詰まったエレノアを見て、
公爵がふっと息をついた。
「……驚かせたか。すまない」
「い、いえ……その……」
どう返せばいいのかわからない。
胸の鼓動だけがやけに大きく響いていた。
しばらく二人は、階段の途中で黙ったまま立っていた。
離れたくても、離れたくない。
そんな曖昧な空気が満ちる。
先に視線を逸らしたのはエレノアだった。
「……あ、あの。もう大丈夫ですので」
「そうか。だが、これからは気をつけろ」
「は、はい……」
ようやく解放されると、
エレノアは胸に手を当て、息を整える。
(な、なんなの……さっきの感覚……)
落ちる恐怖よりも――
彼に抱きとめられた温かさのほうが、
強く記憶に残っていた。
階段の下から、こっそり様子を見ていた侍女マリアンヌが
「はい確信しました」みたいな顔をしていたのに、
エレノアは気づかない。
恋は、もう始まっていた。
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